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第二章 語られる理想 後編

翌日の昼頃に二人は宿を出て東にあるガナシアという町に向かおうとしていたがバーザの町の中に昨日まではほとんど姿を見なかった帝国の兵士の姿が多く見られ、二人は見つからない様に薄暗い裏路地に駆け込んだ。

「一体どうなっているんだ? 昨日とあまりにも違いすぎるぞ…」

「昨日の夜の内に帝国の奴等が追いついてきたのか? だとしてもこの数は解せない。いくらなんでも早すぎる」

バーザの街道を歩いている兵士の数は軽く見積もって三十を超えており、昨日カーラが引き連れていた兵士達の数より多かった。その町を歩いている兵士達はクルスの部下であり、着ている鎧の様式がカーラの部下の物とは僅かに異なっているのだが二人はそれに気づかなかった。

「どうする? 幸いにもバラバラに動いているし潰すのは訳ないぞ」

「確かにそうだが…一体どれくらいの数がいるのかを知らなければならない。それにあまり暴れてここの町の住人の印象を悪くするのも避けたい所だ」

二人にとって近くを歩き回っている一人一人の兵士など恐れる必要はなかったが帝国に抵抗している場面をバーザの住人達に目撃されるのは避けたい所であった。

「そうだ、ギドに匿ってもらうというのはどうだ?」

「止めておいたほうが良いだろう。確かに奴はここで僕達の事を知っている少ない人間だが絶対に信用できるとは言い切れない。既に僕等の事を帝国に売っているかもしれないし、あるいは頼ってきた僕等を売るかもしれない」

「おいおい…いくらなんでもそこまでせんだろう?」

「さあ…どうだろうか? 二日ほど奴と過ごしたがその本質はまだ分からない。だから接触しないに越しておくことはない」

「ならどうするつもりだ?」

自分の案が否定されたためガルバスはネレスに案を求めた。するとネレスはニヤリと笑った。

「まあ見ていてくれ。君は後ろから誰も来ないかを見ておいてくれ」

ネレスはそう言うと右手を掲げ、通りを歩いている一人の兵士に向けた。兵士とネレスの手の向きが直線で結ばれた瞬間に一陣の風が吹き抜け、さっきまで背筋を伸ばして歩いていた兵士が急に立ち止まり腕をだらりと下げた。そしてその兵士は白目をむきながらフラフラと歩き、二人の隠れている裏路地に入ってきた。

「おい、一体どうなっているんだ?」

兵士の異常さに気付いたガルバスは慌てた様子でネレスに声をかけた。

「体の動きを支配しただけだ。こいつの頭の中を覗いて今どれだけの人数が集まっているのかを調べるのさ。下手な拷問よりもずっと効率がいいし、正確だ」

兜を脱ぎ、差し出された頭の上にネレスは右手を乗せると目を閉じ、集中した。手から放出された魔力が兵士の頭皮、そして頭蓋骨を通過し脳に達すると同時にネレスの意識の中にこの兵士の記憶が流れ込み始めた。その大量の記憶の中から比較的新しい物を探し、選別して今最も必要な情報を探すのは公園の砂場の中から一粒の砂金を小さなふるいを使って見つけ出す様な物だったがネレスは素早く目的の記憶を見つけ出し、それによって現状を理解した。

「ふむ…今この町の中にいるのは五十人、そして外には百五十前後の騎兵隊が待機している。合計で二百人の増援がいるようだ」

「二百だと……?いくらなんでも多すぎないか?」

「そうか? 二百程度なら何とかなるレベルだ。それに奴等は長距離を移動したせいで疲弊している、それを逃す訳にはいかない。こちらから打って出るとしよう」

ネレスは兵士の頭を突き離すと同時に刀を抜刀し、一太刀でその首を切り裂いた。最初ネレスは彼から情報を引き出したらこの裏路地に放置するつもりだったのだが彼の記憶の中に獣人達への暴行があったためそれを許すことが出来ずにこのような行動に出たのだった。

