第一章 その胸に抱いた理想 後半
深いリーズ河の底、水面からおよそ三十メートル以上離れた河底にネレスとガルバスの姿があった。しかしその姿は先ほどとは少し違い、ガルバスの頭を大きな泡がすっぽりと包み込んでいた。その水と空気の屈折率の差によって歪んだ顔は間抜けにも見えるがその泡が無ければ鰓を持たないガルバスはこの水中で呼吸ができずに溺死しているだろう。
その泡を作り出したネレスは自身にはそれを被せずに首筋にある鰓によって呼吸をしていた。何故鰓が人間であるネレスに存在するのかをガルバスに問われた際にネレスは魔法によって作り出した物であり、これを作るには最低でも一ヶ月がかかると答えた。しかしそれが本当なのかは定かではない。
『皆さんありがとう。あなた方のおかげで帝国の追手を撒くことができるでしょう』
ネレスは水棲種の持つ特有の歌に似た言語を用いて彼等に礼を述べた。
『気にしなさるな。我々はあなたに受けた恩を返すために当然のことをしたまでです』
ネレス達を取り囲んでいる水棲種の中で一際老齢の、体の鱗が一部剥げ落ちた者がネレスに答えた。彼はこの群れの酋長であり、彼の言うことはこの群れの中では絶対であった。
『ここから五十キロメートルほど行けば大きな街道のそばに出られます。本当ならば更にその先にある町まで送りたいのですが生憎とそこは別の者達の縄張りのためそこまでお送りすることが出来ません。あなたの力になれず……申し訳ない』
『いえ、五十キロメートルも送って下さるだけでも十分です。心遣い感謝します』
再びネレスは礼を述べた。
ネレスが彼等と関わりを持ったのは今からおよそ一年前にこの地域を襲った記録的豪雨の時だった。その豪雨はネンブラムのみならずネレスが隠れていた森まで降り注ぎ、その辺り一帯に三十センチ近い雨水の層が出来る程だった。その豪雨の最中一人の好奇心旺盛な水棲種の若者が陸上に上がり、辺りが水で満ちていることもあり体が乾燥する恐れがないため水棲種達にとって未知である陸地に向かって探索を始めたのだった。
しかし雨はいつまでも降り続ける訳ではなく水棲種が内陸地に踏み込んだ頃には雨は止み、太陽の出現と共に雨水の層は消滅を始め、乾燥から逃れるべくまだ水が多く残っていた暗い陰鬱な森へと逃げ込んだ。だがそれでも乾燥から逃れる事はできず数日後に森の中で行き倒れた。
それをネレスが拾い上げ介抱し、元いたリーズ河に運んだことがきっかけであった。幸いにもネレスは彼等の言語に対する知識が多少あり、おかげで彼等と意思の疎通ができるようになるまでに時間はかからなかった。
『では早速行きましょう。帝国に回り込まれる訳にもいきませんからね』
酋長はそう言うと群れに指示を出し、ある物を持ってこさせた。それはネンブラムの漁師達が廃棄した巨大な網であり、その中に入るように二人に告げた。どうやらそれで二人を運ぶらしかった。
「ガルバス、あの網の中に入るぞ」
「おいおい…そんなボロ網で本当に大丈夫なのか? 今にも千切れそうだが…」
「大丈夫だ。漁に使われる網は見かけに反して強度が高い。それに僕が魔力で強化するから千切れたりはしないさ」
ネレスはガルバスの手を取ると水棲種達が広げている網の中心部に収まった。
『出発する前にこちらをどうぞ』
一人の水棲種がネレスに近づくとある物を手渡した。それは黒い玄武岩でできた球体であり、ネレスが船の上で投げ込んだ物と同一の物だった。
『また何かあればこれを投げ込んで下さい。我々はあなた方の力になります』
『ありがとう。僕も君達のためになら喜んで力になろう』
受け取った球体を鞄の中に仕舞ったのを確認すると酋長が号令を上げ、水棲種達が一斉に網を引いて泳ぎ始めた。それだけではなく水上付近に五人の別部隊がおり、外の様子を監視し、また網から少し離れた場所で十人の水棲種達が待機し交代で網を引いたり、監視をするようだった。
