第57話 戴冠と支配
「もう少し、お腹を引っ込めてくださらない? 緩むと、締め直すのが大変ですのよ」
背後から、いつもの調子でマグリットが声をかけてくる。
笑っているのか、苛立っているのか判別しづらい声音に、思わず小さく息を吐いた。
「……緊張してるの、分かってて言ってるでしょう?」
「もちろん。あまり緊張なさると、顔色が青くなってしまいますもの。王家の色とはいえ、青い顔で玉座に立たれては台無しですわ」
そう言って笑うマグリットの手が、下着の腰帯をきゅっと締める。
その所作が、ふいに懐かしい記憶を呼び起こした。
――ヴェラも、あのとき同じように、静かに、丁寧に、帯を締めてくれた。
一つ前の春、父王の戴冠式。
私は、何も知らなかった。
自分が何者で、何を選ばねばならないのかも。
けれど、あれからわずかな時間で――国はこんなにも変わってしまった。
いや…… 気づいていなかっただけなのだ。
私が愚かで、甘かっただけ。
「……とうとうこれを、お召しになる日が来たんですね……」
マグリットが、緑のローブを手に取りながら言った。
その目を見つめてゆっくり頷くと、彼女は唇を引き結んだ。
まるで儀式ように、軽やかなそれを丁寧に私の肩にかける。
レグリアングリーン。
あの男の声を思い出す。
「玉座に上られる陛下にもっともふさわしいお色でございます」
これが、今のコルレドを象徴する色。
ファルロスで染められたナギ商会の色。
多くの者たちが王家の色でないことに驚き、そして思うだろう。
「王が、商会の傀儡になった」と。
そう、思わせておけばいい。
人々がそう囁き、そう決めつけるなら、それすら一つの武器にできる。
私は決して呑まれたりしない。
この身に纏うのは、支配の色。
だとしても――支配されるのではない。
その支配を、この手に、王権の一部として取り込むのだ。
背筋を伸ばして立ち上がると、控えていたアシェラが扉の向こうから声をかけてきた。
「陛下。お時間です」
静かに頷く。
扉が開くと、控えていたものたちが頭を下げる。
並ぶのは、最も信頼する者たち。
ジルベールは深々と頭を下げ、マグリットは慎ましく控え、
そしてその傍ら――ユリウスを伴い、正装に身を包んだエルナン王子が立っていた。
その眼差しは、まっすぐだった。
この王子を信じていいのかと自問する心の声は、まだ消えていない。
けれど、私は選んだ。
この人と共に歩むと。
信じる覚悟を、自分の意志で選んだのだと。
足元から長く伸びる影に、覚悟の重みを感じながら歩を進める。
式典の祭具の中、できたばかりの蒼鉄の剣がひときわ異質な光を放っていた。
研ぎ澄まされた刃は、栄光と破滅のどちらにも触れる。
民の不信、強大な商会の力、ファルロスという諸刃の剣。
けれど、逃げたりしない。
私はこの国の正当な王。
目を閉じれば、母の慈しむ声が蘇る。
ヴェラの優しい笑顔。
ダンやアルトの瞳、あの日の街のざわめき。
この国の、あるべき姿。
扉の向こうではセオドールが壇上に立ち、ティエルやダリオ、ボンネルが登場を待っているだろう。
そして、あの男も――
勝てないとしても、負けるわけにはいかない。
もし悪が支配を握っているのなら――私はその悪ごと飲み込み、支配を取り戻す。
ミリアは、まっすぐに顔を上げた。
重厚な扉の先、玉座の間には、民と廷臣たちの視線が集まっている。
光沢あるローブが、微かに風をはらんで揺れた。
艶やかな深い緑。ファルロスの光沢をはらんだ支配の色。
それを纏って私はこの国の玉座にのぼる――
それは、後に「大躍の時代」と呼ばれた、
ひとりの女王の治世の、始まりの色であった。
—— 第一部・完 ——
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