「さあ、行こう。ここで片付けておかなければガナシアでもまた同じ目に遭いそうだからな」

ネレスはそう言うと兵士の死体を寝かし、更にその上に路地裏に置かれていたゴミをかけて隠すと歩き出し、大通りに出ようとしたがその肩を掴んでガルバスが止めた。

「待て、話が全然見えてこない。そもそもどうやって二百人の兵士を相手にして勝つつもりだ?」

「勝算はあるさ。何せ僕は魔法使いだからね」

ネレスはニヤッと笑うとガルバスの静止を振り切って壁をよじ登り、屋根の上に立った。

「おい、何をするつもりだ? 」

「屋根の上を走るのさ。兵士達は下しか見ていないから見つかる可能性は低いだろう。さっさと上がってこい」

ネレスに言われるままにガルバスも屋根の上に上がると辺りを見渡した。バーザの町は赤レンガや灰色の泥岩や花崗岩で構成されているため比較的暗い印象を与えるのだが今はその中に白く輝く点が至る所に見られた。その白い点とは兵士達が着ている鎧であり、ざっと見てもその数は二十を超えていた。

「ひとまずここを突っ走って門を越えよう。超えた後に一気に奇襲をかければいい。頭を潰せれば二百の軍でもただの雑魚に成り果てるだろう」

「そううまくいくものなのか?」

「何、それで駄目なら奥の手を使うまでさ」

何やらネレスには秘策があるらしく含みのある笑みを浮かべると屋根の上を音もなく走り出した。ガルバスもその後に続き、平坦な屋根の上を走り、遠くに見える門を目指した。その門までの距離はおよそ五百メートルぐらいでありすぐにたどり着ける距離だったがあと二百メートルと言ったところで突然ネレスの左足に激痛が走り、大きくバランスを崩すとネレスは屋根の上を転がり、大通りの上に落ちた。

「ガッ…!」

その落下の際にしたたかに背中を打ち付け、一瞬だけネレスの目の前が真っ白になった。だがすぐに起き上がると今置かれている自分の状況を把握するべく左足を見た。するとそこには一本の矢が突き刺さっており、先ほどの激痛はそれが原因だった。

この様な失態を招いたのはネレスの慢心が原因だった。屋根を走り出してすぐにその姿はクルスの部下に見つかっており、前もって配置されていた兵のボウガンの射撃によってネレスは足を射抜かれたのだ。

本来ならばこの程度の攻撃などはかする以前に発射される前にそれに気づき、避ける事が出来るのだが兵士は屋根の上を探さないとたかをくくっていたのがいけなかった。

「ネレス! 大丈夫か!」

「あぁ……だがもう駄目だ。見つかってしまったようだ」

ネレスが言い終わらない内にその前に白馬に乗った騎士が現れた。その胸にはカーラの鎧に彫られていた物と同じ家紋が彫り込まれていた。

「お前が追放者だな? そして上にいるのが牙獣種だな?」

クルスは純白の槍を突き付けるとネレスに問いかけた。ネレスは挑発してカーラの時の様に馬の上から引きずり落とそうとしたのだがクルスの後ろに多数のボウガンを構えた兵士がいたため断念せざるを得なかった。

「その通りだ」

ネレスはそう言うと腰に差していた刀を鞘に入ったまま抜くとクルスの足元に向かって投げた。

「…何のつもりだ?」

「投降する。この足じゃまともに走れないからもう逃げきれない。だから投降する」

「おい、ネレス! どうしたんだ!」

あっさりとしすぎているネレスにガルバスは叫んだがネレスは何も言わずに兵士の拘束を受け入れた。

「ガルバス、降りてこい」

「そうよ。降りてこないのなら今すぐにでも針山にしてあげるけど……どうする?」

「……ッチ」

ガルバスは舌打ちすると自分から下り、その腕に拘束具をはめられるのを黙って受け入れた。

「よし、みんな姉さまの元にこいつらを連れて行くぞ!」

「そう意気込むのはどうでもいいが誰か肩を貸してくれ、こっちは足に矢が刺さっているんだからな」

「追放者に人権があると思うな。お前が歩けないのならそのまま引きずってやるわ」

クルスはネレスの要求を突っぱねると馬を歩かせた。

「おい…お前奥の手があるんじゃなかったのか?」

「あるがこの奥の手というのは時と場所を選ぶんだよ。そしてそれはここでは使えないんだ」

ガルバスに起こされながらネレスは続けて言った。

「まあ安心しろ。処刑されるつもりは毛頭ないからね」

それらのネレス声はガルバスにはハッキリ聞こえたものの周りの兵士達には聞こえなかったらしく彼等は二人を取り囲んだままクルスの後に付き従った。



「久しぶりだな! お前を殺す事を思ってこの二日、怒りで満足に眠れなかったわ!」

カーラは馬に乗ったまま槍をネレスに突き付けた。今ネレスはカーラとクルスの前に後ろ手に縛られた状態で座らされ、頭に巻いていた布は取り除かれ毒々しい紫の髪の毛が露出していた。