水棲種は二時間もあれば五十メートルを泳ぎ切ることができるのだがそれは両手足を使った場合であり、網を引っ張るために腕が使えない状態ではその速度も半分程度に落ち、目的の場所に到達したのは出発してから四時間近く経過した頃だった。
『我々が同行することが出来るのはこれまでの様です。これ以上先に進むと別の者達の縄張りに入ってしまうので……』
『いや構いませんよ。あなた方のおかげで帝国に足取りを知られる事無くここまで来ることができました。感謝します』
ネレスは一礼すると水上を目指して泳ぎ始めた。すると一体の水棲種がネレスに近づくと後ろから抱きつき、勢い良く足を動かしてあっという間にネレスを水上にまで運んだ。
『ありがとう。ン・スレイ』
ネレスを運んだン・スレイという雌の水棲種はかつてネレスに森の中で助けられた者だった。
『…気にしないで』
ン・スレイはそれだけを言うと水の中に顔を沈めてどこかに消えてしまった。それから少し間を置いてガルバスが水中から顔を出した。
「ここは一体どの辺りだ?」
「さあな。彼等の言うことが正しければ陸に上がってしばらく進めば街道に出るだろう」
ネレスはそう言うと岸に向かって泳ぎだした。ガスバスもその後に続いて泳ぎだした。二人の姿が少し遠ざかるとン・スレイはこっそりとまた顔を水上に出し、二人が陸に上がり、どこまでも広がっている広い草原の彼方に消えてゆくまでを見送っていた。その目はどこか悲しげであり、また羨望に満ちた眼差しでもあった。
*
二人が歩き続けて日が暮れた頃に街道らしい草が無く、踏み鳴らされた茶色い地面が横に真っ直ぐ通っている場所に出た。もう夜も遅い事もあり、二人はその道のそばで寝ることにした。
ネレスが魔術で火を起こし、水に濡れた服や麻布を乾かしている間にガルバスは食料を探して草原の中を歩き回っていた。牙獣種であるガルバスの目は夜の闇も見通せるため明かりがなくても動き回ることができ、更に人間ならば見落としてしまうであろう地面の穴を見つけることができた。
「さて何がいるのやら……」
ガルバスはしゃがみ込むとゆっくりとその穴の中に手を突っ込んだ。穴は思ったよりも浅くすぐに何かフサフサした物が手に触れたがガルバスがそれを掴むと凄まじい勢いで暴れ出した。
「このっ!」
力任せにそれを引きずり出すと思いっきり地面にそれを叩きつけた。ギッという短い悲鳴のようなものが上がるとガルバスの手の中で暴れていた何かはピクリとも動かなくなった。
「…イタチか。あまり食った事はないが大丈夫だろう」
ガルバスは動かなくなったイタチを持ち直すと遠くに見える火の明かりの元に戻ることにした。
「お疲れ。君の布は乾いたよ」
ネレスは錆を防ぐためか刀を抜いてその刀身を火の上にかざして乾かしていた。ガルバスは麻布の上に腰を下ろすと火のそばに先ほど獲ったイタチを投げ落とした。
「ガライタチか。こいつは何度か食べたことがあるがうまかった覚えがある」
刀を脇に置くとネレスはベルトから短いナイフを抜いて慣れた手つきでその皮を剥ぎはじめた。すぐに皮は剥げ、内蔵を掻き出すと二つに切断し、いつの間にか作っていた木の串を通して火のそばに立てかけた。
「二十分もすれば焼けるだろう。生で食べても問題はないだろうが焼いて食べた方がうまい」
獣人は人間に比べて消化器官が強い者が多く、生肉を食べても人間の様に食中毒を起こしたりしないが中には火を使って料理の様な物を作る者もいる。ガルバスは最近は生食しかしていないが昔、まだ家族と共に牙獣種の集落にいた時には焼いた肉を食べていたためネレスの行動に異を唱える事はしなかった。
時間と共にうまそうな匂いが辺り一面に漂い、肉の表面も程よい茶色に変わり始めた頃だった。ガルバスの鋭敏な耳が辺りの草原から聞こえたかすかな足音を捉えた。
