第18話 シューリ・カイ:日常
債権回収報告の書類は、ざっと見積もって四十件ほど。
細かく確認しなければならないが、記録の大半は「回収完了」あるいは「差押中」。とくに目新しさのない、日常の光景だった。
シューリは退屈さにあくびが出そうになる。暖炉の火が暖かいのが悪い。
扉をノックする音に顔を上げると、若い使用人がひょこっと顔を出して気まずそうに言った。
「あの、お客様が……一応貴族のご令嬢とのことでしたので応接室に。ご紹介はないのですが」
「誰?」
「ご本人は……“侯爵様の夜会でお会いしたことがある”と……」
「……ああ」
すぐに察しがついた。よくある話だ。
ため息ひとつ、表に出さぬよう飲み込んで、軽く首を縦に振る。
応接室の扉を開けた瞬間、ほこりと雨気を含んだ服の匂いがわずかに鼻をかすめた。
椅子の端に腰を掛けた少女──かつて男爵令嬢と呼ばれた娘──が、縋るような目でこちらを見た。
髪は梳かれておらず、襟元にはほころび。
かつて真珠色のドレスを纏い、サロンの灯の下で踊った少女の面影は、その頬の輪郭にかすかに残るだけだった。
「おや……これはお久しぶりですね。侯爵様の夜会でお会いして以来でしょうか」
そう声をかけると、少女の顔がぱっと明るくなった。
「覚えていてくださったんですね……! あの夜……私……」
「もちろん。あの夜はよく晴れて、音楽も素晴らしかった」
椅子に腰を下ろす。視線は穏やかに、言葉はあくまで優しく。
「どうかされましたか?」
「……お願いです。もう、相談できるかたがあなたしか……」
震える声で語られる、没落の経緯。
セリム織のドレス。分割払い。借り換え。強制執行。屋敷の売却、土地の差押え。 シューリは頷きながら一語も挟まず聞いた。
すべて、知っている話だった。
「……大変な思いをされたのですね。お気の毒に」
少女が顔を上げる。希望にすがる目。
「どうか、助けてください。あなたなら、きっと……」
その目に目を合わせて──シューリは首を振った。
緩やかに、そして確かに。
「……私にそんな力はありません。債権回収は契約通り、正しく行われたものです」
「でも……! あのとき、そんなことになるなんて……あなたたちは教えてくれなかった」
「何度も借り入れてまでドレスを作りたいとおっしゃったのは、どなたでしたか?」
語調は変えず、微笑もそのまま。
「ご希望がかなうように手配したのは、確かに私どもです。でも、納得の上でサインされたのは──男爵様ですよね?」
「父は……あなた方の罠に、はめられたんです……。甘い言葉で油断させて……!」
「お嬢様」
少しだけ声音を落とす。眉を下げ、困ったように肩をすくめる。
「そんなことをおっしゃっては、男爵様の名誉に関わりますよ? 貴族とは、約束を重んじるお立場でしょう」
「あなたは……あなたはあんなに優しかったのに……。セリムのドレス姿……“綺麗だ”と……あなたが……私、信じて……」
声がかすれ、視線が揺れる。
シューリは、その瞳を静かに見つめたまま言った。
「あなたのドレス姿は、本当に美しかった。月の女神が舞い降りたかのようでしたよ。まるで夢のように──」
それ以上、少女は何も言えずに立ち上がった。
背中を向け、よろけるように扉へ向かう。
その姿を、シューリは椅子から立ち上がらず、ただ目で追った。
扉が閉まる音がして、部屋に静寂が戻る。
「没落したお嬢様にずいぶんお優しいこと」
肩越しに声をかけたのは、ビオラだった。
いつのまにか控えの間から出てきて、腕を組んで立っていた。
「書類がまだあんなに積み上がってるのに」
「まったくだよねぇ、お仕事終わんなくなっちゃう」
軽く笑いながら、軽く髪をかきあげる。
「でもさ、これもお仕事だよ? 下手に騒がれたら、もっと面倒だし」
「そう? いたぶって遊んでるようにしか見えなかったけど?」
「そんな意地悪な男に見える?」
シューリは振り返って微笑んだ。完璧な営業用の笑み。
「僕は、哀れな娘に世の中の仕組みを教えてあげる“優しいお兄さん”だよ」
事務室に戻ると、のろのろと彼は机の前に戻る。
待ち構える山積みの書類に顔をしかめた。
「あー、ほんと、書類仕事なんて全部リースがやってくれたらいいのに。僕、こういうの向いてないんだよね」
「そこだけは同意。私も金勘定は苦手だわ」
ビオラは持っていた書類を自分のデスクに置いた。
一番上にあるのは先ほどの子爵の、三十回払い契約書。すでに債権管理部署へ転送準備済みだった。
書類仕事に飽きたシューリは、窓の外を見る。
歪んだ格子ガラスの向こうには、もうすぐ枯れ葉が落ち切りそうな街路樹が見えた。
気分転換にとシューリは窓を開く。冷たい風に乗って、何かを叫ぶ声が聞こえてきた。
ああ、あれは。
「外、いってくるね〜」
「ちょっと!仕事は?」
ビオラが不機嫌な声で咎める。
「外回りのお仕事、思い出したんだ〜」
シューリは軽いウールの外套を引っ掛けると、軽やかな足取りで声のする方へ向かった。




