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「鳳姉様、紅です」
「入ってきなさい」
室内に入ると紅は濁った空気が喉元を通る感覚に、慣れてはいても「うっ」と顔を顰めてしまう。足を踏み入れるなり辺りを見回すと床には碁石、お手玉、書物に筆と、ことごとくが無造作に落ちており、散らかりようが酷い。中でも何に使うのか、数十個のお手玉には不気味ささえある。
数十歩歩けば壁に当たるこの部屋は紅の感覚では狭く、窓も閉めきっている為、苦しいことこの上ない。紅としては、なぜもっと良い部屋に移らないのか心底分からない。
「どうかしましたか? 早くお座りなさい。部屋のことで何か言いたいのなら座ってからでも遅くはないでしょう」
「はい。それもそうだわ」
紅は声の主、対面の席へと腰かける。
声の主の名は『武鳳赤凰』紅の姉で八歳違いの二十二だ。武家の女の美貌は言うまでもないことではあるが、誰もがもろ手を挙げて美しいと言う紅の美貌に対し、武鳳赤凰の場合は大抵が表現に窮する。透き通るような白い肌は紅と同じはずなのにどこか病的であり、目鼻顔立ちは全てが完璧と言えるはずなのに、「死人の様な」と口を開いてしまいそうになる程に生気を感じられない。表情も決して無表情ではないのだが、何故か生きた息吹が感じられず、人形のような不気味さが人の心を戸惑わせる。彼女の美を表す表現として常用されてきたのが『常世離れした美しさ』『儚げな美しさ』ではあるが、その実誰もが心の中で『死人の美しさ』と思っていた。
「換気くらいすればいいと思うわ。あともう少し片付けたらいいんじゃないかしら? これじゃあさすがに恥ずかしいかと思うのだけど」
「あら? 毎回同じことを言うのね。窓は開けたくないから嫌よ。落ちてるものはそうね……いいのよ誰も見ないのですから」
「あら? 姉様こそ同じ答えだわ。どうせ同じ言葉を毎回言うのでしたら合言葉にしてしまえばいいのよ」
紅がぱんっと両手を叩いた。
「子供みたいなことを言わないの」
「ごめんなさい」
紅はこの姉のことを慕っている。王宮内では公式の場ですら滅多に部屋から出てこず、女中すら近づけない彼女を不気味がる者が多い。しかし紅にとってはこの姉は昔からこの有様だったのだ。今更不思議がることもない。公には病弱であると言ってお茶を濁しているが、この見るからに弱弱しい姉が病気をしているのを紅は一度も見たこともない。父親である王のいたってはなぜかこの姉を怖がっている節さえある。紅には周りの反応が不可思議でならないが、自分には基本的にやさしいのだ。嫌いになるなど出来るはずもない。
「それで聞いて! 鳳姉様!」
「なにがあったの? 紅妹」
紅は随分と腹を立てているようだ。卓をバンッと叩いて憤りを表現している。その淑女らしからぬ行為に武鳳赤凰は眉を顰めるも、部屋すらこの有様の自らが言えることでもなし、誰が見てるでもない。黙って言葉を待った。
「お父様が私に嫁に行けっていうの……顔も見たことのない賽国の王子のところよ! 賽国の蛮族に嫁ぐなんて! いやよ!」
「あら、紅妹を贔屓してる司徒も元は賽国の官僚よ?」
司徒は三公のひとり内政の責任者である。先の賽国との再同盟と同時に赴任した人物であり、明らかに賽国の差し金である。内政を司る重大な責務を他国の役人が負っているのだ。これもまた各地で起きる反乱の要因である。
しかしこの人物、その書生人風な風貌に似あって人柄は極めて温厚で思慮深く、気も利くとあって王宮内で表立った敵意を受けずにいる。また紅には特に気が利いており、老正狭が城下に訪れていることをいち早く聞きつけ、紅の為に呼び寄せたのも司徒であった。その為、紅の覚え良く、それがまた王宮内で敵を作りづらくしていた。
感情的な紅とは対照的に武鳳赤凰の反応は酷く冷静だ。
(十中八九、紅妹は人質ね。むしろ遅いくらいだわ。まさか第一王子に嫁ぐわけでもなし、あわよくば武家の武芸を取り込もうというところでしょうか?)
