プロローグ 澱んだ光の残滓
世界が、あまりに澱んだ光の残滓で静かすぎた。
かつて勇者と呼ばれた男、アルスは、瓦礫の山と化した旧王都グランセルの中心に立っていた。足元には、かつて彼を裏切り、そして今や魂までをも略奪し尽くされた「かつての仲間たち」が、物言わぬ肉塊として転がっている。彼らの瞳にはもはや光はなく、ただ終わりのない絶望の残響だけが、澱んだ空気の中に溶け込んでいた。
アルスの視界は、漆黒に染まっている。しかし、その内側に宿る魔の力――【略奪者】の波動は、かつてないほどに研ぎ澄まされていた。
「……終わったわけではないのだな。アルベラ」
独白に近いその問いに、影の中から一人の女が音もなく現れた。魔族の姫、アルベラ。彼女の「千里眼」は、物理的な距離を越え、因果の糸がたぐり寄せられる音を聞き取っていた。
「ええ、アルス様。貴方の噂を聞きつけた『正義』が、海を越えてやってくるわ。大陸の向こう側――人々が『聖域』と呼ぶ地から、眩いばかりの、吐き気のするような光が」
アルベラの言葉には、微かな愉悦と、それ以上の冷徹な観察が含まれていた。彼女の瞳に映るのは、次なる標的。剣聖オーラ。
人々は彼をこう呼ぶ。――「真の聖人」「不敗の正義」。だが、その正体は、高度な情報操作と局所的な洗脳を組み合わせ、自らに仇なす「真の善人」を「悪人」へと仕立て上げ、民衆の喝采の中で惨殺する、システムとしての偽善者だった。
「みんながそれを善と言うなら、それは善……。滑稽ね。貴方がかつて守ろうとした世界は、今度はその『空気』によって貴方を殺しに来るわ」
アルベラはアルスの隣に並び、彼の横顔を覗き込んだ。そこにいたのは、かつての復讐に燃える鬼ではない。皮膚の下をのたうつ黒い血管は鳴りを潜め、むしろその佇まいは、数多の悲劇を乗り越えて悟りに至った「聖者」のような、もっともらしい静謐さを湛えていた。
皮肉な逆転だった。悪を極めようとし、己を闇に塗りつぶしたはずの男が、今、大陸で最も「人よりも人間らしい」光を放っている。その「嘘のなさ」こそが、オーラという偽造された光に対する、最大級の毒となることを、アルス自身もまだ完全には自覚していない。
「来るなら、来ればいい。俺はもう、何も求めてはいない」
アルスは静かに手を伸ばし、空間を切り裂くようにして「影の王」を呼び出す。それはかつて彼を裏切った者たちの残滓であり、彼が背負うべき業の結晶だった。
「俺はただ、俺の道を征く。それがどれほど凄惨な絶望に満ちていようとも」
その言葉は、共感を拒絶し、救いを嘲笑っていた。しかし、その瞳の奥で、まだ「略奪しきれなかった人間性」が微かに燻っていることを、アルベラの千里眼だけが捉えていた。彼女は、その脆くも美しい欠陥を愛でるように、密やかに微笑んだ。
光を演じる悪と、悪を演じざるを得ない人。大陸全体を巻き込む、二つの「正義」による、残酷なまでの因果の精算が始まろうとしていた。




