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基本武狭小説ぽい感じですが、気にせずラノベのような感覚で読んでもらえるとうれしいです。
そこは城庭内に特別に作られた石と岩だけの場所である。
「それでは姫殿下よろしいかな?」
恭しく頭を垂れるのは、その年に似合わぬ精悍な顔つきの老人である。人呼んで老正狭西慚山樂老子を師にもつも、生来の愚鈍さのため武芸の腕は兄弟子たちの足元にも及ばず、武林にその名を知られるようになったのは既に白髪が覆い尽くすころであった。しかしその弱きを助け強きを挫く義侠を常とする生き方は、兄弟子たちをも感嘆させたという。
「紅でいいわ」
その語尾に反して特に偉そうな雰囲気も感じさせない。
老正狭が城下に訪れていると聞いて招いたのは彼女である。歳は14になったばかりという少女で、容姿、特に水晶の様に透き通った白い肌に備え付けられた目鼻顔立ちは文句のつけようがなく、悪いところを見つけろと言われたところで、男はもとより同性ですら100人が100人とも口を閉ざすほどである。しかしそれは王家の女ならばみな生来持っているもので彼女自身の自慢は、光にあれば銀の様に神秘を纏い輝くことから家臣の間では『銀黒髪』と呼ばれる、母譲りの黒髪である。
姓は武、名は赤華 字名を紅という。
紅は本来の用途に背くような真っ白で汚れひとつない質の良い稽古着に身を包み、頭を上げた老正狭を見上げる。未だ全く腰のおれる気配のない老正狭は紅の頭2つ分ほどにも高く、幾分か首が疲れるがその程度のことで一々文句を言うほどの傲慢さを、王族といえど紅は持ち合わせていない。
「では紅殿下、改めまして」
「ええ、ではお願いするわ」
そう言葉を発すると同時に紅は無防備な老正狭に掌法を次々と繰り出す。14とは思えぬ速度と技を持って縦横無尽に突き出される掌底は、なるほど天才だと老正狭はすぐに理解する。しかし愚鈍でありながらも愚直に武芸を磨き続けてきた老正狭には一手すら当てること叶わない。それでも紅は余裕すらその表情に湛えて変芸自在に手刀と掌底を使い分け、老正狭に手を出させようと攻勢の手を緩めない。
王族の女士が使う初代王こと武王赤映姫((ぶおうせきえいき)が伝えた『功女聡派』は天下に轟く流派であるが。武林では武王を教主と崇める『武道教』が伝える『功女聡派』と王族が使う『功女聡派』が似て非なるものであることは、広く知れ渡る事実である。
拳を使わず掌底や手刀を用意いるその技は変幻自在の女人武芸であり、今でこそ男の使い手も多いが1世代も前であれば、男子禁制の流派だった。
(ふむふむ。外功はよく修練なさっておられる。なんと先の楽しみな御仁か)
「紅殿下、本気でかまいませんぞ」
「私が本気でないとでも? いつだって本気だわ。そりゃあ武芸の大先輩の老正狭には一手として手を出させられないけど、それで本気じゃないって言われたら武国で武術を鍛錬している人どれだけが真面目にやってるのか? ってことになるわよ?」
「ははは、いやいや決してそのような意味で言ったわけではありませんぞ? その御歳でこれだけの外功を持っているのですから、内攻の程も見せていただきたく思ったまででございますよ」
外功とは体の動きや筋力、皮膚の鍛え方、技や型の修練がこれに属する。
紅の場合、女それも14ということもあり筋力など身体的なものはどうしようもないが、瞬発力といった天性のものと、聡明さ故の技と動きの正確さがずば抜けているのだ。
それに対し内攻は内側の力、いわゆる気功である。意志や呼吸、血流などの内部機能を鍛錬し体内の気を生み出す内力を操る技で、攻撃、防御、治療など様々に用いられる。これこそが各種武術、武芸の基本であり、全ての技の裏打ちとなる存在である。それ故に相手の内攻、内力の力を測ることが実力を知るうえで最も大事なことといえるのだ。
そういった訳で老正狭は紅に対して内攻の程を見せてほしいと言ったのだ。紅の掌法は外功こそ素晴らしいが、先ほどから一度として掌から内力(これを掌力と言う)を発しておらず。これは刃のない刀に等しい。型としては素晴らしいものだが掌力が主な破壊力を持つ掌法では内攻の素質こそが重要視されるためだ。
「外功? 内攻? 将軍もそんなことを言ってたけどあれでしょう? 気の力でしょう? 私の技には備わってない? まぁいいわ、修練次第でしょう? それよりも老正狭は気づいたかしら? この技は王家のものじゃないのよ! 先日道士の技を見る機会があったの。見て覚えたんだけど気付かなかったでしょう? どう? すごいでしょう!」
「……」
老正狭は紅の言葉に暫し攻撃の手を避けることを感のみに任せ、思案する。その表情は穏やかであるが内心は驚きが渦巻いていた。
(なんと……まさか内力について何も知らないとでもいうのか……先の本気の意味も冗談ではなく、それこそ本気で言っていたということ。それならばなぜ誰も教えなんだ! これほどの才があるというのに……いやこの掌法すら見て覚えただけだとおっしゃた。はたして誰の師事も受けず、ここまで完璧に技を盗めるものか? わしですらやれと言われて出来るようなことではない。わしは殿下の冗談に付き合わされているだけなのでは?)
