第37話 アシェラとダリオ
兵舎の事務室。夕方を過ぎ、人影はほとんど消えていた。
窓の外はすでに薄暗く、灯りもない廊下に、重たい靴音が響く。
ダリオ・グランツは手元の帳簿をまとめながら、机の上に頬杖をついて小さくうめいた。
「……なんで毎回、俺がやる羽目になるんだか」
受領記録、破損備品、演習装備の配分……どれも小隊の誰かがやらねばならない仕事だが、押しつけられるのはいつも自分だった。
だからといって、さぼることはできない。
それが軍務というものだ。
紙をめくる指が止まったのは、足音が事務室の前でぴたりと止まったからだった。
手燭の淡い光が、扉の向こうから差し込む。
「……一人で残業か。ご苦労」
聞き覚えのある、女の声。
反射的に立ち上がって頭を下げながら、顔を上げた瞬間、言葉が凍った。
そこにいたのは、アシェラ・エルネスタ――近衛副隊長。
女王直属の護衛であり、整った容姿で知られる人物。
だが、実際に間近で見たのは初めてだった。
手燭に照らされたその顔は、遠目に見た印象の何倍も整っていて、思わず固まった。
(……本当に、こんなにきれいな顔ってあるんだな)
輪郭、目鼻立ち、すべてがくっきりしている。
まるで像みたいに破綻がない。
見上げたその一瞬で、同じ世界の住人じゃないと思わされた。
(いや、待て。なんでこの人が俺のところに……? なんかやらかしたか?)
焦りと混乱で心臓が変な音を立てはじめたそのとき、彼女はふっと口元を緩めた。
「咎めに来たのではない。そう構えないでほしい」
その笑顔もまた、完璧に整っていた。
冷たくもなく、馴れ馴れしくもない。
ただ静かに、相手を見ている。
だがそれだけで、全身が居ずまいを正したくなる。
(やっぱり、違う世界の人だ……)
ハッと気づいたダリオは慌てて椅子を差し出した。
アシェラは手燭を机に置くと、勧められたままに椅子に腰を下ろす。
座り姿も絵になっていて、どうなってるんだこの人、とダリオは思う。
「話があって来た」
穏やかな声音だが、かえってそれが恐ろしい。
ダリオの背中に緊張が走る。
(どうか厄介な話ではありませんように——)
心の中で手を合わせて祈る。
「貴殿は、国軍の内部事情に精通し、実務にも長け、武人としての技量も申し分ない。そして……何より、志がある」
その突然の高評価に、言葉を失う。
(それは、どこの誰の話だ?)
冴えない残業係の自分が、そんな風に見られていたと?
誰かと勘違いしてるんじゃないかと思う。
「それは……誰のことですか?俺はただ、書類仕事を押しつけられて、それを真面目に片づけてるだけの男です。誰にも期待されずに残ってるだけの、目立たない歯車ですよ」
自嘲でも卑屈でもない。
事実を述べただけだった。
だが、アシェラの視線は静かに揺るがなかった。
「備品納入の不正について、貴殿が書き上げた報告書――私は目を通した。よく調べ、証拠も押さえ、要点も明確だった。だが……何も変わらなかった。上には通らなかった。声は届かなかった。私は……見ていたのに、何も言えなかった」
ほんのわずか、悔しそうに眉が動いた。
「貴殿は、声を上げた。誰にも気づかれなくても、正しいと思ったことを貫いた。それが『志』でなくてなんだというんだ」
言葉が出なかった。確かにそういうことはあった。
だがそれは、理不尽が目に余っただけだし、結局握りつぶされて終わった。
それだけのことだったが。
(でも……それを見てくれてた人がいた)
胸の奥が、かすかに揺れた。
「軍の中で腐敗が進んでいるのは事実だ。予算も人事も、商会と結びついた上層の思惑に左右されている。兵の訓練は後回しにされ、備品は届かず、士気も落ちる一方だ。暴動の際に軍がまともに動けなかったのも、その結果だ」
静かな声の中に、怒りがにじんでいた。
「あの夜。ナギ商会の私兵は素早く動き、町を制圧した。我ら国軍を差し置いて。――私は、それが悔しかった。軍人として、屈辱だった。けれど、陛下はその時、動かれた。悲しみの極みにあってなお、いやだからこそ、立ち上がる決意をされた」
あの夜の光景が、脳裏に浮かぶ。
女王が泣いていた。
けれど、その目には意思があった。
震えていても、踏み出していた。
「私は、それを見て決めた。もう言い訳はしない。陛下の剣として、あの方の前を歩こうと」
アシェラの声音は変わらないまま、わずかに柔らかさを帯びた。
「貴殿も、謁見の間で、同じものを見たのではないか。だから私は、ここへ来た。貴殿ならば、と。――貴殿となら、まだこの国の軍を立て直せるかもしれないと思った」
(国軍の立て直し——?)
「俺が、ですか?」
「そうだ。謁見の場での貴殿の視線。私は見ていた」
「でも、俺じゃなくても、もっと……」
アシェラは首を横に振った。
「真に忠誠を尽くしてくれる人材は、多くはない。ダリオ・グランツ。……無理強いするつもりはない」
アシェラはグッと近づいて、言った。
「陛下のために、忠誠を尽くす気は、あるか?」
(そんな綺麗な顔のアップで聞くのはずるいだろ。……でも)
少しずつ、胸の奥の冷たい重石が、ゆっくりとほどけていく。
遠いエリートだと思っていたこの人も、苦悩し、迷い、道を選ぶ「人間」なんだ、とダリオは思った。
「あり、ます。でも」
陛下が不利な立場なのは俺にでもわかる。そこに身を投じろということだ。
「……勝算は、あるのですか?」
問う声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
アシェラは、ふとわずかに口元をゆるめる。
「貴殿は、勝ち目がなければ動かぬ男か?」
そして、少しだけいたずらっぽく笑った。
「――勝ち目は、我らがつくるのだよ。正当な王の名の下に」
その言葉と姿が格好良すぎて、ダリオは負けた。
何が起こるかわからない道だが、こうなった以上やるしかない。
ダリオの目にも、光が宿る。
国軍兵としての誇りの輝きだった。