武国は初代王が女王であり、女性の権限が高く、武王赤映姫がただ一人を愛したことから王家では他国家と違い一夫一妻が常識であるのに対し、賽国は王家の常である子孫繁栄の為、一夫多妻を取っている。ともなれば縁者の数も相当数であり、序列が下位に近づく程その権限は低くなる。紅が嫁ぐとしても決して序列の高い方ではないだろう。序列が高い者に嫁ぐのであればそれは、将来賽国をも動かす力を紅が得ることになり、武国の繁栄に大いに役立つが、下位の者であれば紅の役割は人質以外の何物でもない。
「それで? 誰に嫁ぐのかしら?」
紅の怒りに何も感じないのか、冷静にそう聞いてくる姉に紅は酷く不満ではあったが、そこは表情に留め、返事をする。
「そんなこと聞く前に逃げ出してやったわ!」
「どうだ」と言わんばかりである。
紅は姉に同調して欲しいのだ。今まで異性を思ったこともない紅である。急に婚姻と言われても憤りばかりが募り、暴れだしたいくらいなのだ。それでも姉が一緒に嘆いてくれれば少しは気が安らぐかと思っていた。
しかし姉の反応はこれまた紅の予想外である。
「紅。陛下に失礼があったんじゃないでしょうね? 父上といえど陛下はこの国の王なのです。それ相応の礼儀をもって接しなければなりません」
「もう! もちろん礼儀は守っているわよ! それより姉様はいいの! 私が嫁に行っても!」
憤懣遣る瀬無い紅はついに姉に向かって声を荒げた。目元には薄らと涙が滲み出てきており、普段明るく大人びた紅が心底苦しんでいるだろうことがよく分かった。
武鳳赤凰は紅の反応に少しだけ面食らい、自らの言葉を顧みて紅が怒るのももっともだと思い慰めの言葉をかける。
「私は紅妹がいなくなるのは嫌ですよ。紅妹がいなければ誰が私の話し相手になってくれるのですか? 紅妹は嫁に行こうがすぐに友を作って話し相手には事欠かないでしょうけど、私の方は困ったものです。ですから分かりますか? あなたが嫁に行って困るのは紅妹、あなた自身ではなく私の方なのですよ? 故にそのように怒らなくてもいいのです。なぜならば怒らなければいけないのは私なのですから」
論点が『婚姻』ではなく『話し相手』になっていることは紅も気付いたが、姉の奇妙な慰め方に思わず笑いが込み上げてきた。
「ふふふっ、やっぱり姉様は面白いし優しいわ!」
「何がおかしいのです?」
「何か分かっていないところがいいのよ」
武鳳赤凰は、紅の言葉になるほどと思い、それ以上聞かなかった。知らないことで紅が笑顔になるならば、それはそのままが良いと思ったのだ。
姉が何故か軽口に納得しているのを見て、紅は更に笑みを深めた。元々深く悩む性質ではない紅は怒りを吐き出し、笑ったこともあって随分と気持ちが軽くなる。すると途端にお喋りな一面が顔を出してしまう。
「今日、老正狭と稽古したの。随分と褒めて下さったわ。でも私を弟子にしようとするから断ったの。誰もかれも私を弟子にしたがるなんてやっぱり私はお母様の才能を受け継いでるのね。それを今日再確認しましたの」
実際には老正狭が紅に武術の基礎を教えようとしただけで、弟子にしたがったという事実はないのだが、話に色を付けるのはこの時代の女性の常である。
「なぜ弟子にしてもらわなかったのですか? 老正狭は弱きを助け強きを挫く義侠の人と聞きます。また架泉派の武芸は連撃の拳と、必殺の蹴り。岩をも砕く『無双脚』と言えば悪党どもはその名を聞くだけで震えあがると言います。これ程師事するに値する方と言えば将軍の義叔父様を除いては他にいないでしょう」
「姉様、分かって言っているでしょ? 私はお母様の弟子なのよ。武芸の出来ない姉様には分からないかもしれませんが、そのお母様より弱い相手に師事するなんてお母様への冒涜になるじゃあ、ありませんか。ですから、私が師事を受けていいのは叔母様だけなのよ!」
紅が知る限り姉の武凰赤凰は武術についての見識だけは何故か広いが、自らが実践しようとはせず、稽古場に姿を見せたことなど一度としてない。武国の民ならば老人から子供に至るまで何かしらの武術を使えるのだが、この姉は部屋を出ることを嫌い、紅の修練の誘いもことごとく断るのだ。
しかし紅の武術への口出しだけは昔から煩く、基本的に姉のことを慕ってはいるが、その口出しだけは紅も嫌いなのだった。
「武術はその腕だけが良いだけが重要なのではありません。その心を大切にするのです。私は常々紅妹、あなたには義と狭を大事にしなさいと言っていますね。であれば自ずと師事を受けるべき御先輩方も分かるというものです」
