第一章 その胸に抱いた理想 前半
暗く陰鬱な森の中を一人の女が走っていた。その女は裸足で、しかも服は局所を隠す最低限の者しか身に着けておらずその露出した鋼の様に鍛えられた肩と背中には幾本もの矢が突き刺さっていて走る度にジクジクと鈍い痛みを発した。
女は時折後ろを振り返り、その暗闇の中に追手の姿が無いかと確認していたがそれらしい人影は見られなかった。だからといって安心して休むわけにもいかず、女は走り続けた。
走りながら空を見上げるとさっきまで夜空に浮かんでいたはずの三日月が黒い雲に覆い隠されていた。
―これは一雨きそうだな。
女がそう考えたのとほぼ同時に一滴の雨粒が女の鼻の頭で弾けた。雨粒はそれだけにとどまらず、ザアザアと音を立てて雨が降りはじめた。女はこれで足跡が消えると喜びながら走り続けたが次第にその雨の勢いは強まり、バケツをひっくり返したかのような大雨となった。
しかも雨は強風を呼び寄せ、森の中だというのにまともに進むことがままならない状態になった。更に降りしきる大量の強い雨のせいでいつの間にか足元に厚い水の層が出来上がっていた。そのためまともに走ることが出来ず、女は雨が小降りになり、水の層が無くなるまでどこかで休むことにした。
流石に追手もこの雨の中を追いかけずに休むだろうと女は予想し、丁度目の前にあった巨木の虚の中に大きな体躯を滑り込ませた。虚は女の巨体が収まるギリギリの広さしかなかったが少し地面が盛り上がったにあるため水位がある程度高くなっても浸水するような気配はなく雨曝しになるよりか数倍マシな環境だった。
しかもその虚の中にはキノコが何本か生えており、今日一日何も食べていなかった女にとってはありがたい物だった。女はそのキノコを種類も確かめずに引きちぎって口の中に入れ、渋さに顔をしかめながらも飲み込んだ。ついでに虚の外にたまっている水を手ですくって飲み、渇きを癒しながら雨が収まるのを待った。
三十分ほどすると雨は小雨になり、地面に出来ていた水の層もある程度薄くなっていたため女は虚から出ると再び走り出した。
とにかくこの森を抜けて追手を完全にまかない事には安心して眠ることは出来ない。女は水を跳ねあげて森の出口を目指したが突然何の前触れもなく視界が揺れ、女は前のめりに倒れ、地面を転がった。
矢が折れる音がしたがそんなことよりも立ち上がらない事にはすぐに追手に追いつかれてしまう。女は腕の力だけで上半身を起こしたが腕から力が急激に抜け去り、女は再び地面にうつぶせに倒れた。
―矢に毒でも塗ってあったか…。
女は気道を確保するために顔を泥から出すと何故自分が倒れたのかを考えたが次第に頭はぼやけ、思考が纏まらなくなり女は意識を手放した。
*
女が目を覚ました時には視界は一変し、暖かい色の木の天井が見え、自分が柔らかいベッドの上に寝ていることに気付いた。
「君はこの辺に生えているアガラダケを食ったようだね。これを飲むと良い、アガラダケの痺れはすぐに消えるけど放っておくと味覚障害を起こすことがあるからね」
女のすぐ隣には頭にターバンの様な物を巻いた少年が立っており、その手には黒っぽい液体が入った木のコップが握られていた。
「…ありがとう」
女はそれを受け取ると一口で飲み干した。その液体は見かけどおりの苦さだったが女は吐き出さずに飲み干した。
「君の服は汚れていたから洗って干してある。朝には乾くだろうからそれまでは包帯だけで我慢しておいて欲しい」
女は少年に言われて自分の体に包帯が巻かれていることに気付いた。それを見ている間にも少年は空になったコップを受け取ると部屋を出て行こうとしていた。
「待て」
「…何か欲しい物があるのかい?」
「いや…君は私の姿を見ても何とも思わないのか?」
女の姿は普通の人間とは違っていた。肌は褐色がかり、爪は長く鋭く、口元からは鋭い牙が見え、最も特徴的だったのは尖り、黄色いフサフサした毛に覆われた耳だった。女は人間ではなく、獣人あるいは亜人と呼称される種族であり細かい区分があるがそれらの中で最も人間に近い姿をしている牙獣種と区分されるものだった。