「どうした?」
ガルバスの僅かな変化に気付いたのかネレスは顔を上げた。
「どうやらこの匂いにつられてハイエナ共が来たようだ……」
言われて周りを見回すと夜の闇の中にギラギラと光る黄色い目がいくつもあることに気付いた。その目は二人ではなく、その奥にある肉に向けられており奪いに来るのは明らかだった。
「どうする? 追い払うか?」
「そうしよう。君はそこで持って行かれない様に見ておいてくれ」
ネレスは刀を置いて立ち上がると右手を一体のハイエナに向けた。その瞬間バチバチと突き出された右手に火花が走り、続いて白い球体が勢いよく飛び出してハイエナのすぐ目の前の地面を弾き飛ばした。
するとハイエナは怯えた小さな悲鳴を上げてどこかへ去っていった。今の一撃をネレスは当てることができたがあえて外した。何故ならば仲間を失った事によるハイエナ達の報復が起きない様にすることと同時にこれ以上の労力を使いたくなかったからだった。
ネレスの目論見は成功し、一匹が逃げるとその恐怖は群れに伝播しさっきまで二人を取り囲むようにいたハイエナの群れが忍び寄ってきた時とは対照的なまでに音を立てて逃げ去っていった。
「ふぅ……」
小さくため息を吐くと使うことのなかった刀を鞘に収め、ネレスは火のそばに戻って腰を下ろした。
「もういいだろうな」
ネレスは串を掴むと大口を開けてうまそうな肉にかぶりついた。濃厚な肉汁が口の中に溢れ、咀嚼するたびに程よく焼けた肉の味が口の中に広がった。ガルバスも同じように乱暴にかぶりつき、肉を噛み千切った。
「確かにうまいなこれは」
「ああ、後は酒があれば十分だが……それはまた今度だな」
「そうだな。確かにこれは酒が欲しくなる。次の町に着いたら酒を飲むぞ」
「構わないがほどほどにしてくれよ。酒を飲んで暴れるような事だけは止めてくれ」
「私は酒を飲むとすぐに眠ってしまうからその心配はない」
二人は談笑しながらガライタチを完食し、掻き出した内臓と共に近くの地面に埋めた。腹が膨れると急激に眠気と疲労が二人を襲ってきたため二人は寝ることにした。
水の中に二時間以上いたこともあり、二人の体は心底冷えていた。そのため二人が寄り添うように眠るのは至極当然のことであった。ネレスは二回り近く大きなガルバスの体に抱きつくとフサフサとした黄色の胸毛の生えた胸に顔をうずめて早々に眠りに落ちていた。
対するガルバスはさっきまで体を襲ってきていた眠気が吹き飛んでいた。その原因は彼女の胸に顔をうずめているネレスにあった。自分より年齢的にも肉体的にも二回り以上小さな人間の少年、彼はその小さな体躯に似合わないまでに強く、それでいて残酷だった。何故年端もいかぬ彼がこのような残虐性を持ちあわせるように至ったのかを彼女には知る由もなかったが今見せている安らかな寝顔は森の中で帝国の兵士を殺害した時と船の上でカーラに向けていた時の敵意を剥き出しにした顔とはあまりにもかけ離れた年相応の顔だった。
そのギャップのせいか、それともガルバスが持つ母性のせいかその寝顔はとてもいとおしく見えた。思わず手を持ち上げてその髪を撫でてみる。絹糸の様にサラサラとしたその髪の毛はガルバスの太い指の間をすり抜けては元の束に戻った。
―もし…あの時私が拒まなければ私にもこのような子供が生まれていたのだろうか?
ガルバスは今から十年程昔に同じ集落の男の求婚を拒んだ。それが原因で集落を追われることになった彼女であるが今のいままでそれを後悔したことがなかった。なのに今になって何故そのような事を考えるのかが彼女には不思議でしかなかった。獣人の寿命は人間に比べて三十から五十年程長い者が多く、まだ彼女は若い部類に入っているのだがもう結婚も出産もその時に諦めていた。
―全く……何故今になってあの時のことを思い出すんだ?