紅は頬を膨らませて拗ねている。そう、本当に姉は毎回同じことを言うのだ。紅にはどれだけ説明されても分からない。正しい人間の師事を受けなければならないと言うのはもっともだと思うが、それがどうして『天下一』であり『武道教筆頭』である叔母でないというのだろうか。
「叔母様は武に取り憑かれています。我らが母もそうでした。言ってしまえば武王赤映姫もそうでしょう。王宮には記録が残っていますね。『廟後書記』は読みましたか? 夫であり宰相でもあった武子安が武王赤映姫について語っています。そこから読み取るに彼女は武に取り憑かれながらも情をもって王に成りえたのです。しかし……母上は……叔母様は昔であれば、武王赤映姫に通じるものがあったでしょう。しかし、もう八年も会っていません。本当の意味で武術を学ぶと言うのであれば、やはり私は将軍である義叔父様を推薦します。私は何度でも言い聞かせましょう。武に取り憑かれてからでは遅いのです」
「やっぱりわからないわ。武に取り憑かれるだなんて怖い言い方を姉様はなさるけど、結局はそれだけ真剣に武芸にのめり込んでいるということでしょう? それと人柄は関係ないことではなくて?」
武凰赤凰は深くため息をついて悲しげに言葉を綴る。
「そうではないのです……そうでは……」
と、女中が武凰赤凰を呼ぶ声がした。
「鳳赤凰殿下! 武赤麗真人殿がお見えです」
「はい。ただいま参ります。それにしても思いの他早かったですね」
「はい、なんでも直接来られたようで武道教の方へは寄らなかったもようです」
「なるほど、分かりました」
そう言って武凰赤凰は立ち上がる。
「え?」
今のやり取りを紅が理解するまで暫くかかった。叔母である武赤麗は八年もの間、修行の為山に籠っており、俗世との縁を断って隠者となっていたのだ。山を下りることがあれば親族に会いに王宮に来るだろう。その時こそ弟子にしてもらおうと長年夢見てきたのだ。それが今日、武赤麗真人が来ていると聞いて、もう心は飛び上がらんばかりである。
「お、姉様! 姉様! 叔母様が来ていらっしゃるのね! そうなのね! 鳳姉様は知っていらしたのね! どうして黙っていらしたの! ああ! そうだ! 私を驚かそうとしたのね! ええ! 驚いたわ! 心の臓が飛び出さんばかりだわ! さぁ! さぁ! 早く会いに行きましょう!」
紅の喜びように武鳳赤凰は一瞥くれるだけで。「行きますよ」と一声、未だ興奮冷め止まぬ紅を伴って部屋を出る。
女中の案内のもと、一つの客室の前まで来ると「私はここまでで御座います」と女中は下がっていった。
武鳳赤凰が部屋の中に声を掛けると、美しくも威厳のある声が入室を促す。声に従って入る姉の後に紅は続く。
部屋の中で威風堂々と立ち、こちらを見る女性こそが武赤麗だと紅もすぐに知れた。しかしその姿が五十も目前のはずなのに妙齢と言って差し支えない美しさを誇っており、若々しさに溢れていくことから本当に自分の叔母であるか俄かには信じがたかった。
紅が物心付く頃には叔母はすでに山に籠っていたのだ。しっかりと両の目で姿を見たのは初めてと言えるだろう。紅が驚いている間にも時は進み、武鳳赤凰が武赤麗に声を掛ける。
「叔母様。大変お久しぶりでございます。内攻の修練が境地に達すればその姿は若返ると申しますが。まさに叔母様の内力は至高の高みに達せられているようですね。私が最後にお見受けした八年前よりさらにお若く見えますわ」
武凰赤凰のお世辞に武赤麗は眉一つ動かさない。
「私との連絡方法をどこで知った? 赤儒から聞いていたか?」
山に籠ることは若い時から何度かあった武赤麗は、溺愛する妹であり紅達の母である、武赤儒にだけは何かあった時の為に緊急の連絡方法を教えていたのだ。『武道教』の人間を使い、暗号をもってして言葉を伝え、武赤麗の籠る霊山の近くで筒を使い信号を送るというものだ。これは使われた『武道教』の道士たちも自らが何をしているのか分からないところが肝である。
この信号を見て慌てて王宮までやってきた武赤麗ではあったが、よく考えれば妹は八年も前に亡くなっているのだ。だからこそ誰が呼んだのか不思議でならなかった。
「はい。その通りです」
「そうか、納得した。で? 要件はなんだ?」
紅は二人の話に入ることが出来ずどうしていいのかわからない。
「私を弟子にしてくれませんか?」
「え?」
つい声を上げてしまったのはもちろん紅だ。驚き隣の姉を見上げてみればこちらも表情一つ変わらない。
(私に駄目だと言っておきながら……)