「フン。やっぱりお前はあの時娼館にでも売り払っておくべきだった。まさかここまでしつこい奴だとは思ってもみなかったよ」

「お前は自分の置かれている立場を分かっているのか? それ以上姉さまを侮辱するのなら私は本国に連れて帰らずにお前を殺すぞ!」

「随分と口汚い奴だ。顔は似ていないのに性格はそっくりなんだな」

「黙れ!」

クルスも同じようにネレスに槍を突き付けた。クルスは姉であるカーラの事を慕っていたがそれはもはや崇拝に近く、少しでもカーラに近づけるように努力を重ねていたがどれだけ頑張ってもその容姿だけは似せることができず、そこを指摘することは彼女の逆鱗に触れるのと同義だった。

「おー怖い、怖い」

ネレスはゲラゲラと笑うと立ち上がった。

「まあ、こんな下らない話をしている暇は僕には無いんだよ。だから君達にはさよならをしてもらわないとね」

ネレスは両手を大きく広げた。さっきまでその腕は鉄製の手錠によって拘束されていたはずなのにその腕には手錠はついていなかった。

「お前! 手錠をどうしたんだ!」

「この程度の拘束は僕にはないのと同じだよ」

「貴様! そんなに死にたいのか!?」

「残念だが、死ぬのはお前達だよ」

ネレスが言い終わらない内にその全身が青い光で包まれた。だがその光はこの前より輝きが強かった。

「な…なんだ!? 」

「お姉さま下がって下さい!」

クルスは叫んだがその声は直後に聞こえた大地を揺るがすような低い咆哮が轟いた。続けて全てを吹き飛ばすかのような突風が吹き抜け、二百を超える兵士は目を閉じ、一斉に体を乗っている馬に密着させた。

風が止み、彼等が目を開けた時に辺りの情景は一変していた。ネレスの体を包んでいた光は消えていた。だがその代わりにあるものがそこに出現しており、その登場にガルバスを含め、全員が言葉を失っていた。

雄々しく伸びる一本の鋭く黒い角、金色の双眼は見る者の心を委縮させ背中から生える翼は大きく、一度羽ばたくだけで突風が巻き起こった。四肢はがっしりとしており、手足の指は太く、その先から伸びる黒い爪はしっかりと大地を掴んでいた。その巨大な体躯を覆っているのは名前の由来ともなっている炎の様に赤い鱗であった。

「レッド……ドラゴン……だと?」

カーラはその言葉を絞り出すのがやっとだった。貴族であるカーラでさえその姿は本でしか見たことがなく実物を見るのは初めてであった。レッドドラゴンは呆然と立ち尽くしている二百の兵士を前に悠然とガルバスを優しく咥えて足元に移動させた。

「さあお前達、死ぬ準備は出来たか?」

そのレッドドラゴンの口から聞こえたのはネレスの声そのものだった。

「どういうことだ?」

カーラはその奇妙な光景に驚き、口を動かすことがやっとだった。

「その言葉通りの意味だ」

レッドドラゴンはそれだけを言うと長い首を大きく逸らせた。すると僅かに色が違う首筋の鱗が大きく膨らんだ。その膨らみが孕む得も言えない恐怖にクルスはいち早く気付くとカーラの乗っている馬の手綱を掴んでレッドドラゴンの足元に逃げ込んだ。

「業火に焼かれるがいい」

声と同時にレッドドラゴンは頭を振り下ろし、委縮し動けないでいる兵士達に向かって口を開いた。その瞬間その口から赤とも黄色とも取れる炎が吐き出され、瞬く間に二百の兵士の半分を飲み込んだ。

