第23話 不満と言葉
酒場の中は、以前よりもずっと薄暗く感じられた。
灯りの数も心なしか減っている。客の声は少なく、笑い声もほとんど聞こえない。
カウンターの奥には「売り切れ」と書かれた札がいくつも下がっていて、残っているのは滅多に売れない高いワインばかりだった。
「……ちっ、これしかねえのか」
木のテーブルに腰掛けた男が、不機嫌そうに舌打ちする。
グラスに注がれたワインは底が見えるほど少なく、男たちはそれを水で薄めてちびちびと口に運んでいた。
給仕の娘は、視線を伏せながら恐る恐るテーブルを回っている。
酒が足りないことを責められやしないか、怯えるような表情だった。
その隅の席に、ダンとリアンが向かい合って座っていた。
「最近さ、ほんと仕事減ったよな」
リアンがグラスを傾けながら言う。
「注文、目に見えて減ってる。布屋もそうだし、靴屋も。ウチの店も、前みたいに注文入らなくなってきてる」
「食うもんねえ時は、服の仕立ては後回しだな」
ダンが答える。
「そうなんだよ。まあ、うちはナギ商会と取引あるからさ。布自体はまだ回ってくるし、兄貴もあんまり気にしてないみたいだけど」
リアンは苦笑した。
「でもさ、パン屋にパンがなかったら、いくら布あっても意味ないだろ?着るものより、まず食い物だし」
「……そうだな」
周囲の男たちの会話も、似たようなものばかりだった。
「今月、肉一回も食ってねえ」
「酒も水みたいに薄められてるし」
「仕事、ねえな……」
そのとき、酒場の扉が静かに開いた。
外套を羽織った青年が一人、店内を見渡す。
洗練された身なりと、場違いなほど落ち着いた雰囲気。
「……あ」
リアンが目を輝かせた。
「シューリさん!」
青年は驚いたように瞬きをしてから、すぐに柔らかく笑う。
「おや、リアンじゃないか。奇遇だね」
近づいてきた青年は恐ろしいほど整った顔立ちをしていた。
「ダン、この人、ナギ商会のシューリさん。色々教えてくれてさ、すっごいいい人なんだ」
「……どうも」
ダンは軽く頭を下げる。
「すいませんシューリさん、こいつちょっと無愛想で。根はいいやつなんですけどね」
「はは、大丈夫だよ」
シューリは気にした様子もなく、カウンターへ向かった。
「何が飲める?」
給仕の娘がメニューを差し出す。
シューリは一瞥して、ふっと眉を上げた。
「……ずいぶん、雰囲気が変わってしまったね」
札の大半は「売り切れ」だった。給仕の娘が答える。
「そうなんです。いろんなものの値段が上がって……パンも買えない日があったりして」
近くの客がぼそりと呟く。
「仕事もねえしな」
「そう……」
シューリはしばらく考え込むように黙り、それからリアンの席に視線を戻した。
「王様が亡くなってから、ひどくなってるよね」
何気ない口調だった。
「それでも貴族たちは、毎晩夜会で踊ってるらしいけど」
「えっ、本当ですか?」
リアンが身を乗り出す。
シューリは静かに頷いた。
「もうすぐ税の取り立てもあるだろう?こんな生活なのに、いつもと変わらない取り立てになるらしい」
シューリは沈んだ顔でため息をついた。
「ほんとですか?たまらないですね。なんとかなりませんかね」
苦笑しながらリアンはシューリに問いかけた。
「みんな、思ってることは同じだと思うよ」
少しだけワインの入ったグラスをくるりと回しながら答える。
「たださ……それぞれが、こうやって別々に不満をこぼしてるだけなんだ。酒場で愚痴って、家でため息ついて、それで終わり。それじゃ、何も変わらない」
リアンは黙り込んだ。
「……じゃあ、どうしたらいいんですか」
「そうだね」
シューリは、まるで世間話でもするような口調で言った。
「誰かが、声をあげればいい。“俺たちはこう思ってる”って。そうしたら、同じ思いの人が集まってきて、声はきっと今よりずっと大きくなる。誰にも無視できないほどにね」
リアンは、何かに打たれたように息を呑む。その表情の変化をシューリは感じ取っていた。
三人は酒場を出て、夜の街を歩き始める。
冷えた空気の中、石畳を踏む音だけが響く。
「シューリさん」
リアンが思い詰めたように言う。
「さっき言ってた、貴族の夜会って……どんな感じなんですか?」
「ああ、それね」
シューリは少し考えるように視線を上げた。
「仕事で何度か行ったことはあるけど……そりゃあ、贅沢の一言だよ。蜜蝋の蝋燭を何十本も灯してさ。ガチョウや豚の肉料理がテーブルに溢れてて、もちろん酒だって、何種類も並んでる」
ダンもリアンも、思わず足を止めた。
「真ん中の広いところでは楽団が演奏しててね。それに合わせて踊るんだ。上等な布をたっぷり使ったドレスを着た貴婦人たちが、笑いながら、くるくる回ってる」
リアンは唇を噛みしめた。
――そのドレスを作ってるのは、俺たちだ。その値段を、俺は知っている。
俺たちがいなけりゃ、その服は存在しない。
「噂話をしながら、結婚相手を探すのさ。誰と組めば得か、どの家が強いか……そういう話ばかりがずっと続く」
「……なんだ、それは」
ダンが低くこぼす。
「意味わかんねえ」
「貴族様ってね」
シューリは、やさしい笑みを浮かべたまま言った。
「それが“お仕事”だと思ってるんだよ」
その瞬間、リアンが勢いよく言葉を吐き出した。
「俺、許せません。こんな苦しい生活してるのに、毎晩贅沢して、そのために税金取るんですか?貴族って、そんなことのためにいるんですか」
シューリは、少しだけ目を細めた。
「君は賢いね、リアン」
シューリの評価にリアンは少し顔を赤らめる。
「その怒りは、正しい方向に使うべきだと思うよ。君の力は、自分が思ってるより、ずっと強い」
リアンの胸の奥で、何かがはっきりと形を持った。
「……声をあげます」
拳を握りしめて言う。
「みんなの分まで。黙って耐えてるのは、もう限界だ」
「そう。」
シューリはにっこりと笑った。
「君は、きっとみんなの光になれるね」
その言葉にリアンの高揚は決意に変わった。
しばらく行った街の曲がり角で、シューリは足を止める。
「じゃあ、僕はここで」
軽く手を振ると、スマートな足取りで暗がりの中へと消えた。
「やっぱり、シューリさん格好いいなあ……はぁ」
リアンがうっとりため息をつくのを、ダンは不思議な気持ちで見ていた。
残された二人は、しばらく無言で歩いた。
「……みんなの光、か」
リアンが興奮したように言う。
「そうだ。誰かが声をあげるべきなんだ。そう思うだろ、ダン」
「オレには、よくわかんねえ」
ダンは肩をすくめる。
「でも、こんな時に贅沢してるってのは……腹が立つな」
「だろ? みんな、きっとそう思ってる」
リアンは、前を見据えた。
「だから伝えるんだ。俺たちの声を」
それからしばらくして。
街角や酒場では、しばしばリアンの声が響くようになった。
王や貴族の贅沢を語り、働く者たちの苦しさを訴え、「俺たちは黙っていいのか」と問いかける、熱のこもった演説が。




