第26話 ある男:誘惑
シンプルな銀の燭台で蜜蝋の柔らかい光が三つ、揺れている。
磨き込まれた大きな事務机のむこうで、女が身を震わせて立っていた。
「私…もう……これ以上は……どうか…」
「ご不要、ということですか?」
蝋燭の明かりに浮かび上がる姿。
そう若くはない女。
こうして似たような言葉を聞くのも何度目か。
けれど、男は穏やかな笑みを浮かべたまま、まるで慰めるような口調で言った。
「構いませんよ。でしたら……今後は、もうお訪ねもいたしません」
優しげに──けれど、瞳には笑みと別の色が宿る。
そんなことを本気で思っているはずもないだろう、と。
「しかしそうなると、返済をお待ちすることも難しくなりますね」
女は伏せていた目をあげて縋るように言う。
「そういう意味では……なくて」
「では、どういう意味で?」
男はそう尋ねながら、机の上の白い瓶に目をやった。
すでにかなりの本数を与えてきた。
「これを……また使っていただけるのなら。そう……今まで通りに。」
ゆっくりと、男は女の背後へ回る。
息が耳にかかる距離で囁いた。
「今夜は、……お急ぎですか?」
低く、甘くまとわりつく声。
その響きだけで、耳奥が痺れるような錯覚に包まれる。
「……いえ……わたしは……っ」
男は慈しむように背後から女の両手を取り、そっと胸元へ導いた。
それが、合図だった。
女の肩が罪と歓喜に震える。
欲しかったもの――欲しがってはならなかったものが、与えられる。
甘い毒の始まり―
絶望の喘ぎは、誰にも届かなかった。
本日分の借用書も、まとめるとかなりの束になった。
分厚いそれを脇に抱えて階段を上がる。二階の廊下に踏み入れたとき、扉の隙間からこぼれる光が目に入った。
リースは、足を止めた。
細く長く伸びる光の中で―
──激しく揺れる影。
──くぐもった女の息づかい。
──軋むソファの音。
息を止めて目を伏せる。
―ああ、さっきの女。
ゆっくり息を吐く。
そんなもの、聞く必要はない。
「……仕事中、だな」
書類を抱え直す手に、無意識に力が入る。
リースは足早に階段を降りていった。




