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第30話 デサン・キアロ:支配

皇太后崩御の報は、城の奥深くまで沈痛な影を落としていた。

侍女も兵も、誰もが哀しみと不安を隠しきれぬままに持ち場に立ち尽くしていた。


女官長マグリットは、重い足取りで回廊を進んでいた。


(ショックで部屋にこもっているのかもしれない。……マルセラ様をずっと看病していたのはヴェラだったし)


混乱の中、皇太后の寝所を支えていたヴェラの姿が見当たらないのが気にかかり、部屋へ探しに行くところだった。



日は少し傾き、秋の西陽が回廊の柱の間から廊下を照らしている。


(マルセラ様……急激におやつれになってはいたけれど、こんなに突然亡くなるなんて)


未だ現実味のない感覚のまま、女官長として王宮のものたちに様々な指示を出していたが、一番頼りにしたいヴェラが見当たらなかった。

多くの侍女たちとは違い、王族付き侍女頭でもある彼女の部屋は王族の私室からそう離れていない場所にある。

王太后の崩御に伴う様々な表の仕事のため、城に仕えるものたちは出払っている。

この奥の辺りの回廊は静まり返っていた。


回廊から奥の通路に入ろうとしたところで、マグリットは足を止めた。

廊下中程の扉が開き、見慣れぬ背の高い男の影が現れる。

男はゆったりと余裕ある仕草で扉を閉め、長い外套の襟を整えると、誰見られることも恐れぬふうに堂々と歩き出した。


男が出てきたその扉は――ヴェラの部屋だった。


(あの男は……ナギ商会の……)


マグリットは角の壁に身を潜め、男が通り過ぎるのを待つ。

気づかれぬようその様子を伺う。


自分の記憶と雰囲気は随分と違うが、顔貌は間違いない。

マルセラ様が贔屓にして城によく出入りしていた布商人。


――そう、今、この国で最も大きな力を持つナギ商会の主。

確か、名はデサン・キアロ。


そんな男が、今――ヴェラの部屋から出てきた。

王太后崩御と暴動勃発で混乱に陥っているこの時に。


(何? どういうこと……?)


男が去ったのを確認して、マグリットは小走りで扉に近づき、そっとノックした。


返事はない。

誰かがいる気配はある。だが、動きはない。

中にいるのはヴェラのはず。


扉の取っ手を少し引くと動いた。

マグリットはためらいながらもゆっくり扉を開けた。


香が鼻を打つ。甘く、濃く、どこか艶めいた熱の気配。


「……ヴェラ?」


薄明かりの中、ベッドにしがみつくように倒れている女の姿。

肌着は肩からずり落ち、髪は乱れ、頬は濡れていた。


布団には、明らかに男の重みが残っている。


マグリットの視界がぐらりと揺れた。


「あなた、ここで一体何を……」


皇太后が崩御し、悲しみに暮れているのかと見にきてみれば、この姿は。



「マグリット……ああ、マグリット……」


泣き笑いのような歪な表情で、ヴェラが身を起こし、伸ばしかけた手が震えている。


「許して……王妃様は、私が……ごめんなさい……全部、私のせいなの……」


「……なんの、ことを言っているの……さっきの、あの男は……?」


マグリットは、視線を逸らそうとしたが、足が動かなかった。

ヴェラはポロポロと溢れる涙を拭いもせずに、震える声でうわごとのように言葉を漏らす。


「……あの人、優しくて………薬酒だって言われて、私、疑いもせずに……。弟の、借金があって……それから、身体が……どうにもならなくて、……、……いつの間にか、言うことを……全部、全部きいてて……王妃様に……あの薬酒をずっと……」


その言葉の意味を理解したとき、マグリットの中で何かが崩れた。


「……黙りなさい」


掠れた声だった。


「……服を着なさい。恥を……恥を知りなさい!」


「マグリット、違うの……! わたし、本当に……」


長年共に仕えてきた親友に、ヴェラは必死で手を伸ばした。


「違わない!」


振り払ったのはヴェラの手だったのか、自分自身の感情だったのか、もうわからない。

マグリットはそのまま、部屋を出て後ろ手に扉を閉めた。


廊下を歩きながら、心の中で叫び続けていた。

脳裏には乱れたヴェラの姿が焼き付いている。


(なぜ、あなたが……なぜマルセラ様を裏切るの!)


