第10話 聖域からの断罪状
空は、抜けるように青かった。旧王都グランセルの廃墟に降り注ぐ陽光は、かつての惨劇などなかったかのように無機質で、それでいて残酷なほどに明るい。
アルスはその瓦礫の頂に座し、遠く西の地平を見つめていた。かつての漆黒の鎧は剥げ落ち、今その身を包んでいるのは、どこか修道士を思わせる粗末な灰色の外套だ。肌の表面をのたうっていた黒い血管は沈まり、深い夜を湛えていた瞳には、皮肉にもかつての勇者時代よりも澄んだ「慈愛」に近い光が宿っている。
「……来たわね」
背後の影から、アルベラの鈴を転がすような声が響く。彼女の千里眼は、数千キロ先、海を越えた「聖教大陸」から放たれた殺意を正確に捕捉していた。
「聖騎士団の先行部隊。そして、その中心にいるのが、件の『剣聖』オーラ。民衆の間では、貴方がこの世に撒き散らした闇を浄化しに来る『真の救世主』として、すでに聖歌まで作られているわ」
アルスは答えず、ただ手元の銀貨を弄んだ。かつて自分が守り、そして裏切られた民衆。今や彼らは、アルスという「絶対的な悪」を憎むことで一つにまとまり、新しく現れた「オーラ」という光に狂信的な熱狂を捧げている。
「善か、いや、それは偽善だな……」
アルスが呟く。その声は低く、どこまでも穏やかだった。かつて胸を焼いた濁流のような憎悪は、今や深く鋭い刃へと研ぎ澄まされ、底の知れない虚無の淵に沈殿している。
「オーラは『洗脳』を使っているのではない。彼はただ、人々の『正しくありたい』という卑屈な欲求に、もっともらしい理由を与えているに過ぎない。俺を殺すことが世界の平和に繋がると、人類が信じれば、それは『事実』に昇格する。……たとえそれが、積み上げられた死体の上で踊るダンスだとしても」
「あら、随分と達観した言い方ね。貴方はどうするの? 自分がかつて命を懸けて守った民に、今度は『共通の敵』として狩られる気分は」
アルベラがアルスの肩に細い手を置く。彼女の微笑みは、冷ややかな美しさを放っていた。
「関係ない。俺の道に、他者の共感など最初から不要だ。……だが、俺の血を求めるというなら、相応の因果を支払ってもらう」
その時、空が割れた。物理的な崩壊ではない。王都全域に響き渡るような、荘厳な鐘の音。オーラが放った「神託」の魔法映像が、空一面を巨大なスクリーンへと変える。
『親愛なる、虐げられし同胞たちよ。私は嘆き、そしてここに誓う』
映像に映し出されたのは、白銀の髪をなびかせ、悲しげに瞳を伏せた美しい男――剣聖オーラだった。彼の背後には、四大神聖騎士たちが整然と並び、圧倒的な「正義」の圧力を放っている。
『元勇者アルス。彼は魔王を倒した際、その魂を闇に売り渡した。かつての仲間を無残に殺し、愛する聖女さえも弄んだ。今、この大陸で起きているすべての悲劇は、彼の「傲慢」が招いた呪いだ。我ら聖教騎士団は、彼の歪んだ魂を浄化し、世界を真の光へと導くために、この大陸を……「滅菌」する』
滅菌。
それは、アルスに与する者、あるいはアルスを放置した者すべてを、善の名の下に掃討するという宣言だった。王都の至る所で、生き残った民衆が跪き、空に向かって祈りを捧げる声が聞こえ始める。
「オーラ様!」「アルスを、あの悪魔を殺してくれ!」
「……聞こえるか、アルベラ。これが『正義』の声だ」
アルスは立ち上がった。その姿は、逆説的にオーラよりも神々しく、悲劇を一身に背負った殉教者のようにすら見えた。抑えきれない人間性の残滓が、彼の輪郭を「もっともらしい善人」へと歪ませていく。
「準備をしろ。シャドウパペットを出す。オーラの先行部隊――リュークの率いる第一神聖騎士団が、この丘の麓まで来ている。彼らに教えてやる必要がある。自分たちが信じている『正義』が、どれほど安っぽい作り物かということを」
アルスの足元から、どろりとした影が広がる。その影の中から、裏切り者の「残滓」が、鎖に繋がれた犬のように這い出してきた。
「行こう、アルベラ。俺たちの復讐は、ここからが本番だ」
アルスは外套のフードを深く被った。共感を捨て、救いを殺し、ただ一人の共犯者だけを連れて。