そう思うと紅の中で裏切られたという思いと、騙されたという思いが怒りに変わり沸々と込み上げてきた。しかし今は叔母の御前である。ここで怒りを露にすれば、叔母の顰蹙を買うことになるだろう。必死に怒りを抑え余裕たっぷりに言った。
「叔母様。姉は武術が出来ないですし、体も弱いのです。弟子にするなら私の方にしてくださいな」
紅の言葉に武凰赤凰は何の反応もない。
「お前は赤華か? 随分と大きくなったものだ。それで鳳赤凰。お前はなぜ私に師事する気になった。『功女聡派』の秘伝書は全てお前が受け継いでいるのだろう。今更、『武道教』の『功女聡派』を学ぶまでもあるまい」
これには紅は更に驚いた。秘伝書の存在など聞いたことも見たこともない。
「『功女聡派』」は王家と武道教両方があってこそ完成されます。王家すら未だ修練中でありますが、もはや王宮にいてはこの情勢、いつ殺されるか、そうでないとしても幽閉は免れないかと、だからこそお呼びしました」
武赤麗はふんっと鼻を鳴らして
「嘘を付くでない! それだけの理由であればいくらでも方法があろう」
「……『壽想寒気功』」
「!?」
武赤麗の目が驚きに見開かれた。紅には二人が何を言っているのかさっぱりであったが、このまま姉だけを弟子にされてしまってはたまったものではない。しかし叔母の興味は先程から姉にしか向いていない。どうすればいいのか見当もつかず、今はただ黙って居るしかないのだ。
「なるほど……私が持っているとでも見当を付けたか。しかし私も行方は分からん」
「いえ、私も自ら捜索に加わろうかと。それに私はまだ若輩です。叔母様に学ぶことは山ほどあります。どうか弟子にしてくださいませ」
武鳳赤凰が叩頭する。
慌てて紅も叩頭して頼む。
「叔母様! どうか私も弟子に!」
「紅妹!」
(なにを! 姉様はそんなに私が武術を学ぶことが嫌だというの!)
二人の叩頭した姿を眺め、武赤麗はしばらく思案して
「では戦って見せろ。強い方を弟子にしよう。私は才ある者しか弟子にはせん」
その言葉を聞いて、立ち上がった二人は向き合う。紅は既に構えを取っている。何が何でも弟子にしてもらうつもりなのだ。姉がこっそりと武術を学んでいたであろうことは、話を聞いてなんとなく理解はした。が、それでもこれまで修練してきた自分には勝てないだろうと思っているのだ。それに才の是非でも自分に敵う者などいるはずがないと紅は本気で思っていた。
「紅妹。私は何度も言いましたよ。大人しく義叔父様の弟子にしてもらいなさい」
「負けるのが怖いのね! 姉様のこと信じてたのにこんな酷い人だったなんて! 裏切り者!」
実の姉に暴言を吐く紅を見て武赤麗は眉を顰めたが、その原因の一端はどうやら自分のようなので口出しはしない。
その姉である武鳳赤凰は哀しそうな顔でひっそりと呟く。
紅には決して聞こえないほど小さな声でだ。
「紅妹、私はとうに武に取り憑かれているのです。その好奇心と貪欲さに私は負けました。あなたにはそうなってほしくないのです。どうかこの姉を許して下さい」
と、紅が動かない姉を不審に思っていると姉の姿が消える。
「え?」
次の瞬間には、姉の姿が一瞬写ったかと思いきや、足腰の力が抜けて崩れ落ちる。
瞬きする間に点穴されていたのだ。あまりの驚きに悲鳴を上げそうになるが、それすらも点穴されていて出ない。負けたことが理解できた時には姉に騙されていたことや、負けたことの悲しみが湧き上がって叫びたかったが、点穴の解き方など分からない紅はひたすら心の中で涙を流す他ない。
「勝負は明らかだな。私は武道教の本山に帰る。1月以内に来るといい。その時に儀を行い正式に弟子としよう」
「ありがとうございます」
武鳳赤凰は叩頭してお礼を述べる。武赤麗は軽く頷くと倒れた紅には目もくれずに部屋を出て行った。その姿には誰も寄せ付けない雰囲気を纏っており、これこそが『天下一』だと思うと武凰赤凰を身震いが止まらない。武赤麗が出て行ったのをしかと確認した武凰赤凰は、紅に近づいて耳元に顔を近づける。
「紅妹、言いたいことは沢山あるでしょうが……どうかこの姉を酷いと思わないでください。紅は私の教えた通りに武術を学びなさい。そうするのがあなたの為です」
そう言うと紅の点穴を解いて部屋を出ていく。残された紅は起き上がることもしないまま床に伏したまま涙を流した。
「うぁぁあああああ! うぁあああああああああ! うぁあああああああああ!」
訳が分からなかったし、どうしていいかも分からなかった。ただただ哀しくて泣き叫んだ。声を聞きつけた女中が入ってきても泣き止まず。紅はその涙が枯れ、疲れ果て眠るまでただただ泣き続けたのであっ
た。