「別に? 僕にとって牙獣種は見慣れた存在だからね。それに僕は君が鳥獣種だろうと水棲種だろうと助けた。姿にこだわるのは全ての生物が持つ悪い癖だ。全ての生物は姿ではなくその本質によって区別されるべきなんだよ」
少年はそう言うと部屋を出て行った。女は少年の言葉の意味を考えようとしたがそれよりも今自分が置かれている状況を知ることが先決だった。そのためベッドから下りると少年の後を追って隣の部屋に移動した。
少年はその隣の部屋で先ほどのコップを洗っていたが女が部屋の中に入ってきたことに気付いたのか洗い物の手を止めて振り返った。
「私は一体どれくらい眠っていたんだ?」
「大体三時間ぐらいかな? 何か急ぎの用があったのかい?」
「私は帝国に追われているんだ。下手をするともう囲まれているのかもしれない」
「大丈夫だ。外は酷い雨でまともに外に出ることは出来ない。だからあの追ってもどこかで雨宿りをしているはずだ」
少年が窓を開けるとバケツをひっくり返したかのような豪雨が降っており、この状態で外を出歩いているのは神経を疑う程だった。
「帝国のカスどもに気を取られるよりも今は休んだ方がいいだろう」
少年は窓を閉め、戸棚から二枚の木製の皿と二本のスプーンを取り出してうまそうな匂いを漂わせている黒い鍋に近づいた。中身は暖かいスープであり、体の冷えていた女にとっては虚の中に生えていたキノコよりありがたい物だった。
*
鍋が空になる頃には雨は小降りになり、地面にたまった水もその厚さを減らしていた。
「それで君はこれからどうするつもりなんだ?」
「とりあえずこの森を抜けようと思っている。そうすれば帝国の追手もまけると思うんだ」
「そもそも君は何故帝国に追われているんだ?」
「それはだな…私の大切な球があるんだがそれが盗まれてしまったんだよ。それですぐ近くを走っていたキャラバンを捕まえたんだが運悪くそれが帝国御用達の奴だったせいで護衛の奴等に追われる羽目になったんだよ」
「球って宝石か何かなのか?」
少年は盗まれるほどの価値のある球が一体どんなものだったのかが気になった。
「いや…ただの黒っぽい石だから宝石とか金属ではないと思う。だが抱いて寝ていると夢見がいいんだ。だから取り返したいんだがどこに行ったのか皆目見当がつかないんだ」
「それなら南に向かうと良い。南にはネンブラムという町がある。あそこは河の向こうのネーベとも交流していてかなり物流が激しい。だから…そこに君の石を盗んだ奴がいるかもしれない」
「なるほどな…」
「それに少しだが獣人も住んでいるからそこまで獣人への差別も酷くないから余所者が入って来ても別に何も言われないだろう」
ネンブラムには少年も何度か行った事があり、少しだけだがその町について知っていた。
「君は優しいんだな…」
「優しい? 僕がかい?」
「普通の人間は獣人を見ただけで怯えたり、石を投げたりするものだ。君の様に家に上げて飯を出すのは初めて見た」
「そうなのか? 近くのネンブラムでは普通に牙獣種の獣人が暮らしているが…、まあ確かに帝国の首都では差別はひどかったな」
少年はため息交じりに窓を開けて雨の様子を見た。もう雨はほとんど止んでいて雲も散り散りになり、僅かに東の方が明るくなっていた。もう外に出ても雨に降られることはないだろう。少年がそう女に告げようとした時だった。暗い森の中に赤い松明の炎がいくつも現れた。
「少々帝国を侮っていたようだ。奴等がすぐそこにまで来ている…あの雨の中を歩くとは根性のある奴もいたんだな。君の服を持ってくる。少しここで待っていてくれ」
少年は窓を閉めると部屋を出て行ったがすぐにその手に女の服と一振りの刀を持って戻ってきた。
「その刀で何をするつもりだ?」
反射的に女は身構えたが少年はその刀を女に向けるつもりは毛頭なかった。少年はその刀を机に置くと女に綺麗に選択した服を手渡した。それは服とは名ばかりで薄い麻布と粗雑な腰巻であった。
