第38話 ボンネルと元宰相
議会棟の廊下は、夕刻になると人の気配が薄れる。
ボンネル・ユドー・セネヴォーは、書類を抱えたまま歩いていたところで、後ろから声をかけられた。
「ボンネルさん」
振り返ると、そこに立っていたのはティエルだった。
几帳面そうな服装、どこか間の抜けたような穏やかな表情。議会でもよく顔を見る、実務官の青年だ。
「少し確認したいことがありまして。よろしいでしょうか」
深刻そうでもなく、声を潜めるでもない。些細な用事なのだろう、とボンネルは判断した。
「構いませんよ」
「ありがとうございます。ではこちらへ」
案内されたのは、議会棟の奥にある小さな応接室だった。
簡素な机と椅子が二つ、窓は一つ。人を長く留めるための部屋ではない。
「あっすみません、書類を取ってきます。すぐ戻りますので、少しだけお待ちください」
そう言って、ティエルは軽く頭を下げ、部屋を出ていった。
……なるほど、本当に些細な用事らしい。うっかり書類を忘れてくる程度の。
ボンネルは椅子に腰を下ろし、背もたれに身を預けた。
議会の控室に比べれば、ずいぶんと落ち着く。
指先で机の縁を軽く叩きながら、思考を巡らせていた。
そう、確かティエルは故王太后の側で何かと雑務をこなしていた。
地味でぼんやりしているように見えるが、事務官としてはかなり有能な男だとボンネルは推察している。
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
(戻ってきたか)
そう思った瞬間、違和感が走る。
足取りが違う。
音の重さではない。間合いだ。
近づいてくるだけで、空気が締まっていく。
ボンネルは、ゆっくりと振り返った。
扉が開き、入ってきたのは――老人だった。
背は低く、服装も地味。だが、その顔には一切の表情がない。
異様な威圧感。
理屈ではない。
ただそこに立っているだけで、視線が逃げ場を失う。
(……これは)
次の瞬間、名前が浮かび、息を飲んだ。
――ジルベール閣下。
かつて宰相として議会に君臨し、今では耄碌した老人として振る舞いながら、周りを見ているあの人物。
だが今、目の前にいるのは「無害な老人」ではない。
本気の威圧だ。
(全然現役じゃないか……)
ボンネルは立ち上がって姿勢を正した。
その反応を無表情のまま確かめると、ジルベールの雰囲気がふっと緩んだ。
「……うむ」
次の瞬間、背が少し丸まり、足取りもどこか覚束なくなる。
表情には柔らかな笑みが浮かんでいた。
「いやいや、驚かせてしもうたかの」
ひょこひょこと歩き、向かいの椅子に腰を下ろす。
にこり、と笑う。
だが、その目の奥は、少しも笑っていなかった。
「ボンネル・ユドー・セネヴォーよ」
名を呼ばれ、背筋が自然と伸びる。
「おまえさん、どうじゃ。――うちにこんか?」
部屋に沈黙が落ちた。
短い問いかけ。
だが、意味ははっきりしている。
(陛下の側へ、ということか)
ジルベール閣下が女王の後見についたことは、周知の事実だ。
ならば、この言葉の行き先も一つしかない。
――なぜ、自分なのか。
身分も、名も、それといった立場もない。
それでも、この老獪な大政治家がわざわざ自分を誘いに来た。
胸の奥で、小さく息が弾んだ。
(……願ってもない大抜擢、だな)
ボンネルはしばし視線を落とし、深く息を吐いた。
「……かしこまりました」
顔を上げ、静かに続けた。
「閣下直々のお誘い、光栄に存じます」
「うむ」
ジルベールは満足そうに頷いた。
「ほっほっほ。素直でよろしい」
そのとき、扉が勢いよく開いた。
「ええっ、もう終わりですか?」
ティエルが驚いた顔で中を覗き込む。
「ティエル……」
思わず呼びかけたボンネルに、ジルベールは楽しそうに笑った。
「終わりじゃ。さすが、話が早い有能な男じゃの」
ほーっほっほ、と朗らかな笑い声が部屋に響く。
その笑いの裏にある重さを、
この場にいる誰もが、はっきりと理解していた。