「久しぶりだから少し力加減を誤ったか? もう少し強くしなければ一度では焼き尽くせないか」

レッドドラゴンはため息を吐いたがその息にさえ小さな炎が混じっていた。

「さあ選ぶがいい! 逃げるか、死ぬかを!」

レッドドラゴンは大きく咆哮した。その咆哮は鼓膜を破りかねない大音量であり、馬は平常心を忘れて嘶き大きく、全身を持ち上げて乗っていた兵士達を振り下ろし、レッドドラゴンに背を向けて逃げていった。

「それで…君達はどうするんだい?」

レッドドラゴンは首を曲げて炎の来ない側面に逃げたカーラとクルスを見た。二人の馬は逃げ出してはいなかったがショックによってもはや使い物にならなくなっていた。

「逃げるつもりは毛頭ない。例え無理だとしても私は足掻いてやる!」

「…姉さまここは私に任せてください。私のこの剣ならあれを倒せるはずです」

クルスはカーラの前に立つとその腰に差している剣を抜いた。その赤い鞘はレッドドラゴンの鱗によって造られており、その鍔の部分は龍を象っていた。

「竜殺しの剣か……全く厄介な物を持っている」

レッドドラゴンはその剣を見るなりその体を青い光で包み込んだ。その光が消えると現れたのは先ほど光に包まれて消滅したネレスだった。

「ガルバス、君はあっちの相手をしてくれ。こいつは僕がやる」

ネレスは右腕を先ほどの炎によって消し炭となった場所に向けた。するとその灰の中からネレスの刀が飛び出し、その手に収まった。千℃を越える炎に焼かれたはずなのにその刀はどこにも傷んだ様子もつっかえる事無くその刀身は鞘から抜き放たれた。

「さて…君はあいつより強いのかな?」

ネレスはいつもの様に刀を垂直に構えると首を傾げながら聞いた。それに対してクルスは剣を両手で構えると一気にその間を走って詰めた。

「ドラゴンなんてこの剣で一撃よ!」

右手を大きく振りかぶりネレスの頭に向かって剣を勢いよく振り下ろした。それをネレスは刀の先で弾き、クルスの体勢を崩すと左手から顔を狙って火の玉を放とうとしたがその手はクルスの左手に掴まれ、向きを顔から逸らされた。

その瞬間ネレスの体を妙な脱力感が襲い、得も言えぬ恐怖を覚えたネレスはその手を振り払うと大きく距離を取った。

―今のは何だ?

ネレスは触れかけた左手を開閉しながら首を傾げた。

「どうした? 怖気ついたか?」

「クソッ」

ネレスは先ほどの脱力感の正体を掴めないため攻撃することが出来ず、地面を転がるようにしてクルスの攻撃を避けるしかなかった。

「喰らえ!」

ネレスは素早く起き上がると左手をクルスに向けて掌から火の玉を作り出して発射した。だがその火の玉はクルスの着けている白の籠手に触れた瞬間に弾け飛び、霧散した。

―さっきの脱力感はアレが原因か。

魔力で構成された火の玉が弾けたのを見てネレスはさっき自分を襲った悪寒の原因を悟った。恐らく鎧を構成している金属が魔力を拒む虚無岩を含んでおり、それによって魔法を弾いたのだとネレスは結論づけると自分の身体能力を向上させるのに使っていた魔力を消し去り両手で刀を強く握りしめて迫りくるクルスの攻撃に応じた。

体を低くして横薙ぎの剣を交わすとカウンターの突きを放った。しかしクルスはそれを飛び上がって避けた。空中で一回転するとクルスはネレスの少し後方に着地し、剣を構えなおした。

「随分と身軽な動きが出来るんだな」

ネレスが感心したかのように言ったがクルスはそれに答えずにまた間合いを詰め始めた。返事がなかった事にネレスは残念そうな顔をすると刀をまた垂直に構えた。だが今度の構えは両手ではなく片手だった。その片手はクルスから見えない様に体の後ろに回されており、クルスは刀の範囲内に入る寸前で立ち止まった。

―賢いな…。姉と違って随分と冷静な奴だ。

ネレスは左手を掴んでいた腰のナイフから離した。あのまま射程内に入ってきたのならばナイフを投げつけて注意を逸らした隙に斬りかかるつもりだったのだがその目論見は外れた。

