互換性がなくなる理由
「これ、もう使えなくなるのか」
午前二時、佐伯はモニターの前で独りごちた。
灯りを落とした部屋に、画面の仄白い光が滲んでいる。飲みかけの缶も、埃を被った筐体も、その光の縁でかろうじて輪郭を保っていた。夜の底で目を覚ましているのは、佐伯と、低く唸りつづけるファンばかりだ。
新調するつもりでいたCPUは、三年前のマザーボードには載らなかった。
ソケットが違う。
ただそれだけのことだった。
性能に不足はない。電気的な仕様に僅かな手を加えれば、動きそうにさえ見える。だがメーカーは互換性を保証しない。
商品写真の中で、金色の接点が整然と居並び、鈍い光を湛えている。ピンが数本、溝が数ミリ。その僅かな齟齬のために、鍵は鍵穴に拒まれる。
「昔はもっと長く使えたのにな」
佐伯はそう零して、通販サイトを閉じた。
昏い壁紙の面に、朧な顔が浮かんだ。三年前より、いくぶん色褪せて見えた。
近頃は、何もかもがそうだ。
OSは古いCPUを切る。
CPUは古いマザーボードを切る。
マザーボードは古いメモリを切る。
古いソフトは新しいOSで動かない。
新しい周辺機器は古い端子に挿さらない。
世界は律儀に歩を進め、進むごとに、背後の扉を一枚ずつ閉ざしてゆく。
「古い規格では利用できませんって……」
乾いた笑いは、ファンの唸りに呑まれて消えた。
「世の中、互換性なくなりすぎだろ」
◇
明くる日、駅前の喫茶店で、佐伯は奇妙な男に声をかけられた。
昼下がりの店内には、煮詰まったコーヒーの香と、誰の耳にも届かぬ有線の旋律とが澱んでいた。ガラス越しの陽がテーブルに白く落ちている。佐伯はその陽溜まりのなかで、寝不足の頭を、冷めかけたブレンドで宥めていた。
佐伯は顔を上げた。
「……なんですか?」
三十がらみの男が立っている。黒いコートを纏っていた。この季節に。
窓外の陽光とは、およそ相容れぬ黒だった。男ひとり、季節の規格を違えている。
「質問があります」
男は向かいの席に腰を下ろした。
「2047年のOSについて、興味はありますか?」
妙なことを言う男だ。
「まあ、なくはないが……」
男は微かに笑った。
「では、これを」
テーブルの下から、小さな黒いものが取り出された。USBメモリと見えた。
親指ほどの大きさしかない。陽の射すテーブルの上にあって、それは一条の光も返さなかった。
「これ、何です?」
「ファイルです」
「ウイルス?」
「もっと悪い」
男は言った。
「未来です」
戯れ言だと思った。
出処の知れぬものを、迂闊に挿すべきではない。それくらいの分別は、佐伯にもある。まして手許にあるのは、仕事用のノートパソコン一台きりだ。
だが男は急かしもせず、ただ向かいに座している。瞬きの少ない眼が、佐伯の手許に据えられていた。その、ただならぬ静けさに呑まれて、気づけば鞄を開けていた。
挿し込んだ端子は、拍子抜けするほど従順に認識された。フォルダをひとつ開くごとに、画面の奥へ、見知らぬ図面が果てもなく展けてゆく。
そこに収められていたのは、現在のコンピューターではいまだ実用に至らぬ技術の、設計データだった。
半導体。
新型バッテリー。
量子暗号。
画像圧縮。
そして、この時代にはいまだ存在せぬAIアルゴリズム。
佐伯は震えた。
指先がトラックパッドの上で定まらない。店内の旋律は遠のき、己の鼓動ばかりが耳朶を打った。
「……これ、本物だったら」
「本物です」
「売れる?」
「あなたが思っているより、ずっと」
男は言った。
「ただし、一つ条件があります」
「何です?」
「未来のことを、未来に追いつけない人間へ渡さないこと」
「つまり?」
「あなたが金持ちになる程度なら構いません」
佐伯は笑った。
「ずいぶん変な条件ですね」
「そうでしょうか」
