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第7話 儀式と聖杖

 真新しい正装を纏い、控えの間で待っているのは王太女アデレード・ミリア・カンザ。


 アデレードの名は、コルレド王国において王位継承権第一位の女子に代々与えられてきた名。祖母である前王もこの名を持ち、次代を託された者として王太女の戴冠の日を迎えたという。

 コルレド王国は男女関係なく第一子から順に継承権が与えられる。

 そして、ミリアは第一子で弟妹はない。つまり父の唯一の後継者である。


 揺るぎない灰の瞳に、赤みを帯びた栗色の髪。丁寧に結い上げられ、王族の証として銀のティアラが添えられている。王太女の紋章を縫い込んだ絹の帯、白手袋、襟元まできっちりと留められた礼装の色は王家の『湖底の青』。

 この姿は、この国の「次」を担う者の正式な装い。

 その青の衣を、ただ静かに見つめる。


 先週、ほんの一日だけ名前を隠し、城の外を歩いた自分――"アデラ"だった自分――が、ずいぶん遠く感じる。


「姫様、支度が整いました」


 背後から声がかけられた。声の主は女官長マグリット。

 ヴェラや王妃マルセラとそう歳の変わらない女性だが、落ち着きのある整った顔立ちと冷静な物腰は、ほんの少し年齢よりも上に見える。今朝は式典用の黒に銀刺繍をあしらった礼装をまとい、髪をいつもより更にぴたりとまとめ上げている。

 厳粛な空気が、襟元から覗く細い喉の動きからも伝わってくるようだった。


 ミリアは一度小さく息を吐いてから立ち上がる。誰に言われずとも、歩き出す足取りには自然と王族としての所作が宿る。


 私室の扉が開かれ、廊下に出る。窓辺の光は柔らかく、しんとした空気の中、衛士や女官たちが並んで道をつくっていた。


 進んだ先には、王妃マルセラ・トアマーレ・カンザの控室がある。

 扉が開かれ、母の姿が見えた瞬間、ミリアは思わずその美しさに息をのんだ。

 異国から嫁いできた王妃の髪は、淡い金色。

 繊細な網目にまとめ、王家の青いドレスに白金の上衣を纏っている。柔らかな上衣には故国トアマールの気配が感じられる。柔らかな微笑みはいつも通りだったが、その眼差しには王妃としての威厳が宿っていた。


 言葉は交わさず、ただ並んで立つ。そして、大広間の扉が開かれる――。


 大広間には、貴族、神官、使節、将官たちが、定められた順序通りに立ち並んでいる。

 両脇の高窓から差し込む朝の光が床や壁に反射して、天井の装飾と高い柱を淡く照らしている中、ミリアと王妃は、神官の案内に従ってゆっくりと進み、定められた位置へと歩を進めた。


 そして最後に、扉が再び開かれる。


 ――レオナール三世、コルレド王国国王陛下!


 響き渡る宣言の声とともに、父が入場する。


 荘厳な王の礼装に身を包んだその姿は、威厳に満ちていた。

 頭上からの光は豪奢なマントは白く輝かせ、堀の深い顔に影を落とす。

 背筋を伸ばして歩むその歩みに、周囲のすべてが自然とひれ伏すように見えた。

 幼いころから「国のために多忙な人」だった父。

 言葉を交わすことは少なかったが、ミリアにとって父とは、遠くとも頼れる存在だった。


 親しさよりも、尊敬。

 温もりよりも、信頼。


 王太子として長く国を支えてきた父が、王になる。決められた通りに物事が進んでゆく姿は、堅実で安心な未来そのものだった。


 となりに立つ母、そして自分。

 王と共に並び立つその構図に、ミリアはしかしどこか、自分だけが異物のような感覚を抱いた。

 腰に巻かれた王太女の紋章帯が、しんと重い。

(これが、"公の顔”)