紅の振るう掌法は熟達した凄みを帯びており、相対なくしてそこに掌力が込められていないことに気付くものはいないだろう。手を交えたとしても手加減されているとしか思えぬ程である。
「もうだめだわ! 疲れた! さすがね老正狭! でもまったく手を出してくれないなんて面白くないわ、手加減は当然してもらうけど少しは組手らしくしてくれてもいいじゃない」
「いやいや、申し訳ありません。なにぶん紅殿下の技が素晴らしいもので」
「ふふん! そうでしょうとも」
と言うと紅はドサッと尻餅をつく。額に玉のような汗を流し呼吸を整える姿は歳に似合わぬ色気を漂わせるが、この程度の動きで汗を流し疲れていることこそが内力の程度の低さを表しているため、老正狭の胸の内はますます訳が分からなくなる。なぜならば内力は掌力として破壊力を持つだけではなく経絡を通して各種動作や威力、防御の強化に用いるのだ。単純な体力も内力によって大きく左右される。そうなると紅の汗を垂らす様は先ほどの外功を14になる少女の身体一つで行っている。ということになる。紅の傷一つない細身にそれだけの動きを行える筋肉があるとはどう見ても思えない。しかし実際にやってのけたのだからこれは外功に関しては非凡どころか天武の才と言っていいだろう。
だが老正狭は不思議に思う。
王宮と言えば先ほど紅が名を出した将軍を初め、父親である現王も含め、一廉の使い手は幾人もいるはずだし、それこそ老正狭を招き実力の程を見て欲しいと言うほどには武術に興味があるのだから、武術を誰かに師事してもらう機会がないわけではあるまい。ではこれはどういうことか?
(ただ単に殿下に内功の素質が皆無であり、その為に誰も教えなかったか? いや先程将軍がそんなことを言っていたと殿下は言うておられた。要するに聞いたことしかないということ。然らば内力という存在があることを殿下に伝えても、その修練方や詳しい知識は誰も教えていないと言うことか。もしや、陛下は殿下が武芸を学ぶことを嫌っておられ、その為に皆の口を閉ざされているのでは?)
