第50話 王子と誓約
夜の庭園は、音を失っていた。
雪は降っていないが、空気は刺すように冷たい。月は雲一つない空に冴え冴えと浮かび、白い光が彫像や低木の影をくっきりと地面に落としている。
「冬の夜にだけ咲く花があるのです」
ミリアがそう言って歩き出すと、エルナンは少し意外そうな顔で微笑んだ。
「それは、珍しいですね」
二人とも、マグリットが用意した厚手の外套をしっかり着込み、羊革の手袋をはめていた。
それでも庭へ出ると吐く息は白く、指先にはじんわりと冷えが伝わってくる。
少し進んだ場所で、サイファが足を止めた。
闇に溶け込むように周囲を確認し、異変がないことを確かめてから、ミリアに向けてわずかに頷く。
――ここから先は、二人だけ。
ミリアは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
月光に照らされたて、その姿が冷たく静かに浮かび上がる。
柔らかさも、迷いもない。
ただ、張り詰めた覚悟だけがあった。
「殿下」
エルナンは、即座にその変化を察した。
背筋が自然と伸びる。
「……何か、大事なお話、ですね?」
ミリアは一拍置き、はっきりと言った。
「ええ。殿下のお気持ちが、私とこの国にあると信じて――どうしても、お伝えしなければならないことがあります」
一歩、近づく。
「大袈裟ではありません。この国の命運が、かかっております」
エルナンは、冗談めかした返しをしなかった。
ただ、真剣な眼差しで向き直る。
「……聞かせてください」
ミリアは、最後の確認をするように言った。
「この話を聞いてしまったら、殿下はもう、引き返せません。それでも――聞いていただけますか」
一瞬の沈黙の後、エルナンは頷いた。
「はい。……伺いましょう」
ミリアは目を伏せ、言葉を選ぶ。
「殿下は――ファルロスというものをご存じですか」
エルナンの眉が、わずかに動いた。
「ファルロス……確か、伝説上の…………」
エルナンは記憶を手繰り寄せる。
「我が国で、ファルロスの大規模な鉱脈が発見されました」
月光の下でも分かるほど、エルナンの顔色が変わった。
「現在、その鉱脈はナギ商会が押さえています。そして……蒼鉄としての実用化にも、すでに成功していると」
「蒼鉄……!」
エルナンは思わず額に手を当てた。
ファルロス、蒼鉄――その名を聞いた瞬間、宝物庫の奥で見た、青く地味な鎧が脳裏をよぎった。
あれは……おとぎ話の類ではなかったのか。
ラストリアでも、ごく微量ながら採掘はされていた。
学術用途に限られ、物好きな研究者が蒼鉄の再現を夢見て、細々と続けている――その程度の話だったはずだ。
地政学の教師が熱心に語っていたのを思い出す。
あの時、自分は(そんな実らない研究より、他にやるべきことがあるだろう)そう考えていた。
「……今でも、蒼鉄が作れるということですか」
ミリアは短く頷き、「国家機密です」と言った。
その表情に、冗談の余地はなかった。
「宝物ではなく、実戦用にできるのです」
ミリアは静かに続ける。
「剣にも鎧にもなる、特殊合金だということでした」
「それ、は……世界が、変わりますね……」
絞り出すような声だった。
エルナンの脳裏に、一瞬で未来図が浮かぶ。
軍事大国ヘルガン。
周辺諸国。
そして、情報が漏れた瞬間に始まる争奪戦。
「それは……それでは、この地は戦場になります」
ミリアは頷いた。
「ええ。だから、これまで隠されてきました。暴動も、政情不安も、すべてこのファルロスが引き金です」
エルナンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほど」
そういうことか。視察中に感じていた違和感が、一本につながった。
月明かりの中、彼は改めてミリアを見た。
華奢な体。まだ二十歳にもならない若さ。
その肩に、これほどの重圧を背負って立っている女王。
ミリアは、まっすぐに言った。
「今、この国は岐路に立っています」
一歩、近づく。
「殿下。私と共に、この国を守ってくださいますか」
その瞳は、今まで見たことのない、壮絶な覚悟をたたえていた。真っ直ぐ向けられた視線は願いであり、問いであり、賭けだった。
エルナンは、目を閉じる。
浮かぶのは、蒼鉄を奪い合う戦場、荒らされる国土、焼け落ちる王城。
そして、このひたむきな女王の悲惨な末路。
選択肢は他にない。
差し伸べられた手を払う理由などどこにも。
ミリアは改めてエルナンに問うた。
「ラストリアにも、まだ言えないことです。秘密を保ったまま、……来てくださいますか」
エルナンは考えを巡らせる。
ラストリアが知れば、すぐにファルロスを欲しがって派閥争いが激化することだろう。手に入れたものが勝者となるなら、秩序を無視した行動に出るものも現れる可能性が高い。
この情報は、どの国にとっても……あまりに危険だ。
「秘密を守ります。ラストリアにも、決して伝えません」
彼は低く、しかしはっきりと言った。
そして、その場で静かに跪き、ミリアの手を取る。
「女王陛下と、コルレド王国に誓います。決して秘密を漏らさず、御身のお側でお守りします」
そして、手袋越しに誓約の口づけを落とす。
月光の下で、二人だけの約束が交わされた。
やがて、庭園を出ると、サイファが待っていた。
短く、問いかける視線。
ミリアは、わずかに頷いた。
その後、急ぎ談話室に戻ったサイファは、待機していた陣営に告げた。
「――成功です」
その一言で、すべてが通じた。
コルレド王国女王ミリアは、この夜、また新たな道を一歩進んだ。