 そう心の中で呟いて、ミリアは表情を整えた。


 今日は王の戴冠式。

 民は新たな王を歓迎し、平和の継続を祈る日。

 そして――その次に、戴冠するのは私。


 だがその未来はまだ、ずっと先の、どこか遠い場所にしか思えなかった。



 静まった空気の中で、神官たち厳かなる祝詞が響き始めた。光と土と風と水と火――五柱の精霊神の名を唱え、大神官は新王の肩へと手をかざす。


「神々の御前において、そなたをコルレド王国 第四十三代の王と定める」


 冠が頭上に置かれると、広間の奥から太鼓と角笛が鳴り響いた。民と神に平和を誓う宣言の言葉が、王――レオナール三世の口から、しっかりとした声で発せられる。


「この王国が長く平穏であったことを、我は誇りに思う。この先もまた、剣を交えぬ日々が続くよう務めることを誓う。コルレドの民よ、共にこの国を支え、日々の営みを、誇りをもって生きてくれることを我は願う」


 荘厳な新王の言葉に、列席者の背筋が伸びる。ミリアは王太女としての定位置に立ち、父の「王」としての姿を静かに見つめていた。


 続いて、王妃マルセラ・トアマーレ・カンザの戴冠。練達した身のこなしで進み出た王妃は、隙のない裾捌きで優雅に神官の前に立った。いつも優しく温かい母。しかし彼女もまたこの国の「王妃」として、堂々と美しく式に臨んでいる。


 その姿を見て、ミリアはほんの少し、胸の奥がきゅっとするのを感じた。二人は立派だ――それに自分が続くことに現実味がない。

 けれどそんなミリアの心情を置いたまま、いよいよ王太女への継承の儀が始まった。


 名を呼ばれ、ミリアは静かに進み出る。礼装の裾が床をかすめ、金刺繍が光を受けてきらめく。歩きながら、彼女は意識的に呼吸を整えた。


 神官が手にした聖杖は精緻な細工を施された金属製で、上部には翼を広げた神鳥の姿があしらわれていた。これを受けることで正式に、王位継承権第一位――すなわち王太女となる。

 ミリアは両手を差し出し、神官の手から慎重に聖杖を受け取った。


(……思ったより、冷たい)


 掌に伝わる金属の感触。細かく刻まれた意匠のせいか、ごつごつとしていて、持ちにくい。長く持っていると手がしびれてきそうだった。

 とにかく、落とさぬようしっかりと握る。


(練習では、木の棒だったのよね)


 神官の口から、神鳥の聖杖に込められた由来と意味が祝詞として語られている。

 ——空を駆け、大地を見守る神の使い。その翼は秩序を示し、羽ばたきは正しき統治の象徴……。

 だが、ミリアの意識はその声に半分も向いていなかった。ゆっくりと礼をして、裾を踏まないよう注意しながら元の位置に下がる。


(顔ははまっすぐ背筋を伸ばして。瞬きはできるだけ我慢。杖……持ちにくい。)


 ふと、圧を感じて目線だけ動かすと、下段、脇前列に控えていたマグリットのが、これでもかと目を見開いてこちらを凝視しているのに気づいた。

 一瞬ぎょっとなったのが表情に出そうになる。

 いつも冷静沈着な彼女が、眉を吊り上げ、目線を激しく動かして何かを訴えかけている。


(……え? 何?)


 ミリアは視線だけでマグリットに問う。

 その視線に応えて、マグリットが手をぐっと握り締める仕草を見せた。


(手?私の?)


 顔を動かさずに自分の手元に目を落とすと、神鳥が――頭を下にして、今にも墜落、といった姿で突き出されていた。


(あっ……!)


 聖杖を逆さまに持っていた。天を目指すべき鳥が、下に。

「…………」

 ミリアは表情を崩さぬまま、ゆっくりと手の位置を調整し、聖杖を正しく持ち直した。

 その瞬間、マグリットの視線の圧がすっと引く。


(……やってしまった……)


 視線は高く据えたまま、ミリアは内心でじわじわと頬が熱くなるのを感じていた。

 本来なら式典の重みを理解し、誇りと責任を自覚すべき場面だったのだろう。


 けれど――


(……この杖、重い。しびれる。腕が下がる。持ち替えたい……)


 そんなことばかりが、頭の中を巡っていた。

 礼装の堅苦しさと、聖杖の重さと、緊張で動かしにくい指先。


 王太女としての儀式を務めながらも、ミリアはまだ、自分が背負わされたものの重さを知らないままだった。

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