女は包帯をほどいてそれ代わりに体に巻きつけて外に出ようとしたが少年がそれを制した。
「僕が先に外に出てあいつらを引き付ける。君はその間に逃げるがいい」
少年は壁にかけていた黒いコートに袖を通すと刀を掴んだ。
「お前それを本気で言っているのか?」
「冗談で言ってはいないよ。それに帝国の兵士どもは雨に濡れて体力も奪われているだろう。複数人いても僕の敵ではないさ」
少年はコートのフードを被ると小屋の外に出た。外の地面はぬかるんでおり一歩踏み出しただけで靴に冷たい水がしみ込んだ。少年が先ほど松明の炎が見えた場所に向かおうとしたが向こうから少年に近づいてきた。
「あなた達は誰ですか?」
「我々はこの森に逃げ込んだ獣人を追っている。何か見なかったか? 」
兵士は全員で五人おり、その内の一人が少年に問いかけた。
「さあ…? 何分雨が酷かったものでそのような物は何も見ませんでしたが…」
「そうか…失礼したな」
「待ってください」
兵士が去ろうとしたが少年はそれを呼び止めた。
「もし行くのなら北が良いでしょう。北に行けばすぐに森を抜けられるでしょう」
「そうか。ありがとう」
兵士は少年の言葉を鵜呑みにして彼に背を向けて去ろうとした。これでいいだろう。少年は後ろを振り返り、女に逃げるように顎で示したが女はあろうことかこちらに向かって全速力で走り、少年の少し後ろで地面を蹴って空に飛び上がった。
そして無防備な後姿を晒している一人兵士の首筋に強烈な飛び蹴りを叩きこんだ。骨の砕ける鈍い音が響き渡り兵士は声を上げる間もなく絶命し、勢いよく吹き飛んだ。
―馬鹿野郎!
少年は心の中で悪態をつくと刀を抜き、驚きの表情を浮かべている目の前の兵士の首筋を切り裂いた。傷口から勢いよく血が噴き出し、兵士はフラフラとよろめくとゆっくりと地面に倒れ込み、荒い息を繰り返したがすぐにその呼吸は止まった。兵士の呼吸が止まるのと同時に止まっていた他の兵士たちの時間が動きだし、慌てて腰に差していた剣を抜き放った。
「こいつ…我々を騙していたのか!」
残った三人の兵士は一斉に少年に斬りかかろうとしたがその前に女が立ちはだかった。女の身長は兵士達を軽く頭一つ分超えており、その圧倒的な威圧感から兵士たちは物怖じしその場で固まってしまった。
「何て事をしてくれたんだ! もう少しでこいつらを騙せたっていうのに!」
「あぁ…そういうことだったのか。てっきり後ろから不意打ちをかけるのかとばっかり思っていたよ」
「こうなったら仕方ない! こいつら全員皆殺しだ!」
少年は一番近くにいた兵士に向かって歩き出した。それに呼応するかのように兵士達は少年に刀を向けたがその内二人の剣先はすぐに女に変った。それは女の方が圧倒的なまでの殺意を漲らせており本能的に無視することができなかったからだった。
唯一少年に剣を向けていた兵士は垂直に刀を構える少年を前にして何故か固まってしまった。
少年の構えは明らかに隙だらけにも関わらず、何故か人を寄せ付けない威圧感があった。それは剣道でいう上段の様な物であり、刀の範囲内に入れば一瞬にして切り殺される。そんな光景が兵士の脳裏にちらついていた。
だが彼の持っている武器は手に持つ剣だけではなかった。相手を牽制するための暗器をいくつか持っており腰のベルトから一本の暗器を抜き取るとそれを少年の顔目がけて投げつけた。少年は体を捻ってそれを避けた。
その時少年の意識はその暗器を避けることに集中しており、兵士への注意が少しだけ削がれた。その一瞬だけ少年の体に満ちていた威圧感が弱まり、兵士はその隙をついて間合いを詰めると頭めがけて剣を振り下ろした。
素早い一撃であったが剣は少年の巻いていたターバンを切り裂いただけで少年の皮膚を切り裂くことは出来なかった。
きつく巻きつけられたターバンは少しの亀裂が走っただけで緩み、慌てて少年が抑えようとしたがハラリとほどけ、それに隠されていた物が見えた。
「なんだと…」
「見たね?」
