第一話 喪明けと願い
春の風が、空を磨いたような晴れ渡った空に吹き抜けている。
王女アデレード・ミリア・カンザはバルコニーの欄干に手をかけ、頬をゆるませた。
「よく晴れてくれた……ほんとうに!」
両手を合わせて光の精霊神に感謝する。
「ありがとうございますっ! 最っ高のお祭り日和です!」
風に乗って届く笛の音も、花の香りも、今日は全部、自分の味方のように思えた。
部屋のバルコニーから見下ろせば、陽光にきらめく城下町が一望できる。
赤茶の屋根が折り重なる街並みは、今日は白い布と色とりどりの花飾りに彩られ、通りのあちこちから笑い声と祭りの音楽が溢れ出していた。
その先には、澄んだ湖と、それに続く銀色の川が流れている。
川面にはいくつもの船が浮かび、荷を積んだ帆船がゆったりと港に出入りしている。小舟がそれらの間を縫うように進み、人も物も、この国のあらゆる場所をつなげていた。
南には、麦の若葉が風にそよぐ穀倉地帯。
さらに遠く、地平の向こうには――かすかに、海の光が揺れて見える。
コルレド王国は、どこまでも穏やかで、美しい国だった。
前女王アデレード――ミリアの祖母が崩御してから三ヶ月。
今日はついに、喪が明けてから初めて迎える大きな祭りだ。
城下から遠くの村々まで、色とりどりの花で飾られる春の祝祭は、秋の収穫祭に勝るとも劣らない大きな楽しみだった。
女王崩御からの数ヶ月間、静かに喪に服し、誕生日の祝いもなかったミリアに、ある日、父と母はこう言った。
『十七の誕生日を祝えなかった代わりに、一つだけ、何か願いを叶えよう』
それなら、と迷わず口にしたのは――ずっと憧れていた、城の外の世界。
町の娘になりきって、民と同じ目線で祭りを歩いてみたいという願いだった。
「はい、そこ。じっとしてくださいませ」
ヴェラは丁寧にミリアの髪を整えながら、いつもの調子で言葉を続ける。
「いいですか、姫様……いえ、アデラ。まず、丁寧な言葉遣いはしないこと。『です』『ます』は、なるべく使わないでくださいね」
「はーい」
「串焼きや果物は、遠慮せず手に持って食べること。小さくかじるのもなしです。思いきって、がぶっと」
「あ、それすっごい楽しみ。おっきく口あけてガブってやっていいのよね!」
「花を差し出されたら受け取って、『精霊の祝福を』とお返しの花を渡すんです」
「それも楽しみよ。知らない人とでもやるんでしょ? お祭りって感じ!」
「それから、文字が読めても、わからないふりをしてくださいね。お祭りにはいろんな店が出ているんですから」
「はいはい、わかってます! もう、そんなに何度も言わなくても大丈夫よ」
変装して街へ出ると決まってから、心配症の元乳母・ヴェラは何度も同じことを言う。
そんなに信用ないのかしら、と口を尖らせたくもなる。
今日のミリアは、亜麻の膝丈ワンピースに、花の祝祭では定番の、花の刺繍が入った黒地のベスト。腰に素朴な布帯を巻き、髪もゆるく後ろで結ばれ、耳元には小さな真鍮のイヤリング。
簡素な祝祭衣装一式を身につけると、かわいらしい町娘のできあがりだ。
「——ミリア」
入ってきたのは、王妃マルセラだった。
淡い緑のドレスに白銀の細やかな刺繍が揺れ、春の光を受けて聖女のように輝いて見えた。
「お母様!」
ミリアはぱっと振り返ると、くるりとその場で一回転して見せる。
「どうですか? すっかり街の娘に見えるでしょう?」
「……ええ、よく似合っているわ。とても」
マルセラはそっと笑みを返した。だが、目元にはほんのり憂いの色がある。
「来週の戴冠式が済めば、このような町歩きはきっとできなくなります。だから、ぞんぶんに楽しんでいらっしゃい。けれど——どうか、けがなどせぬように気をつけるんですよ」
「わかってますってば!何も無茶はしません。……たぶん」
ミリアが目を伏せると、後ろからヴェラが即座に口を挟んだ。
「アシェラ様が護衛につきます。変装して目立たないように、近くに控えてもらいますから」
「えぇ~……アシェラがついて来るの?」
「ミリア様は方向音痴でしょう? 街の路地は細くて入り組んでいますから、迷子になりますよ」
「それは……なるかも」
「でしょう?」
渋々うなずいたミリアに、マルセラはほっとしたように目を細めた。
「姫様、ご準備はよろしいですか」
入ってきたアシェラを見た瞬間、ミリアは噴き出した。