男は席を立った。
「では、成功を祈ります」
「ちょっと待ってください」
佐伯は呼び止めた。
「あなたは何者なんです?」
男はしばし思案した。
「密輸業者です」
それだけを言い残して、店を出ていった。
ドアベルが鳴り、黒いコートは午後の光のなかへ溶け入った。
手許に遺されたのは、冷えきったコーヒーと、いまだ微かな熱を孕んだUSBメモリだった。
◇
一年後。
佐伯は億万長者となっていた。
未来の技術をそのまま売り捌いたわけではない。それでは怪しまれる。彼が用いたのは、未来の設計思想のみである。現在の技術で再現しうる部分を見出し、既存の技術と織り合わせて、特許を取った。
誰にも理解できぬほど未来的ではない。しかし、誰ひとり思い至らなかった。それが最も儲かった。
会社を興し、技術者を雇った。投資家が群がった。ニュースにも取り上げられた。
「次世代技術の旗手」
「日本の技術革新を変える男」
そんな見出しが紙面を飾った。
社長室の窓から睥睨する街は、一枚の巨大な基板に似ていた。その隅々にまで、己がために電流が通っている。そう思えてならぬ朝が、幾度もあった。
だが、ある日。
会社の全端末が、同時に停止した。
画面が黒一色に塗り潰された。
停電ではない。電源ランプは灯っている。マウスも動く。
しかし、何ひとつ映らない。
居並ぶモニターが、一斉に瞼を閉ざしている。その闇の面に、立ち竦む社員たちの顔が、そして佐伯自身の顔が、蒼ざめて浮かんでいた。空調の音が、いやに耳につく。
一台や二台ではない。
社内のあらゆるPCが、時を同じくして沈黙していた。
そのとき、受付から声がした。
「社長にお客様です」
「誰?」
「……警察だそうです」
佐伯は腰を上げた。
廊下に出る。スーツ姿の男が二人いた。寸分違わぬ姿勢で佇んでいる。警察手帳が示された。
だが、そこに記された文字が奇妙だった。
「時間管理局?」
「はい」
「何ですか、それ」
男の一人が答えた。
「あなたは違法な未来技術を取得しました」
佐伯は笑った。
「未来?」
「そうです」
「何を馬鹿な」
男は一枚の紙を差し出した。そこには、佐伯の与り知らぬ数字が連なっていた。
「これはあなたの会社が取得した特許の一覧です」
「それが?」
「あなたの特許のうち、二十七件は、現在より先の人類が独自に発明するはずだったものです」
佐伯は口を噤んだ。
「あなたが早く発明したことで、歴史が変わりました」
「……でも、それだけでしょう?」
「いいえ」
男は言った。
「あなたの会社が成功したことで、別の会社が潰れました」
「それが経済でしょう」
「その会社にいた研究者が別の研究を始める予定でした」
「だから?」
「その研究が、六十七年後のタイムマシンにつながります」
佐伯の顔から、笑みが失せた。
「……待ってください」
「あなたの行動によって、タイムマシンが予定より二十年早く完成する可能性があります」
もう一人の男が言葉を継いだ。
「その場合、過去への干渉が制御できなくなる」
佐伯は窓外に目を遣った。
ガラス一枚を隔てて、街は常と変わらず流れていた。車は走り、信号は移ろい、人は渡る。昨日まで己がために通電していたはずの基板は、佐伯ひとりが脱落しかけていようと、些かの遅滞もなく巡りつづけている。
誰もこちらを見ていない。
「じゃあ……俺は?」
「処置を行います」
「……なかったことにする気か」
「ええ。あなたの記憶ごと」
◇
佐伯は抗った。
廊下を走った。
階段を駆け下りた。靴音が吹き抜けに幾重にも谺する。
外へ出る。白日が目を射る。
雑踏に紛れる。
だが、どこへ逃れても、すでに先回りされている。
駅。
コンビニ。
タクシー。
地下道。
改札の彼方に。
自動ドアの内に。
運転席の鏡の奥に。