「下らない」
ガルバスは吐き捨てるように言った。
過去は過去であり、いくら掘り起し後悔しても決して過去は変えられないし変わらない。故に過去の自分の過ちを責めることは全くの無意味だった。それを集落を追われたガルバスは一人で生きている内に悟り、過去は過去と割り切り集落から持ち出した物を全て捨て去り過去に別れを告げたのだ。
―ずっと一人で生き、そして死ぬものだと思っていたがこういうものも悪くないのかも知れないな。
またネレスの頭を撫でながらガルバスは思った。だが……できる事ならばこの腕に抱く小さな者が自分と同族であればどれほどまれに良かったか、そう思わずにはいられなかった。
まだガルバスにはネレスほど異種族に関する理解を持ち合わせてはいなかった。
まだガルバスにはネレスほど異種族に関する理解を持ち合わせてはいなかった。
*
翌日の朝早くから二人はまた走っていた。街道の上を走り出して小一時間ほどすると目の前に数台の馬車が止まっているのが見えた。どうやら何かしらの隊商であるらしく、食料を購入できることを期待して二人はその隊商を刺激しない様に速度を落としてから近づいた。
だが二人を待っていたのは辛辣な歓迎だった。
「お前達は誰だ!」
馬車のすぐ隣に腰かけていた頭に包帯を巻いた人間の男が槍を二人に突き付けたのだ。その頭に巻かれた包帯は赤い血に滲み、つい最近傷を負った様であるようだった。
「僕等はネンブラムから来たのだが途中で食料が尽きてしまったのでできれば一食分でも構わないので売っては貰えないでしょうか?」
「……なんだ、ただの旅人か。ついて来い」
男はさっきまで体に漲らせていた殺気を消すと二人に背を向けて奥にある一回り大きい馬車に向かって歩いて行った。その馬車の操馬席には浅黒い肌の老人が何やら神妙な面持ちでキセルを使って紫煙をふかしながら考え込んでいた。
「旦那! 旦那! ギドの旦那!」
男に三度よばれて老齢の商人ギドは顔を上げた。
「カーチス、一体どうしたんだ?」
「こちらの二人が食料を売ってくれと言ってきたのですがいかがいたしましょう」
カーチスの声はとても小さかったが敏感なガルバスの耳はその声を捕えた。
「売ってやろう……いや待て」
ギドは一度売ると答えたがすぐに否定し、黙りこんでしまった。キセルを咥えた萎びた唇がモグモグと動いた後に視線がネレスの腰に差しこまれている刀に向けられた。
「お前は剣を使うのか?」
「そうだ」
「ちなみにどれほどの腕だ?」
「何故そんなことを聞くんだ? 僕等はただ食料を買いに来ただけなんだが…」
ギドの意図が全く不明の問いにネレスは首を傾げた。
「もし…力に自信があるのならば私に雇われてくれないか?」
「どういうことですか?」
「私の隊商は本来五つの馬車から成るものだ。だが二日前に盗賊に襲われ馬車を二つ失った。それだけでなく、護衛の大半が死亡し、残りも負傷して満足に動ける者は少ない。だから次に襲われたらひとたまりもないのだ。もし無事に次の町に辿りつけたのならば報酬として五万レイルズを支払おう」
―五万か。悪くは無いな。
「いいでしょう。ただし報酬に次の町に着くまでの食糧もつけてもらいたい」
「ああ、構わん。それで命が買えるのならば安い物だ」
足元を見たネレスの要求をギドは拒むことなく受け入れた。その弱腰な態度にカーチスは苛立ちを覚えたが場合が場合なだけにそれに抗議することはしなかった。
それから少しして新たに二人のメンバーが加わったギドの隊商は街道に沿って動き出した。ギドの隊商のメンバーは全員で十人であり、その内半分がカーチスを含めた護衛であったが満足に動けるのはカーチスぐらいであり実質三人で盗賊を防がなければならない現状だった。
「それで…君達を襲った盗賊というのは一体どんな奴だったか分かっているのか?」
「それがだな…暗くてよく分からなかったのだが全員馬に乗っていて動きが素早かった。しかも弓で遠くから攻撃してくる奴もいたし斧や槍を持っている奴もいた。俺達は全力で戦ったが誰一人として殺すことができなかった」
「おおよその数は? それも分からないのか?」
「いや…直接襲ってこなかったのを含めれば二十人は超えていたと思う。矢が雨の様に降り注いできたからな…」