それは自然界に存在するはずのない紫色の髪の毛だった。
「貴様…追放者か!」
「正解だよ。だから君は楽に殺してあげるよ」
少年は驚いている兵士に一瞬で近づくと兵士の首を跳ね飛ばした。宙を舞う兵士の目は驚きに見開かれたままだったがさっきの兵士の様に苦しむような事はなかった。
少年は刀を振って刃についた血を落とすと助けに入ろうと女の方を向き直ったがその心配は無意味だった。二人の兵士は顔が原型を留めないまでに強い力で殴られ、既に死んでいた。
「こんな雑魚相手に逃げ回っていたのが恥ずかしい。最初からこうしておけばよかったよ」
女は両手から血を滴らせていたがそれは女のものではなく、返り血だった。
「にしてもお前の様な奴を追放するなんて帝国は腐っているな」
「帝国が腐っているのは元からだよ。それよりもこいつらを処分したいから死体を一箇所に集めてくれないか? 」
女は少年に言われるままに頭の砕けた死体と首がひん曲がったのを少年の切り殺した兵士のそばに乱暴に投げ捨てた。
「どうするんだ? 燃やすにしても今はちょいと厳しいぞ」
「何、大丈夫だ。少し待っていてくれ」
少年は死体を物色して剣の他に金になりそうなものを剥ぎ取ってポケットに入れると少し離れた場所で両手を広げた。何をするのかと女が訝しんでいると突然死体の下の地面がへこみ、まるで流砂の様にその死体を飲み込み始めた。
いくら大雨で地面がぬかるんでいるとはいえこれは自然界ではありえない出来事だった。
「これは…魔法なのか?」
「そうだ。僕は魔法使いだ」
少年が告白した瞬間突然すぐ近くの森の中から赤い花火が上がり、パーンという炸裂音が鳴り響いた。その花火が意味することを少年は知っており、奪った剣を抜くとそれを花火があがった方向に投げつけたが手ごたえはなかった。
「何だ? 今の光は? まさか見つかったのか?」
「その通りだよ。どうやら僕もここを引き払わないといけないようだ。少し待っていてくれ」
少年は沈み込みつつある死体を放置すると小屋の中に飛び込んだ。そして小さなポーチと一枚の布だけを掴んで出てきた。
「この家ともお別れだ」
少年が胸の前で手を動かすと小屋の中から火があがり、瞬く間に赤い炎がその小屋を飲み込んだ。
「何もそこまでしなくていいんじゃないのか? 」
「少しでも手がかりは残さないほうが良い。帝国は追放者に厳しいからね。僕も君の逃亡劇に同行させてもらうよ」
「構わんよ。お前は私を助けてくれた。だから今度は私がお前を助けよう」
「ありがとう。早速だが走ろう。こうしている間にさっき逃がした奴が仲間を引き連れてやってくるはずだ」
少年は新しい布で髪の毛を隠すと走り出した。見知った森だということもあり、その速度は女がかろうじて追いつけるぐらいに早かった。
*
国外追放とは帝国の中で死刑の次に厳しい刑罰である。この刑を受けた者は特殊な薬品によって髪の毛を無理矢理変色させられ、帝国から追放される。この変色は永久的なものであり、新しく毛が生え変わっても生えてくるのは変色した毛である。
そのため隠し通すことは難しく、国外に出てもその特異な髪の色から迫害され、結局は自殺する者が多い。更に国内に留まっているのが発覚した場合には国内を引き回された後に斬首刑となり、その首が晒される。そのため死刑より受けたくない刑罰として国民には恐れられている。
*
二人が森を抜けた頃には空は完全に晴れ、東の空からようやくその顔をだした太陽の光が草原の草に残っている雨粒に反射し幻想的な風景を作り出していたが二人にそれを眺めている暇などなかった。
二人は少しも休むことなく走り続け、森が見えなくなるころにようやく声を発した。
「そう言えば君の名前を聞いていなかった。よかったら教えてくれないか?」
「私の名前か? 私はガルバス。お前は?」
「僕はネレスだ。よろしく、ガルバス」