蛍光灯の明滅する通路の果てに。
逃げても逃げても、逃げた先に男たちが待ち受けていた。
未来に半身を浸した佐伯という端子は、今日の街のどの口とも噛み合わなかった。
最後に佐伯が逃げ込んだのは、初めてあの男と会った喫茶店だった。
誰もいない。客も、店員も。有線の旋律が、一年前と同じ曲を奏でている気がした。
佐伯は荒い息のまま、椅子に身を沈めた。肺腑が熱い。シャツが背に貼りついて離れない。
そして気づいた。
テーブルの上に、小さな黒いものが置かれている。
あのUSBメモリだ。
窓から射す陽のなかで、それはあの日と同じく、一条の光も返さずに横たわっていた。
「……これがあるなら」
佐伯は手を伸ばした。
その瞬間、背後から声がした。
「それを持って帰ることもできます」
佐伯が振り返る。
未来人が立っていた。
「ただし、持って帰ればまた同じことになります」
「じゃあ、どうすればいい」
「忘れてください」
「ふざけるな」
「あなたは、もう十分に未来を見ました」
未来人は、いくらか哀しげに笑った。
「あなたが悪かったわけではありません」
「じゃあ、なんで」
未来人はUSBを取り上げた。
「では」
白い光が見えた。
暁の光に似ていた。あるいは、電源を入れた刹那の、いまだ何ものをも映さぬ画面に。
◇
佐伯は目を覚ました。
午前二時だった。
モニターの前に座っていた。通販サイトが開いている。
仄白い光が、飲みかけの缶と、埃を被った筐体とを照らしている。ファンが低く唸っている。
新しいCPU。対応する新しいマザーボード。
その値を見て、佐伯は溜息をついた。
「まるごと買い替えた方が安いか」
三年前のマザーボードには載らない。致し方ない。
佐伯はカートからCPUを削除した。
「昔はもっと長く使えたのにな」
そう呟いて、通販サイトを閉じる。
冷蔵庫から缶コーヒーを取り出した。扉の灯りが、束の間、台所に白昼を呼び戻した。プルタブの音が、深夜の静寂に小さく響く。
ニュースを眺める。画面は、見知らぬ誰かの栄達と、見知らぬ誰かの凋落とを、同じ抑揚で流していた。
明日は仕事がある。
取り立てて何事もない人生だ。
億万長者になったこともない。会社を興したこともない。未来人に会ったこともない。
すべては、夢だったのだろう。
佐伯は床に就いた。
天井の闇に、待機ランプの小さな光がひとつ、消え残っている。
眠りに落ちる間際、ふと思った。
――そういえば。
最近のパソコンって、なんでこんなに古い規格を切るんだっけ。
だが、睡魔に敗れた。
◇
そのころ。
時間管理局では、ひとりの職員が報告書に目を通していた。
「2026年の佐伯事件、処理完了」
「記憶修正は?」
「問題ありません」
「技術流出は?」
「すべて回収しました」
職員は報告書を閉じた。
画面には、早くも次の指令が灯っていた。
【1995年へ派遣】
【対象:USB規格策定委員会】
【命令:互換性を維持しすぎないこと】
職員は溜息を洩らした。
「……またこの時代か」
そして、低く言い添えた。
「どうして昔の人間は、何でも互換性を残したがるんだろうな」
それを耳にした新人職員が訊ねた。
「それって、そんなに危険なんですか?」
職員は答えた。
「危険だよ」
「どうして?」
「過去と未来が繋がってしまうからだ」
彼は立ち上がった。
「それに――」
肩越しに、一度だけ振り返る。
「追いつかれたら、俺たちはもう未来人じゃない」
扉が閉ざされた。
そして1995年の世界へ向けて、時間転移装置が起動した。
お読みいただきありがとうございました。
「古い規格が使えなくなる」という身近な不満から、こんな話になりました。
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