表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/59

第37話 アシェラとダリオ

 兵舎の事務室。夕方を過ぎ、人影はほとんど消えていた。

 窓の外はすでに薄暗く、灯りもない廊下に、重たい靴音が響く。


 ダリオ・グランツは手元の帳簿をまとめながら、机の上に頬杖をついて小さくうめいた。


「……なんで毎回、俺がやる羽目になるんだか」


 受領記録、破損備品、演習装備の配分……どれも小隊の誰かがやらねばならない仕事だが、押しつけられるのはいつも自分だった。

 だからといって、さぼることはできない。

 それが軍務というものだ。


 紙をめくる指が止まったのは、足音が事務室の前でぴたりと止まったからだった。

 手燭の淡い光が、扉の向こうから差し込む。


「……一人で残業か。ご苦労」


 聞き覚えのある、女の声。

 反射的に立ち上がって頭を下げながら、顔を上げた瞬間、言葉が凍った。


 そこにいたのは、アシェラ・エルネスタ――近衛副隊長。

 女王直属の護衛であり、整った容姿で知られる人物。


 だが、実際に間近で見たのは初めてだった。

 手燭に照らされたその顔は、遠目に見た印象の何倍も整っていて、思わず固まった。


(……本当に、こんなにきれいな顔ってあるんだな)


 輪郭、目鼻立ち、すべてがくっきりしている。

 まるで像みたいに破綻がない。

 見上げたその一瞬で、同じ世界の住人じゃないと思わされた。


(いや、待て。なんでこの人が俺のところに……? なんかやらかしたか?)


 焦りと混乱で心臓が変な音を立てはじめたそのとき、彼女はふっと口元を緩めた。


「咎めに来たのではない。そう構えないでほしい」


 その笑顔もまた、完璧に整っていた。

 冷たくもなく、馴れ馴れしくもない。

 ただ静かに、相手を見ている。

 だがそれだけで、全身が居ずまいを正したくなる。


(やっぱり、違う世界の人だ……)


 ハッと気づいたダリオは慌てて椅子を差し出した。

 アシェラは手燭を机に置くと、勧められたままに椅子に腰を下ろす。

 座り姿も絵になっていて、どうなってるんだこの人、とダリオは思う。


「話があって来た」


 穏やかな声音だが、かえってそれが恐ろしい。

 ダリオの背中に緊張が走る。


(どうか厄介な話ではありませんように——)


 心の中で手を合わせて祈る。


「貴殿は、国軍の内部事情に精通し、実務にも長け、武人としての技量も申し分ない。そして……何より、志がある」


 その突然の高評価に、言葉を失う。


(それは、どこの誰の話だ?)


 冴えない残業係の自分が、そんな風に見られていたと?

 誰かと勘違いしてるんじゃないかと思う。


「それは……誰のことですか?俺はただ、書類仕事を押しつけられて、それを真面目に片づけてるだけの男です。誰にも期待されずに残ってるだけの、目立たない歯車ですよ」


 自嘲でも卑屈でもない。

 事実を述べただけだった。


 だが、アシェラの視線は静かに揺るがなかった。


「備品納入の不正について、貴殿が書き上げた報告書――私は目を通した。よく調べ、証拠も押さえ、要点も明確だった。だが……何も変わらなかった。上には通らなかった。声は届かなかった。私は……見ていたのに、何も言えなかった」


 ほんのわずか、悔しそうに眉が動いた。


「貴殿は、声を上げた。誰にも気づかれなくても、正しいと思ったことを貫いた。それが『志』でなくてなんだというんだ」


 言葉が出なかった。確かにそういうことはあった。

 だがそれは、理不尽が目に余っただけだし、結局握りつぶされて終わった。

 それだけのことだったが。


(でも……それを見てくれてた人がいた)


 胸の奥が、かすかに揺れた。


「軍の中で腐敗が進んでいるのは事実だ。予算も人事も、商会と結びついた上層の思惑に左右されている。兵の訓練は後回しにされ、備品は届かず、士気も落ちる一方だ。暴動の際に軍がまともに動けなかったのも、その結果だ」


 静かな声の中に、怒りがにじんでいた。


「あの夜。ナギ商会の私兵は素早く動き、町を制圧した。我ら国軍を差し置いて。――私は、それが悔しかった。軍人として、屈辱だった。けれど、陛下はその時、動かれた。悲しみの極みにあってなお、いやだからこそ、立ち上がる決意をされた」


 あの夜の光景が、脳裏に浮かぶ。

 女王が泣いていた。

 けれど、その目には意思があった。

 震えていても、踏み出していた。


「私は、それを見て決めた。もう言い訳はしない。陛下の剣として、あの方の前を歩こうと」


 アシェラの声音は変わらないまま、わずかに柔らかさを帯びた。


「貴殿も、謁見の間で、同じものを見たのではないか。だから私は、ここへ来た。貴殿ならば、と。――貴殿となら、まだこの国の軍を立て直せるかもしれないと思った」


(国軍の立て直し——?)


「俺が、ですか?」


「そうだ。謁見の場での貴殿の視線。私は見ていた」


「でも、俺じゃなくても、もっと……」


 アシェラは首を横に振った。


「真に忠誠を尽くしてくれる人材は、多くはない。ダリオ・グランツ。……無理強いするつもりはない」


 アシェラはグッと近づいて、言った。


「陛下のために、忠誠を尽くす気は、あるか?」


(そんな綺麗な顔のアップで聞くのはずるいだろ。……でも)


 少しずつ、胸の奥の冷たい重石が、ゆっくりとほどけていく。

 遠いエリートだと思っていたこの人も、苦悩し、迷い、道を選ぶ「人間」なんだ、とダリオは思った。


「あり、ます。でも」


 陛下が不利な立場なのは俺にでもわかる。そこに身を投じろということだ。


「……勝算は、あるのですか?」


 問う声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

 アシェラは、ふとわずかに口元をゆるめる。


「貴殿は、勝ち目がなければ動かぬ男か?」


 そして、少しだけいたずらっぽく笑った。


「――勝ち目は、我らがつくるのだよ。正当な王の名の下に」


 その言葉と姿が格好良すぎて、ダリオは負けた。

 何が起こるかわからない道だが、こうなった以上やるしかない。


 ダリオの目にも、光が宿る。

 国軍兵としての誇りの輝きだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