二人は名前を教え合うと小さく笑いあった。今二人がいるのは平坦な草原であり、さっきの様な悪路の森ではないのにもかかわらずネレスの速度は全く変わらずガルバスはその身体能力に舌を巻いた。しかしすぐにネレスが魔法使いであることを思い出し、これが何らかの魔術であるとガルバスは考えた。
それから二人は休むことなく走り続け、太陽がその姿を完全に現す頃にリーズ河のほとりにあるネンブラムの町にたどり着いた。ネレスの言う通りこの町は物流の激しい町でありせわしなく行商人のキャラバンが開店の準備をしていた。まだ朝早く人もまばらであったため二人はそれらの行商人達にスムーズに話を聞くことが出来たがどれも有用な物はなかった。
その最中ネレスはただでさえ目立つガルバスの姿を少しでもマシにするために巨大な麻布を購入し、それをガルバスに羽織るように言った。
獣人は人間に比べて体毛が濃く、そのため服を着る習慣のない者が多い。そのためガルバスもこれ以上の服を着るのは嫌がったがネレスの説得によりそれを着ることを承諾した。それから幾度となく二人は行商人や隊商のメンバーに聞き込みをしたがそれらしい有用な物は得られなかった。
昼頃になると人の数が多くなり、獣人であるガルバスに視線が集中し始めたため二人は一時的に情報収集を中断する必要があった。幸いにもその視線は敵意ではなく好奇心から来るものだったが注目を集めたくないため二人はそれらを避けるために寂れた店に入った。
二人が入った店は閑散としており、無愛想な店主が一人いるだけだった。この店をネレスは何度か訪れたことがあり、この人気のなさが気に入っていた。適当に昼食を注文すると二人は席に着いた。
椅子はボロく、ガルバスが座るとミシミシと悲鳴を上げたが何とか持ちこたえてくれたため尻餅をつくことはなかった。
「全く…人間ときたら獣人を見るたびにジロジロと目を向けてくる。まあ今回のは恨みの籠った物ではないからまだ許せるか…」
「ここに住む獣人たちに感謝することだな。彼らの行いが良いからここは獣人に対する差別は少ない。帝国の中心部とは雲泥の差だ。あちらもこの町の様になってくれればいいんだがな」
二人がぼやいていると注文した料理が運ばれてきた。それはサンドイッチであったが獣人様なのかガルバスの方が少し大きかった。ネレスは別にその差に不服など言わずに食べ始めた。
「ここにないとすればどこにあるんだろうか…。君のいた場所はここからかなり離れているんだったよね?」
「ああ、大体七十キロメートルは離れているだろうな」
「それならそっちに向かって移動した方がいいか…。大体の方角は分かるか?」
「太陽の昇る方向だから東だな」
ガルバスは大口を開けてサンドイッチに噛みつきながら答えた。
「なら東に行くべきだな。…しかし東にはあまり行ったことないからどんな町があるのか分からないな」
「私はあまり人間と関わりを持たないようにあの森の中で暮らしていたから周りに何があるのか全然知らないな」
「じゃあこれからは東にある町について聞いてみるか。あとある程度の食料も買わなければならないな」
二人はサンドイッチを食べ終わると代金として百レイルズ(一レイルズ=約二円)銀貨を三枚置いて店を後にした。店の外に出ると町の中心部が妙に騒がしい事に気づき、もしかしたらガルバスの石が注目を集めているのではないかと思い二人は人だかりに向かって歩き出した。しかし二人の期待は最悪な方向で裏切られることとなった。
人だかりの中にいたのは美しい白馬に乗った銀色の仮面をつけた騎士だった。その騎士の着ている鎧の胸には三本の剣が交差しながら三角形を象り、更に乗っている馬の兜には蛇が渦巻きながら大口を開けて太陽を飲み込もうとしている帝国の紋章が刻まれていた。
「最悪だ…。もう奴等がここに来るなんて予想外だ」
「どうするんだ?」
「一先ず逃げよう。夜になればどこかへ消えるだろう。それまでどこかに身を隠すとしよう」
二人はすぐに背を向けてその人だかりから離れようとしたが運悪く仮面の騎士がコソコソと逃げようとする二人の姿を見つけてしまった。
「待て! そこの二人組!」
「見つかった! 逃げるぞ!」