―だが問題ない。こいつを殺すのは訳ない事だ。

考えを切り替え、両手で刀を握るとネレスは勢いよくクルスに斬りかかった。首筋を狙った一撃は白い鎧に阻まれ、甲高い音を立てた。攻撃に失敗したがネレスは距離を取らずに逆にその距離を詰めてクルスに密着し、その剣を振ることができない状態にした。だがそれは同時にネレスも刀を振ることが出来ない状態であり膠着状態に陥った。

「離れろ!」

クルスは肘でネレスの体を押し返そうとしたがネレスの体は重く、そう簡単に押し返せる物ではなかった。

「随分と頑張った…だがこれで終わりだ!」

ネレスは刀から右手を放すとその手を伸ばしてクルスの目の前に移動させた。鎧がある場所は魔法を無効化することができても鎧のない頭部は魔法を防ぐことが出来なかった。そこを狙ってネレスは火の玉を発射しようとしたのだがその掌に激痛が走り、ネレスは飛びのいた。

「何をした…」

離れてから手を見てみると掌が赤く焼け爛れ、大きな水ぶくれができていた。

「魔法が使えるのはお前だけではない。私も魔法使いだ」

「ククッ…ハーッハッハッハー!」

クルスの言葉にネレスは突然高笑いをし、クルスだけでなく、離れていた場所で取っ組み合っていたカーラとガルバスも手を止めてネレスを注視した。

「何がそんなにおかしい?」

「一つ聞くが君は獣人の事をどう思っている? あいつと同じで駆除の対象だと思っているのか?」

「獣人? 汚らわしいヒトモドキのことか? あんなもの生きている価値などないね」

「そうか…それは残念だ」

顔から笑顔を消すとネレスはコートを脱ぎ捨てて上半身を青い光で包み込んだ。その光が消えるとネレスの上半身は禍々しく、冒涜的な物に変化していた。人間には二本しか与えられていないはずの腕が左右合計で十本生え、その腕の種類は全て異なる物だった。

鱗や羽毛に覆われている物もあれば浅黒い色になっている物や少し毛が濃い物もある。また中にはよく分からないゼリーの様な物や蔦が絡まり、手の形を象っている物もあった。

「何なんだ…お前は…」

その異常な姿にクルスは驚き、畏怖の念に襲われた。

「さあ? 今の僕が何なのかは僕自身にも分からないよ」

自傷気味に笑うとネレスは走り出し、再びクルスに組みついた。流石に十もある腕をさばくことはできず、いとも簡単にクルスは組み伏せられた。

「おのれ…化物!」

「化物? それなら魔法を使う君とて同じ化物だよ」

クルスを押し倒し、その上に馬乗りになるとネレスは言った。

「さっきはその目から魔法を撃ったんだな?」

ネレスは顎を押して目がネレスの方に向かない様にすると続けた。

「私は同じ魔法使いでも私と価値観を共有できない奴は殺すと決めているのでね、お前とて例外ではない」

ネレスは剥き出しになった細く白い喉に手をかけた。そして雑巾を絞るようにクルスの首を締め上げ始めた。だがクルスは自分の意識が途切れる前に反撃に出た。

その一撃はネレスにとって全くの予想外であった。しかしそれは決して不可能を可能にした奇跡ではなく、またしてもネレスの慢心から来るものだった。

通常、魔法の行使は手や足、頭などの体の末端で行われる。これは普段の生活での使用頻度から来るものであり、例え両手から同じ魔術を同時に行使したとしても利き腕ではない方は威力が落ちる傾向がある。

しかし訓練によって体の至る所から魔力を行使することが出来るようになる他にどちらの手から魔術を行使してもその威力を同じにすることもできる。だがそれは果てしない努力と天性の才能が必要であった。

ネレスは先ほど見せたその体をレッドドラゴンに変異させることが出来るようにその全身から魔術を行使することができるがそれができるまでに一年以上の訓練が必要だった。そしてそのような努力を貴族であるクルスは全くしていないと思い込んでいた。

自分は特別である。そう思い込むことは誰にでもある事だがネレスは特にそれが顕著だった。そのためクルスの決死の反撃を予測する事すらしなかったのだ。それ以前に彼女の着ている鎧全てに虚無岩が含まれていると勝手に決めつけている事がいけなかった。