カーチスは包帯を巻いた右肩を左手でさすった。
「ネレス…お前一人で何人まで相手に出来る?」
「相手や状況次第だが剣士ならば百人までなら大丈夫だ。しかし弓兵がいるとなると半分ぐらいに落ちるかな」
「随分な物言いだが本当に勝算はあるのか?」
まだネレスの事を信じていないカーチスは怪しむような目を向けた。それを見てネレスは右手を開くとその上に小さな火の玉を作り出した。その火の玉を見た瞬間にカーチスはギョッとした表情を浮かべ、畏怖の眼差しをネレスに向けた。
「お前…魔法使いなのか?」
「そうだ。僕の魔法の射程は大体百メートルある。そこらの弓の射程ぐらいは軽く超えられるさ。まずこれで後方にいる弓兵を片付ける、次に騎馬兵を叩けばいい。後方支援がなければいくら馬に乗っていようと関係ない」
火の玉を消すとネレスはニヤリと笑ってカーチスを見た。
「……」
カーチスは仕事柄魔法使いと何度か一緒に行動を共にしたことがあるがその全てに例外はなく傲慢で鼻持ちならない奴等だった。それは彼等が持つ人間の理から完全にかけ離れた巨大な魔法という力のせいでありカーチスもネレスが今までの魔法使いと同じだと先程の笑みで確信した。
「私はどうすればいい? 先に騎馬兵を叩いた方がいいのか? それともお前が弓兵を倒すのを待った方がいいのか?」
「……そうだな。ガルバスは先に出ておいてくれ。弓兵を全滅させる前に馬車を壊されては元も子もない」
「分かった」
ガルバスは短く頷くと大きく伸びをした。どうやら彼女にとって初めての馬車の旅はいささか退屈の様だった。そのためその巨体を横たえるとすぐにいびきをかいて眠ってしまった。
「お前は眠らないのか?」
「別に眠くはないからな。それに眠っている間に襲撃されたらそれこそ笑いものだ」
「それもそうだな……」
「前の様に奴等は夜に来る可能性が高いがもしかすると白昼堂々とやってくる可能性も捨てきれないからな」
ネレスはそう言うと刀を抜いてその刃を小さな布きれで磨き始めた。その刀身は鏡の様に美しく煌めき、微妙な青色を含んだそれは見ている者の心を吸い込むような何とも言えない恐ろしさがあった。
刀身を見つめるカーチスの視線に気づいたネレスはすぐに磨くのを止め、それを鞘に仕舞った。ネレスの持つ刀は帝国軍の支給品ではなく彼一人のために造られたこの世にたった一つしかない刀であり、追放される際に金の他に唯一持ち出すことの出来た物だった。
「……どうかしたか?」
「いや……別に。何でもない」
急に声をかけられたカーチスはバツの悪そうな表情を浮かべると答えた。これは今までに何度かあった事なのでネレスは何も答えずに刀を抱えると背中を荷台を覆う灰色の麻布にもたれかせた。
ガラガラと馬車が音を立てて街道を進んでいる内に日は傾き、やがて夜の帳がおり始めた。
「カーチスさんギド氏に馬車を止めるように言ってくれ。奴等が来る前に体勢を整えておきたい」
「分かった」
カーチスは頷くと大声を上げてギドに止まるように言った。しばらくして馬車は止まり、ネレスは馬車を降りると馬車を円を描く様に配置するように指示した。同時に火を起こさせ、五つの松明をそれぞれの馬車の前に置いた。
次第に辺りが暗くなる中ネレスは一台の馬車の上に立つと暗闇に包まれた夜の草原を見回した。松明の光があるとはいえ、その程度では夜をかき消せるほどではなくせいぜい十メートル先を見ることが限度だった。
「全く……人間の目とは不便だ」
ネレスは自虐気味に呟くと右目を掌で覆った。青い光が指の間から漏れ、光が消えた後には右目は僅かながらに変化をしていた。左目に比べて僅かに肥大化し、その黒目はネコ科の動物に見られる様な縦に長い形に変化していた。
「やはりこの目は良く見える。…五、八、十、十五、二十…もうかなりの数が集結しているな」
人間の目から夜行性の動物の目に切り替わった目で周りを取り囲んでいる者達の数を大まかに割り出すとネレスは下で待機していたガルバスに声をかけた。
「君にも見えだろうがもう僕達は囲まれている」
「ああ。既に囲まれているな。どうすればいい?」
「僕が攻撃するのと同時に君も動いてくれ」