後ろから声をかけられた瞬間に反射的にネレスは走り出していた。ガルバスも慌ててその後を追いかけたが仮面の騎士も人ごみを散らしてその自慢の白馬を走らせ二人の後を追いかけた。
二人の足がいくら早いといっても障害物を避けながらではその速さは完全に生かされず、対する追手は馬に乗っていることもあり、勝手に通行人が避けるので速度を落とさずにすみ容易く白馬は二人の前に回り込んだ。
「何故逃げた? 何かやましい事でもしているのか?」
「さあ? どうだろうか?」
ネレスはどこか逃げられる場所は無いかと見回したが周りを全て黒や茶の馬によって囲まれていた。
「そこの人間、その頭に着けている布を取れ。これは命令だ」
仮面の騎士は隣の兵士から白い槍を受け取るとそれをネレスに突き付けた。
「あんたはアルバトリア家の奴だな?」
「知っているなら話は早い。早くそれを取れ」
「断る。僕はお前の様な下衆に従うつもりはない」
ネレスのこの言葉に仮面の騎士は言葉を失い、周りの兵士はざわついた。アルバトリア家はこのネンブラムや帝国の北側ノーランド地方を治めている貴族であり、それに逆らうことがどうなるかをこの近辺に住む者は良く知っていた。
「貴様…私を侮辱するつもりか?」
「さあ…どうだろうか? 僕は誰にも従わない。特に帝国の貴族様には従うつもりはない」
「なら…ここで死ぬがいい!」
仮面の騎士は槍を素早く突出しネレスの頭を狙ったがネレスはそれを布一枚の差で避けると槍を掴み、思いっきり引っ張った。怒りのあまり手に力が入っていたこともあり騎士は無様にも地面に転がり、仮面が音を立てて外れた。それと同時に切れ目の入ったネレスの布が落ちた。
「動くな! 動くとこいつの首を撥ね飛ばすぞ」
ネレスは布が落ちたことに気付かず、もう片方の手で刀を抜くと地面で醜態を晒している騎士の背中を踏みつけながら刀を首筋に添えた。主が人質に取られたため周りの兵士たちは下手に動く事ができずにただ狼狽えるだけだった。彼等の動揺の原因はそれだけではなく、ネレスの髪の毛が紫色であったことが彼等を更に驚かされていた。
「ガルバスこいつを羽交い絞めにしてくれ」
「ん? まあ構わないがどうやってこれを抜けるつもりだ?」
ネレスの頭髪が露わになったことで辺りを取り囲んでいる兵士だけでなく、ネンブラムの住人達にまでざわつきが広がっていた。そこでようやくネレスは頭に巻いていた布が外れていることに気付いた。
「なあにこいつはアルバトリア家の長女だ。こいつが人質であれば馬鹿でも逆らわないだろう」
「そのアルバトリアってのがよく分からんがまあ貴族の娘なら確かに人質には丁度いいな」
ガルバスは巨大な手で女の手を掴み、羽交い絞めにすると強引に持ち上げて立たせた。そこでようやくネレスは布を拾い上げ、頭に巻きつけた。
「さあお前達道を開けろ。嫁入り前のこいつの顔に傷がついたと知ったらこいつの親は一体どうするだろうな?」
貴族にとって娘は政略結婚で帝国の中心部との繋がりを強めるために必要な重要な駒であり、その価値を損なうようなことがあれば彼らの首が物理的に飛ぶだろう。そのため兵士たちは一切の抵抗をせずに道を開けた。
「たしかここには向こう岸との定期船があったはずだ。それに乗るとしよう」
「貴様等…この屈辱は忘れない。絶対に殺してやる」
「うるさいぞ。そんな減らず口を叩く暇があったら早く歩け」
ガルバスが手を締め上げると女はうめき声を漏らしつつも歩き出した。町の人達から投げかけられる好奇の視線は普段の畏怖や敬意のものとは全く異なるものであり、女にとって耐えがたいものだった。
*
その船は黒い中型のガレー船でありネンブラムと向こう岸にある町ルクサスを往復する定期便だった。今その船は出港しようとしている所であったが二人が恫喝したことによってその出港を少し遅らせ、二人は無事に乗り込むことが出来た。