「ぶふっ……っ、あ、ごめんなさい……ぷっ!」
慌てて口を押さえるが、笑いは止まらない。
淡い色の亜麻のワンピースに、祝祭で女性が着る黒地に花の刺繍のベスト。 頭には街娘風のスカーフ。編み上げの靴。
一応、服自体は間違っていない。
問題は、それを着ている人物だった。
「どうしてそんなに……立ち姿が近衛なんですか」
「これが普通ですので」
アシェラは真顔で答えるが、余計におかしい。
背筋が伸びすぎている。足が肩幅に開いている。
なぜか“巡回中の兵士”にしか見えない。
黒いベストが立派すぎる肩幅をさらに強調している。
「その、アシェラ様、肩幅が……」
ヴェラが小声で言うと、マルセラも困ったように頷いた。
「街娘というより……護衛が仮装してるように見えるわね」
「仮装……」
ミリアはもう一度アシェラを見て、つい笑ってしまう。
「ごめんなさい、アシェラ。でも……それは目立つと思う」
「……そうですか」
本人は納得いっていない様子だが、全員の表情を見て状況を察したらしい。
ヴェラがぽつりと言った。
「いっそ……男装の方がいいかもしれません」
「え?」
「アシェラ様は普段、軍服ですから。常に男装しているようなものですわ」
マルセラも考え込むように言う。
「確かに、今の格好よりは……馴染むかもしれませんね」
アシェラは少しだけ首を傾げた。
「そうと決まれば、さあ、急ぎましょう」
ヴェラはアシェラの腕を引いて、着替えに連れ出した。
数分後。
今度は、ラフな男物のシャツに、革のベスト、簡素なズボン姿のアシェラが立っていた。 髪も軽くまとめ、装飾は一切なし。腰には簡素な剣を下げている。
一瞬、部屋が静まり返る。
「……」
「……」
「……あの」
ミリアは口を開きかけて、言葉を失った。
さっきより、明らかにおかしい。いや、おかしくはない。
……つまり似合いすぎている。
街の若者というより、旅の剣士か、絵物語の主人公のようだった。
「さっきの服より動きやすいですね」
アシェラは満足そうに腕を回す。
「視界も広いですし、剣も――」
「そこじゃないんです」
ヴェラが頭を抱えた。
全身が映るような鏡はないから、アシェラは自分の立ち姿を見ることはできない。分からなくても仕方はないが。
「そうではないのよ」
マルセラもため息をつく。
ミリアはしばらく黙ってアシェラを見つめてから、苦笑した。
「それもかなり目立つけど……さっきのよりは、マシ、かな」
「そうですか?」
「ええ。離れて歩いてね。でないと、街中の女の子たちに恨まれちゃうわ」
「……」
アシェラは意味がわからないというふうに首を傾げる。
隠すつもりが、結局どちらも目立つ。
ただし方向性だけが違う。
「さあ、それじゃあ行ってらっしゃい二人とも。これを忘れずにね」
ヴェラは小さな籠を二人に持たせた。
中には小さな花がいくつも入っている。花の祝祭はこれがなくては始まらない。
出かけようとした時、窓際の止まり木から「クルルゥ」と不満げな鳴き声が上がった。
「プエラ……ごめんね。今日は連れていけないの」
ミリアは近付いてその朱色の羽を撫でた。手に頬擦りする姿が愛らしい。
「いい子でお留守番していてね。帰ってきたら遊んであげるから」
「クックルゥ〜」
やはり不満げなプエラをもう一度撫でて、ミリアは小銭の入った小袋を肩からかけた。
そしてミリア、ではなくアデラは元気よく言った。
「それでは!行ってきます!」
ミリアが小躍りしながら部屋を出ていったあと、ヴェラがマルセラのそばに寄って、微笑んだ。
「姫様、すっかり浮かれておいででしたね。どうなることやら」
王妃は室内の一角に目をやる。
そこには、まるで影そのもののように佇む黒衣の男が一人。
「サイファ。——おねがいね。あの子に気づかれないように」
「は」
短く、控えめな声が返る。
足音なく部屋を出る黒衣を見送って、ヴェラがつぶやいた。
「あの二人がついているなら安心して見送れますわ」
「ええ……もう間もなく、あの子も“王太女”として嫌でも自覚するでしょう。今日が、最後の“自由”かもしれないから」
マルセラは窓の外を見やりながら、そっと言った。
やわらかな風に乗って祝祭の太鼓の音が届く。
「……どうか、あの子の記憶に、ひとつでも多くの“幸せな春”が残りますように」