言い終わると同時にネレスは左手を空にかざした。するとそこに馬車で見せた時とは比べ物にならないぐらいに巨大な火の玉が一瞬の内に現れた。同時に遠くの草原からさっきまで巧妙に隠されていた生物の気配が一斉に感じられるようになった。どうやら盗賊達はネレスの作り出した火の玉に驚き、気配を断つことを忘れたようだった。
その隙をネレスが見逃すはずなかった。火の玉は急激に膨張し、二倍近い大きさに膨れ上がると同時に弾けた。弾け、無数の小さな火の玉となったそれらは夜の空を駆け抜け馬車を取り囲んでいた盗賊達に向かって飛んだ。その正確無比な狙いは全て外すことなく盗賊に直撃し、一瞬にしてその体を包み込み、燃やした。
合計で十体の火柱が夜の草原に出現したのと同時にガルバスは走り出していた。既に目標のいるおおまかな位置は割り出しており、一番近い者に向かって全速力で近づいた。中腰で草むらに隠れるように進んでいたが草をかきわける音で接近はばれていた。だからと言って止まる訳にもいかず、ガルバスは右手を固く握りしめると思いっきり地面を蹴って飛び上がった。
そして不自然にまで高い位置にある人間の男の顔を殴り飛ばした。殴られた男は悲鳴を上げる事無く吹き飛び、草をなぎ倒しながら草原の上に転がった。その男の姿は奇怪としか言いようがなかった。
頭から胸にかけては人間の形をしていたが臍の下からは全く異なるものだった。太ももらしきものが異常に肥大しているがその下についている足は細く引き締まり、膝は瘤の様に丸かった。そして極め付けだったのが男にはその馬染みた足が四本も備わっている事だった。
「半獣種か……」
ガルバスは男の奇怪な全身を見て小さく呟いた。
半獣種とは数ある獣人の一種であり主な特徴としてその体の半分から三割程度が既存の動物とほぼ同じ構造であり、まさに人間と獣が合わさった種である。そして今回二人の前に現れたのは馬との半獣種だった。
半獣種をガルバスは同族とはみなしてはおらず、倒れている男の頭を何の躊躇いもなく蹴り飛ばした。ボキンと音が鳴り、男の首の骨は砕け散った。
「次だ」
完全に無力化が出来たことを足の感覚で確認したガルバスは次の目標目がけて走り出した。今度の目標は近かったが故に半獣種はガルバスの接近に気づき、手に持っていた棍棒を振り上げていた。
それに対するガルバスの行動は単純極まりなかった。ただ目標に対して勢いよく直進する。一見無謀にもとれる行動だったが近接戦において圧倒的な自信と経験を持つガルバスには無謀な事ではなく、ごく自然ないつも通りの行動だった。
頭めがけて振り下ろされる棍棒を左手で受け止めるとそれを思いっきり引っ張って奪い取り、固く握りしめた右手で半獣種の顎を撃ち抜いた。顎は人間の急所であり、人間に近い構造をしている獣人とて例外ではなかった。
顎への一撃は半獣種の脳を揺らし、立つことが出来なくなった半獣種はその場に倒れ込んだ。さっきと同じように首の骨を砕こうとしたが背後から迫って来ていた殺気に反応し、反射的に棍棒を後ろに投げつけた。
鈍い音がして何かが地面に落ちる音がした。振り返ると斧を持った半獣種が一体、強い殺意を漲らせて立っていた。
「来いよ。ぶっ殺してやるよ」
口汚く挑発するとガルバスは地面を蹴っていた。またさっきと同じ一直線の接近、それに対して半獣種は斧を横に構えると射程に入ると同時に勢いよく振り抜いた。完全にタイミングの合った攻撃であり、骨を砕くかのような固い感触が彼の手に伝わった。だがその斧の刃はガルバスを捕えてはいなかった。彼にとって全くの想定外のことが起きていた。振り抜かれたはずの斧の柄をガルバスが左手で掴んで止めていたのだ。
「残念だったな!」
ガルバスは右手を振り上げると全体重を乗せた一撃を半獣種の鳩尾に叩き込んだ。ガルバスの拳は肋骨を簡単に砕き、砕かれた肋骨は肺に突き刺さり半獣種の口から血が噴き出した。
「さて…後残っているのは何人かな?」
奪い取った斧でまだ息のあった二体の半獣種の首を斬り落としながらガルバスは言った。
一方ネレスはというと何の感情もなく、四人目の半獣種の体を両断していた。彼は人間と獣人は平等であるべきだと言っているがそれは獣人の全てを擁護するという意味ではない。例え獣人であってもそれが悪人なら躊躇いもなく彼は手を下し、その命を奪う。それは人間においても同様であり彼の正義にそぐわない者であるのならば同じように殺すのだ。