港の桟橋には女の部下達が恨みを込めた目で睨みつけていたが彼等にはどうすることもできず船が出港するのを見守ることしかできなかった。船が動き出してしばらくするとネレスはバックの中から奇妙な球体を取り出して何かを呟いてからそれを河の中に投げ入れた。
その奇妙な行動に船乗りたちは訝しんだがネレスが睨むと慌てて顔を背けた。
「貴様等…さっさとこの縄をほどけ! 追放者風情が…本当に許さないぞ!」
女は船のメインマストに荒縄で縛られながら吠えていたがガルバスはそれを無視した。
「ほどいたら僕を殺すのだろう? なら尚更無理に決まっているじゃないか」
ネレスは女の前にしゃがみ込むとニヤニヤと笑った。
「私を誰だと思っているんだ! アルバトリア家の長女カーラ・アルバトリアだぞ。私の一声で一個大隊が動くのだぞ!」
「だからどうしたというのだ? その程度の戦力で僕がビビると本気で思っているのか? 首都部の軍隊ならまだしもこの辺境の軍隊では僕を止められないよ」
ネレスはゲラゲラと笑うとカーラの前から離れて船の縁に移動して河を覗き込んだ。その河はとても美しい青色であったがその川底は見通せないぐらいにまで深かった。
「それで…これからどうするんだ? いつまでもこの阿呆を連れて動くにも限界があるだろう? それに帝国の外に出ると私の探し物が見つからない気がするんだが……」
「安心してくれ、帝国の外に出るつもりはない。それとこいつは向こう岸に着いたら身ぐるみ剥いで娼館にでも売ってやればそれでいい。しゃべれない様に舌でも抜いてやれば完璧だろう」
「お前…かなりえげつない事をするんだな」
「まあね」
意味深そうな笑みを浮かべてネレスが視線をカーラに投げかけるとカーラは怒りの籠った目でネレスを睨み返した。
「おー怖い、怖い」
ネレスはその視線に肩をすくませるとカーラに背を向けた。先程の発言は本気ではなくただのでまかせであった。もしそんなことをするのならば誰にも知られてはならないため船乗り達に聞かれない場所でそのことを話すだろう。
「お前達もう少し速度を落としてくれ。どうせ連絡船は一隻しかないんだ。追いつかれる心配はないからな」
ネレスの指示に船乗りたちは渋々と言った感じで帆を緩め、船の進行速度を遅らせ始めた。船はゆるゆるとリーズ河を進み、丁度真ん中にたどり着いた頃だった。俄かに水面が泡立ちはじめその下から奇妙な歌声が聞こえてきた。その歌声を聞いた瞬間に船乗り達は顔色を変えて慌ただしく船上を走りまわった。
「一体どうした?」
「さあ? あいつらにはこの歌の美しさが理解できないらしい」
ネレスは目を閉じて未だに聞こえ続けている奇妙な歌声に聞き入りだした。その間にも船乗りたちは船室からいくつかの食料品を持ち出し、それを河の中に投げ込み始めた。
「…うるさいな、歌の邪魔をして欲しくないんだがな」
河の中に食料品が落ちる度に水飛沫が上がり、聞こえてくる歌声がかき消されるためネレスは顔をしかめた。
「お前達、物を投げ入れるのを止めろ。これをこの場で殺すぞ」
ネレスは刀を抜き放ち、カーラのそばに寄って首筋に突き付けた。
「それはできません。いまここで身代わりを投げ入れないと水棲種共に船をひっくり返されてしまうのです。なのでご容赦を……」
「大丈夫だ。彼等はこの船を沈めないよ。ただ揺らすだけだ」
ネレスが言うか早いか船がにわかに揺れだし水面から黒い人影の様な物が現れた。それは水中で生活することに特化した獣人で水棲種と呼ばれる物だった。
彼等の体は全身が鱗に覆われ、指の間には水かきが生えていた。彼らは肺呼吸ができるため陸上でも生活することができるが乾燥に弱く、体表が乾いてしまえば悲しいまでに衰弱してしまいなすすべなく死んでしまうため常に水分を確保できる水辺を除いて陸には上がらずに水の中で鰓呼吸によって生きている。
そのためこの種類の獣人との交流は他の者と違って少なくその生態も詳しく分かっていない。今から四百年以上も昔、ノイラン・マーシュと言う男が二十年に渡り彼等と行動に共にしたことがあり、彼の記した手記のみが唯一彼等について知ることの出来る資料となっている。しかしながらそれが記されたのが遠い昔であることもあり、その信憑性について疑問視する声が出つつもあるがそれによると水棲種達はよっぽどの理由がない限り陸上の種族に対して危害を加えることはないとされている。