「……ガァッ!!!」

尻の下から突き上げられる様な衝撃を受けて気付けばネレスは宙を舞っていた。それはクルスが上半身から魔力を放出し、鎧ごとネレスを吹き飛ばしたからだった。

「このっ……」

ネレスは空中で何とか体勢を整え、着地したがダメージは大きくその場に崩れ落ち刀を取り落した。

「残念だったな。私の勝ちだ」

クルスは起き上がると竜殺しの剣をネレスに突き付けた。

「君の勝ち? 確かに君は僕を追い詰めた。だが勝ってはいないよ」

ネレスは十本の腕を使って体を起こすとクルスを仰ぎ見た。苦し紛れの台詞の様に聞こえたがその顔には確かな笑みがあった。

「…どういう意味だ?」

「何故なら君はまだ僕等を殺せていないからだ」

僕等、その言葉に疑問を感じたクルスは目だけを動かして自分の姉が今どうなっているのかを確認した。二人の戦いはまだ終わっておらず、戦いは互角であったためガルバスがこちらに加勢しにくる可能性は限りなく低かった。

「残念だがお前のお仲間は助けには来これないようだぞ」

「あいつじゃない。お前は僕一人に勝っただけであり、僕等には勝っていないんだよ」

その言葉が言い終わらない内に再びネレスの全身が青い光に包まれた。またレッドドラゴンになるのかとクルスは身構えたが光が消えた後に現れた者は少々拍子抜けする物だった。

長身でスラリとした細身の女の牙獣種だった。しかしそれはガルバスとは違い尻からは長く灰色の毛に覆われた尻尾が伸び、掌には肉球があり鼻も黒く高く、より獣に近い物だった。

「誰だ? お前は?」

「僕は僕さ。ただ体が変わっただけでその本質は変わってはいない」

その牙獣種の口から聞こえた声はさっきのレッドドラゴンと同じようにネレスの物であり、摩訶不思議な現象にクルスは戸惑った。

「この体はかつて僕と共に暮らした者達の物だ。魂こそ失われているが今も僕と共にある」

牙獣種は地を蹴った。そして素早く懐に入ると呆気にとられているクルスの露出している鳩尾に強烈なひじ打ちを喰らわせた。

「――ッ!」

クルスは体をくの字に折って吹き飛んだ。その強烈な一撃は一発でクルスの意識を奪い、クルスは背中をしたたかに打ち付けて地面に転がり二度と起き上がることはなかった。

「クルス!」

それに気づいたカーラが目の前にガルバスがいるのを忘れ、その牙獣種に向かおうとしたがそんなことをガルバスが許すはずなかった。

「お前の相手は私だ!」

素早くカーラの肩を掴んで向き直らせると顎を固く握った拳で打ち上げた。

「ぬう…」

顎への一撃は三半規管を揺らし、カーラは足元がおぼつかなくなりその場に腰砕けに倒れ込んだ。

「ネレス! 大丈夫か?」

ガルバスが駆け寄った時には牙獣種は手を地面につけ、荒い呼吸を繰り返していた。そしてその体から湯気が上ったかと思うと全身が青い光に包まれ、光が消えるといつものネレスの姿に戻っていた。

「大丈夫だが…。済まないが起こしてくれないか? 下半身をやられたらしくてまともに立てん」

「構わないが…本当に大丈夫なのか?」

ネレスを抱え上げ、そばに落ちていた刀を拾い上げながらもう一度聞いた。

「体の怪我は魔力でなんとかなるが時間がかかる。すまないがしばらくの間僕を背負ってくれないか?」

「ああ、いいだろう」

ガルバスはネレスを背負うとネレスが脱ぎ捨てたコートを回収し、自分の羽織っていた麻布の一部を裂き、ネレスの頭に巻きつけて髪の毛を隠すと東に向かって歩き出した。

「待て……。まだ私は負けていないぞ……」

その声に振り返るとカーラが剣を杖にしてヨロヨロと立ち上がるのが見えた。

「今のお前なんぞ簡単に殺せるがこっちの奴が大変だから見逃してやる。お前もあいつを助けてやった方がいいんじゃないのか?」

「クルスッ!」

思い出したかのようにカーラはガルバス達に背を向けるとクルスの元に這い寄って行った。クルスが起きない内に出来る限り遠ざかるべきだとガルバスは考え、ネレスをしっかりと背負うと刀をネレスの膝下に入れてから走り出した。