二つの異なる種族をあくまで平等に天秤にかけ、それを彼の基準によって裁く。ただそれだけだった。
「後三人か。さあ誰だい? こいつらの様に死にたいのは?」
ネレスは刀を垂直に構えなおすと周りを取り囲んでいる半獣種に向かって言った。彼等は最初怒りにまかせてネレスに襲いかかったのだが先走った三人はいとも容易く切り捨てられ、ついさっき四人目が殺された所だった。
四人も仲間を殺されたため彼等の中にネレスに対して恐怖心が生まれ、一定の距離を保ったままグルリと取り囲むだけで襲いかかることはできなかった。
「来ないのか? なら…こちらから行くとしよう」
ネレスは地を蹴り勢いよく刀を振り下ろした。半獣種はそれを体を捻ることで避けた。だが反撃に移らずにネレスから離れ、先端に棘のついた六角柱がある長柄棍棒を構えた。それに対応するようにネレスは体勢を整えると刀を鞘に収めて地面に置いた。
その行動は不可解な物に見えたが次に取った行動によってその疑問は吹き飛んだ。ネレスの両腕が青い光に包まれ、それが消えるとさっきまで柔らかな肌色だった手がゴツゴツとした赤色の鱗に覆われていた。
その変化に半獣種は驚いたがすぐに持ち直すと棍棒を振りかぶり、思いっきりネレスの頭部に向かって叩きつけた。岩をも砕く強烈な一撃であった。しかしそれを頭の前で交差されたネレスの腕は受け止めると金属のすれ合う不快な甲高い音を立てながら力任せに弾き飛ばした。
「この鱗は鉄程度では砕けないよ。この鱗の強度はそこらの鉄よりも上だからね」
言い終わらない内にネレスは指をまっすぐ伸ばして手刀を作ると勢いよく半獣種の腹に向かって突き刺した。ネレスの腕は貫通し、流れ出た赤い血液が着ていたコートをどす黒い赤色に染まっていった。
「あと…二人か」
ネレスは更に赤く染まった鱗に覆われた右手を引き抜きながら言った。両腕が赤い鱗に覆われ、右目だけ獣じみた目になっている奇妙な人間。その奇怪な姿に残りの二人に今まで以上の恐怖が襲いかかった。今までのただ強いと言うだけでなくその正体が得体の知れない何かである。それだけで彼等の怯えきっていた心には十分すぎる追い打ちだった。
二人は弾かれるように背を向けて逃げ出した。脱兎のごとく逃げ出した二人が見えなくなるまで見送ると両腕から鱗を消し去った。鱗が消えると現れたのは元の肌色の腕でありその手で地面に置いていた刀を拾い上げた。
「そっちはどうだった? 怪我を負っていないかい?
いつの間にかすぐ近くにまで接近してきていたガルバスに対してネレスは振り返ることなく聞いた。完全に気配を絶ったはずなのに接近に気付かれたことにガルバスは驚いた表情を見せ、少しの間だけ固まっていた。
「…あ、あぁ。大丈夫だ。それよりもさっきのアレはなんだったんだ?」
「ん? これか?」
ネレスは右腕にまた青い光が灯り、次の瞬間には再び腕が赤い鱗に覆われていた。
「これは私が昔討伐したレッドドラゴンの鱗だ。それを魔術によって移殖し、好きな時にこうやって出現させることが出来るんだよ」
「レッドドラゴンを討伐しただと!? 一人でか?」
「いや一人ではないよ。流石にあんな化物を一人で倒せるわけがないだろう。協力者が九人いたよ」
レッドドラゴンとは火山の最奥に棲む名の通り全身を赤い鱗に覆われた巨大なドラゴンであり、吐く息には火炎が混じり一度暴れ出せば小さな国一つは軽く滅ぼされる凶悪な生物だった。
「あんまり見せびらかすものではないからもう戻すぞ。それとカーチス達に追い払った事を伝えなければならないな」
腕を戻すとネレスは刀を腰に差し直して歩き出した。
「そうだな」
ガルバスは歩きながら手に持っていた斧を見つめたがもう使う必要がないためその場に投げ捨てた。
ネレスは盗賊を追い払った事をギドとカーチスに伝えた後も馬車の上に座って監視を続けることにした。火の玉で焼き殺した者も含めて二十人は殺していることもあり、小規模の盗賊ならば壊滅しているぐらいの被害だがもし五十人以上の大規模な盗賊団であれば報復しに来る可能性もある。そのためそう簡単に眠りにつくわけにはいかなかった。
しかし夜が明ける頃になっても再び誰かがこの隊商を襲ってくる様な事はなかった。