しかしそれから三百年が経つうちに船という物が発明され、人間や陸上種が彼等の領域に入る機会が多くなってからはまれに集団で水棲種が船を襲い、転覆させるという事件が起こっている。その理由は彼等の縄張りを船が横切ったためとも略奪が目的とも言われているが詳しい理由は分かっていない。
ネレスがその手記の内容を知っているのかは定かではないが彼にはこの船が沈められないという自信があった。故に彼は船乗り達を脅し、水中に食料を投げさせるのを止めさせた。すると今までになく船が強く揺れはじめガルバスをはじめ、全ての船員達はしゃがんで船体にしがみつくしかなかった。
「おいネレス! 本当に沈まないんだろうな!」
「ああ、大丈夫だ。だからもう少しこっちに来い」
ネレスは足元にしゃがみ込んでいるガルバスを引き寄せると船の下を覗き込んだ。今や船の周りは何十もの水棲種に囲まれ、グラグラと左右の船底を交互に持ち上げられて揺らされていた。
そのわずかな隙に一人の船乗りがメインマストに縛り付けられているカーラに近づくと素早く腰のナイフでそのロープを切断した。
「すまないな」
カーラは礼を言うと腰の剣を抜いて船の揺れに足を取られない様に低姿勢で片手を甲板につきながら無防備な背中を晒しているネレスに迫った。
「貰ったぁ!」
気分が高揚していたのかカーラは愚かにも声を上げてしまった。そのためせっかく背後を取ったのにも関わらずネレスに攻撃を気付かれ、ギリギリの所で避けられてしまった。
「抜け出したのか…。侮れない奴だ」
ネレスは刀を垂直に構えるとカーラに向き直った。位置で言えば二人はカーラを挟むように立っていたがガルバスは船にしがみつくのに必死であり戦力として数えることが出来ずせっかくの有利な状況を生かせないでいた。
「お前はここで殺してやる」
「出来ると思うのならやってみるがいい。君程度の雑魚では僕にかすり傷すら負わせられないだろうね」
無防備なガルバスにカーラの剣が向かない様にネレスは挑発めいた言葉を吐くと同時に刀を握っていない方の手で手招きをした。
「その言葉すぐに撤回させてやるわ!」
そう叫んだはいいが船の揺れは更に激しさを増しカーラは倒れないようにゆっくりと前進することしか出来なかった。しかしネレスはこの大きな揺れにも関わらず体勢を崩さずに直立し、不敵な笑みを浮かべていた。
これ以上船の揺れが強くなるとまともに立つことも難しくなるためカーラは速攻で決着をつけるべく剣を振りかぶり甲板を強く蹴った。だがそれは悪手であるとしか言いようがなかった。ネレスの構えは主に上方向から繰り出される攻撃に対するものであり、相手の振り下ろしてきた剣を打ち落とし、自分の刀で相手を両断するカウンターの構えであった。
ネレスはカーラの剣の軌跡の先、剣が振り下ろされる場所に向かって刀を先に割り込ませて見事にその剣を打ち落とし、まっすぐカーラの頭に向かって振り下ろした。
その一撃は真っ直ぐ振り下ろされれば確実にカーラの脳天を両断するはずだった。しかし刀がカーラに触れる直前に船が大きく揺れ、それによってカーラは大きくバランスを崩した。それが幸いしてネレスの刀は頭ではなく少し逸れ、肩の部分の鎧を凹ませただけだった。
「運が良かったな」
ネレスは吐き捨てるように言うと刀を収めて体勢を崩して甲板にへたり込んでいるカーラを飛び越え、ガルバスの腕を掴んだ。
「さようならカーラ。できればもう二度と会いたくないものだ」
ネレスは凄まじい力でガルバスの巨体を持ち上げると船の縁に立ち、そのまま水棲種がひしめくリーズ河に向かって飛びこんだ。二人が水中に沈むとさっきまで水面を覆い尽くすほどいた水棲種達が一斉に姿を消し、また船の揺れも小さくなり数分もすれば船は平穏を取り戻していた。