とそこまで考えて老正狭は思いつく。
(いや、仮にそうであった場合。今私が殿下と立ち会っているのに、その前に何の言伝もないのはいささかおかしい )
「紅殿下の師父は誰であるかな? ぜひともこの老いぼれめに教えてくださらんかな?」
その言葉を待っていました。とばかりに紅は飛び起き年相応な笑顔を浮かべて答える。
「そんなのお母様に決まってるでしょう!」
「おぉ、おお、そうであったそうであった駈王武赤儒様は、それは練達の人、千軍万馬の強さであられた。さぞ良き師であったことでしょう。して今の師はどなたかな?」
紅の母である平王武赤儒が8年前に亡くなったことを武国の者で知らぬ大人はいないし、その姉であり武道教筆頭、武赤麗と天下一を争った話は武林の者であれば一度は己もその境地へと、夢を膨らませるものである。
かく言う老正狭もかつては話に聞く年下の武姉妹に憧れを抱いた男の一人である。自分とは違い、武才に秀でた彼女らの武勇を人伝に聞く度に興奮し、嫉妬し、いつかは自分も……と思っていたのだ。
(母である武赤儒様が紅殿下の師であったのは間違いないだろう。しかし命を落とされたその時、殿下はわずかに6歳。果たしてどれだけのことができたというのか。問題は今の師だ。教えが悪いのか故意に内力につては教えていないのか? 紅殿下を見る限り教えを理解できないほど頭が悪いわけではあるまい。それどころかこの御年にしては聡明で有らせられるのと私としては感じるのだが……)
「今の師? そんなのいないわよ? だってそうでしょう! お母様に武術を習った私に教えられるのなんて伯母様くらいだわ! もしかして老正狭も私を弟子にしたいとか言わないでしょうね? 将軍も教えてやろうか~なんて軽口叩いてるけど、私はいやよ。そりぁお母様に習ったのなんて少しの型くらいだけど……」
老正狭はなるほどと思う。
(まさかとは思ったものの本当に師がいないのか、師がいないのであれば基本すら分からないのも無理はないの。むしろ誰の師事も受けずあれだけの動きをなさっていたこと自体が驚異的としか言いようがない。しかし師でなくとも誰かが教えてやればよいものを……せっかくの才が勿体ないではないか)
老正狭は紅の才を思い武林の者として、今苦心しているのだが実際のところ紅の才は老正教の想像を遥かに凌いでいる。まず紅が先ほど使った掌法は先日少しばかり名の通った道士を招き、披露させた基本の型を一度見ただけで覚えたものであり。その後2、3度自身で繰り返し試しただけで力の入れ方から、技の組み立てまでも理解したのである。また日々の修練など食事を取るほどの時しか行っていないのだ。
組手など今日が生まれて初めてである。本人は知らぬ事だが老正狭程の名声をして、紅はようやく組手をしてやろうと思い立ったのである。
紅の武術への思いは母親が死んだことも関係し、本人の聡明さとは裏腹に屈折して、常人には理解しがたいものになっている。
老正狭が紅の言葉に更に内心驚いている間、紅は少し哀しみに耽った様子で空を見上げる。季節は春である。さわやかな空気が雲をゆったりと運ぶ様が、紅にはどうしてか感慨深く思えてならない。悲しい時に空を見上げるのなぜだろう。そんな疑問がふと心を過る。
「しかし紅殿下。誰の教えも請わずして基本は出来ませんぞ? 別に弟子になれとは言いません。 もしよろしければ内攻の修練方を教えましょうぞ」
老正狭のこの言葉は紅の才を純粋に惜しく思ってのことだ。
しかしこの言葉を聞いた紅は予想外の行動に出る。
「んー!! んー!! 違う!! 違う!! 私は母様の教えを受けたの!!! だから天下一を目指さなきゃならないの!!! 老正狭でもダメ!! 伯母上が帰ってきたらきっと私を弟子にしてくださるわ! だから違うの!」
「なんと……」
そう喚きながら紅は涙を溜めて髪を振り乱し地団駄を踏み始める。先程まで子供らしいところはあっても、一貫して大人びていた紅を見ていた老正狭は紅の豹変ぶりに口を開けて驚くばかりである。
紅の言うことは我儘のように聞こえ、はたまた理にかなっているようにも思え、その実は全く理にかなっていないのである。
老正狭もこんなことになるとは思わず、ため息を一つついてすっかり困り果ててしまう。分かったことと言えばやはり成人しているとは言ってもまだ歳若い、理屈ではないのだろうということと。
(なるほど、これでは誰も教えるどころではないわ)
ということくらいであった。
そうこうしている内に泣き声を聞きつけ、近くで控えていた女中が飛び出してくる。老正狭を責め立てず、地団駄を踏む紅を何とか収めようと暗中模索している様をみると、これはよくあることなのだろう。また、一度喚くと平静を戻すのに苦労すると思われた。
この歳になるまで結局良き伴侶が現れなかった老正狭には何とも言い難い居た堪れなさがあった。