「もう下ろしてくれても大丈夫だ。ある程度回復したから一人で歩ける」

「無茶をするな。今日一日は休んでいろ」

「…分かった」

日が傾き、夕暮れになってもガルバスは休むことなく走り続けていた。今の所追手の気配はないがまだ安心できる距離ではなく次の町ガナシアにたどり着くまでは気を抜くことは出来なかった。

「なあネレス……」

「何だ?」

「ずっと聞こうと思っていたんだがお前は一体何者なんだ?」

「……」

「竜人種がドラゴンに変身することが出来ると聞いたことはあるがお前は人間のはずだろう? それにあの牙獣種の姿は何だったんだ?」

最初に両腕をレッドドラゴンの鱗で覆った時から抱いていた疑問。それをガルバスは初めて聞いた。

「あのドラゴンは前にも言った様に僕が仲間と共に倒したドラゴンだ。そしてあの牙獣種…グリムロはかつて僕と共に暮らしていた者だ」

「……どういうことだ? そいつは死んだんじゃないのか?」

「あぁ、グリムロは確かに死んだ。だがその肉体は今も僕と共にある。魔法により彼等の体は僕と一体化され、僕の意思によって切り替わる」

「そんなことが可能なのか?」

「可能だ。だがこの魔法は数ある魔法の中で最も神を冒涜しているとされている禁忌魔法だ。だからこの事は出来る限り内緒にしておいてほしい。帝国の人間達はギルト神話を信じている者が多いからね。追放者とばれる前に殺されかねない」

ギルト神話とは帝国の人間達の間で語り継がれてきた神話であり、ギルトなる神が人間を造り、獣達を人間の手足として使えるように獣人に進化させたというものであり、獣人の事を同じ祖先から枝分かれした独自の進化形であると思っているネレスの考えとは異なる物であった。

この神話のせいで帝国に住む人達に獣人は人間ではなく、獣であると刷り込ませ今の様な確固たる格差社会を形成することとなった。そしてこの神話では死者は蘇らず、死んだ者はその生前に犯した罪の重さによって生まれ変わる際の肉体が人間であるか、獣人であるのかが決定されるとされている。

「ギルト神話……あの胸糞の悪くなるお伽噺か」

「あぁ、獣人は獣から進化したのではない。人間が様々な場所に住む内にその場所に適応してその姿を変えたと僕は考えている。だから元をただせば獣人も同じ人間なんだよ。何故人間はあんな下らない作り話を信じるんだろうか?」

ガルバスはしばらく考えたが答えは出なかった。

「…ガルバス、無茶しないでくれ。もうかなり離れたから休んでもいいだろう」

それから数時間が経過し、太陽は地平線の彼方に沈んでいた。後ろを振り返っても騎馬兵一人の姿も見られなかった。

「いや、今夜中にガナシアについておきたい。町の中ならある程度逃げ回ったり隠れたりできるがこんな平原じゃそれもできないだろう?」

「まあ確かにそうだがな…もう少し休めばまたレッドドラゴンに変身できるだけの魔力が貯まる。だからそう無茶する必要はない」

「そうなのか? そこまで言うのなら休むとしよう」

ガルバスは歩調を緩め、ポツリと生えていた木の下で止まりネレスを下ろした。ネレスの体の傷はいつの間にか治癒しており右手に出来ていた水ぶくれと左足の矢傷も跡形もなく無くなっていた。

「わがままを聞いてもらってすまないな」

「いいさ。確かに疲れてきていたから丁度いい頃だった」

ガルバスは着ていた麻布を脱ぎ捨てた。褐色の肌には汗の粒が浮かび、白い湯気が昇っていた。それでも暑いらしく、局部を隠すために体に巻きつけていた布を全て取り払って全裸になるとゴロリと草の上に寝転がった。

「どうだ? お前も横にならないか? 気持ちいいぞ」

「いや、僕はいいよ」

ネレスは断ると着ていたコートを脱ぎ、自分の体にかけた。それを見たガルバスは少し残念そうだったが何も言わなかった。


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