・・・・


静寂が戻った部屋で、ヴェラはうつ伏せになって泣き続けていた。

誰も来ないことを知り、誰も許してくれないと悟ったとき、彼女は手にしていた小瓶を見つめた。

その中の液体が、まるで救いのように澄んで見えた。


デサンの言葉が浮かぶ。


『……多いと命を失う』


(マルセラ様……私も、そちらへ行っても、いいでしょうか……)


涙に濡れた頬に、かすかな微笑が浮かぶ。

ふらりと身を起こし、震える手で小瓶の栓を抜く。香が鼻を刺す。


ヴェラは一息に口に流し込んだ。

喉の奥にドロリと流れ込む液体をごくり、ごくりと飲み下す。

胃が焼けるように痛んだ後、何も感じなくなった。


ふわりと意識が遠のく中で、聞こえたのはマルセラの優しい声だった――ような気がした。


・・・・


夜はすでに更け、城の廊下に響く足音は、自身の心の鼓動よりも遅く、重たかった。

燭台の炎が壁に揺れ、重なる王族の死と内乱の不穏に、城全体が水底に沈んだようだった。

あらゆる物音がくぐもるように遠ざかってゆく。


マグリットは手に小さな灯りを持って、ヴェラの部屋へ戻ってきた。

落ち着いて話を聞かなければ――

あのときは冷静ではなかった。

怒りでも、義憤でもない。

ただ目の前の事実を、恐ろしい懺悔をどうしても受け止めきれなかった。


「ヴェラ……」


小さく扉を叩いた。返事はない。

もう一度、今度は少しだけ強く。


「ヴェラ? さっきは、ごめんなさい。私驚いてしまって……ちゃんと、話したいの」 


返事はない。室内に灯りもない。

もう夜も更けている。眠っているのだろう——そう思おうとした、その考えの裏側で、嫌な予感が脈打ち始める。

涙と伸ばされた手、振り払った自分。

 

扉に手をかける。鍵は、かかっていなかった。

軋む音を立てないよう、そっと扉を押す。


闇の中に足を踏み入れ、ランプを掲げると、淡い光が部屋の奥を照らした。

ベッドが見える。

ヴェラは、横たわっていた。

乱れてはいない。

まるで、静かに休んでいるかのように。


胸の奥が冷えた。


「ヴェラ……?」


発した声は、思ったよりも小さく、震えていた。

反応はない。


一歩、また一歩と近づくにつれて、鼻先をかすめる匂いに気づく。

つんとした、乾いた薬草のような匂い。 

治療室で嗅いだことのある、それに似た匂いだった。


ランプを高く掲げ、顔を照らす。

白い。 

あまりにも、白すぎる。


半開きの唇。

閉じきらない瞼の下で、光を失った瞳が、どこも見ていない。


息が止まった。

眠っている——そう思える余地はもうなかった。


もう一歩足を進めようとしたそのとき、つま先に何かが当たり、乾いた音を立てて床を転がった。

茶色い、空の小瓶。

それを見た瞬間、すべてが繋がった。


「……ああ……」


声にならない声が、喉の奥で潰れる。

近づき、震える手でそっとその瞼に触れる。

返ってきたのは、人のものではない冷たさだった。


マグリットは、ゆっくりと、その目を閉じさせた。

その場に立ち尽くし、動けなくなる。


怒りが湧く。

悲しみが溢れる。

そして何より、自分自身への悔恨が、胸を締め付けた。


マルセラ様を殺したのは自分だとヴェラは言った。


けれど——


ヴェラをそこへ追い込んだのは誰だ。

その罪を、誰が背負わせたのだ。


答えは、分かっている。

すべての罪は、あの男にある。


それでも、マグリットの胸の奥では、

マルセラを死なせたヴェラへの怒りが、

縋る手を振り払って逃げた自分への怒りが、

大切な二人を同時に失った耐え難い悲しみが、絡まり合っていた。


長い沈黙ののち、マグリットは、静かに動き出した。

床に転がった小瓶を拾い上げる。

中身は、まだうっすら残っている。


それを懐に収め、部屋の中を見回す。

疑念を感じさせるものは、何一つ残さない。


ヴェラの衣服を整え、乱れた髪を撫でつける。

掛け布を胸元まで引き上げ、手を重ねる。

主を看取ったあと、そのまま力尽きた侍女に相応しい姿に。


それでいい。

それがいい。


真実を明らかにするには、証拠が足りない。

証人は、もういない。


そして何より——

この死を暴くことは、ヴェラの罪と、支配された屈辱を、永遠に晒すことになる。


マグリットは、ゆっくりと目を閉じた。

これは正しい選択ではないかもしれない。


けれど、ヴェラの名誉を守るためには、こうするしかない。

それが、今の自分にできる、唯一の贖罪だった。


ランプの灯りを落とし、マグリットは静かに部屋を後にした。


闇の中に残されたのは、人生を捧げて主人に尽くし、その喪失と共に力尽きたひとりの侍女——

それは皇太后崩御の悲劇に沿う、物語の一つとなった。

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