第2話 奈落の底で得た「負」の力
暗黒の底。
『死の断崖』と呼ばれるその場所は、かつて神が魔物を封じ込めたとされる、瘴気が渦巻くゴミ捨て場だった。
「……がはっ……、あ……」
叩きつけられた衝撃で、左腕はありえない方向に曲がり、内臓が焼けるように熱い。全身の骨が砕ける音が、耳の奥で反響していた。だが、肉体の痛みなど、胸に空いた巨大な穴に比べれば些細なものだった。
脳裏に焼き付いて離れない。自分を嘲笑ったガイル。冷淡な瞳を向けたセーラ。そして何より――他の男の腕の中で、あんなにも淫らな声を漏らしたアリシア。
『ごめんなさい、アルス。私、もっと贅沢に、もっと愛されたいの』
「ふ……ふざけるな……。俺が、どれだけ……お前のために……」
勇者として戦った日々。村を救い、国を守り、血反吐を吐きながら魔王を屠った。すべては、彼女との平和な未来のためだった。そのすべてが、たった一つの「欲」のために踏みにじられた。
「あ……ああああああああああああッ!!」
アルスの叫びが、底なしの闇に響く。その時、周囲の瘴気が意志を持ったかのように、アルスの傷口へと潜り込んできた。
【システム警告:勇者の加護が消失しました】
【負の感情が閾値を突破。魂の再構築を開始します……】
頭の中に、無機質な声が響く。聖なる力が抜け落ち、代わりにどす黒い「何か」が血管を駆け巡る。
「……聖なる力? んなもん、いらねえ……。あいつらを殺せる力が……あいつらを絶望のどん底へ叩き落とせる力が、欲しい……!」
【固有スキル:略奪者を獲得しました】
【固有スキル:因果応報を獲得しました】
視界が真っ赤に染まった。折れた左腕が、黒い霧に包まれながら強制的に繋ぎ合わされる。アルスはふらりと立ち上がった。目の前には、瘴気に当てられて理性を失った巨大な魔獣「奈落の捕食者」が、涎を垂らしながら迫っていた。
かつてのアルスなら、慈悲を持って一撃で葬っただろう。だが、今のアルスの瞳に宿るのは、底冷えするような残虐な光だった。
「【略奪者の眼】……起動」
アルスの右目が黒く発光した瞬間、魔獣の動きが止まった。視界に表示されるのは、魔獣のステータス、スキル、そして「弱点」。
「……。お前のスキル、全部もらうぞ」
アルスが手をかざすと、魔獣から紫色の光が引き抜かれ、アルスの掌へと吸い込まれていく。魔獣は悲鳴を上げることすら許されず、急速に干からびて塵へと変わった。
「はは……あはははは! なんだ、こっちの方がずっと効率がいいじゃないか」
奪ったのは力だけではない。魔獣が持っていた「再生能力」と「隠密」
これがあれば、王都へ忍び込むのも、あいつらを一人ずつ狩るのも容易い。
アルスは崖の上を見上げた。そこには、今頃「英雄の死」を祝って、酒と女に溺れているであろうクズ共がいる。
「待ってろよ、ガイル、セーラ……。そしてアリシア。お前らが手に入れた地位も、名誉も、愛も……全部俺が、一番残酷な形で奪い尽くしてやる」
アルスの足元から、黒い炎が立ち上る。
それは、世界を救った勇者が消え、世界を呪う「復讐の魔王」が誕生した瞬間だった。断崖を登るアルスの足取りは、驚くほど軽かった。心はすでに死んでいる。今の彼を動かしているのは、ただ一つ。自分を裏切った者たちの、絶望に歪んだ顔を見たいという渇望だけだ。
「まずは……一番の武闘派、ガイルからだ。お前の自慢の『力』を、根こそぎ奪ってやる」
闇の底から、復讐の旅が始まった。




