第16話 果物と包帯
初夏の日差しが高く昇り、石畳の路地を照り返していた。
アデラは蓋つきの籠を両手で抱え、職人たちの現場へと歩いていた。籠の中には数種類のベリー、丸々とした水瓜、それから今が旬のクパ実。差し入れにしては豪華なその果物達は親戚からいっぱいもらったということにするつもりだ。喜んでもらえるだろうか。前の晩からずっと落ち着かず、何度も籠の中を確かめていた。
三度目の訪問だ。差し入れを届けるだけなのに、なぜこんなに胸が高鳴るのだろう。あの人に会えるかどうかもわからない。足を早めながらも、期待で鼓動が高鳴った。
遠くからでも現場の音はよく聞こえた。
槌の硬い音、石を運ぶかけ声、木枠を打ち付ける響き。前に訪れたときよりも、ずっと大きな音の重なりが空気を震わせている。
辿り着いた現場で、アデラは思わず息を呑んだ。
前は膝の高さほどしかなかった石の積み上げが、もう人の背丈を越えていた。形の揃ったレンガが交互に組まれ、灰色の壁が空へ向かって伸びている。木組みの足場が掛けられ、職人たちがその上でレンガを受け取り、槌で叩き、目地を埋めていく。掛け声に合わせて石が動くたび、壁はほんの少しずつ姿を変え、家の形を現しつつあった。
もうすぐ、家の形が出来上がる。
扉の位置も窓の枠も、すでに石の輪郭から見えてきている。
アデラは立ち尽くし、汗に濡れた背や逞しい腕がレンガや石を積み上げていく様子を、ただ目を奪われて見ていた。
「お、また来た!」
足場の下から声がした。アルトが笑顔で駆け寄り、アデラの籠を覗き込む。
「わあ、果物だ!」
その声に職人たちも顔を上げた。
「お嬢ちゃん、また差し入れか!」
「ありがてえ、喉が渇いてたとこだ!」
人々の顔がぱっと明るくなり、汗まみれの手がベリーの房を受け取り、豪快にかぶりつく。カゴの果物は瞬く間に減り、水瓜を両手で割って笑いながら分け合う姿も見える。
バルト親方も足場から降り、
「気を遣わせて悪いな」
と軽く頭を下げた。アデラは
「たくさんいただいたので、食べきれなくて」
と小さく笑って答える。
職人たちの輪の中に、ダンの姿が見えた。
彼は他の者ほど浮かれていない。分けられたクパの実を頬張りながら一度だけこちらを振り返り、軽く頷いて見せただけだ。それでも、その一瞬で胸が熱くなるのをアデラは自覚していた。
気を逸らそうと籠を抱え直そうとした、そのときだった。
足元の石に気づかず、片足を取られる。
「きゃっ!」
身体が傾き、籠が揺れる。とっさに両手を地面についた瞬間、掌に鋭い痛みが走った。
「おい!」
鋭い声とともに腕が伸び、肩を抱き起こされた。背に熱が触れる。汗と石粉にまみれた逞しい腕。
「手、血が出てる」
低く呟く声に、アデラは手に目をやった。右の掌から赤い筋が滲んでいる。
「これくらい大丈夫……」
言いかけた途端、ぐいと手を引かれた。
「じっとしてろ」
ダンは井戸へと歩を速め、桶に水を汲み上げると、ためらいなくアデラの手をその中に沈めた。冷たい水が傷に触れ、
「ひゃっ」
と声が漏れる。
だが背後から支える腕は揺るがず、しっかりと手首を押さえている。壁塗りを教わった時のことを思い出す。手の痛みよりも、背中の熱に意識がとられる。
「動くな」
短い言葉。けれどその声音には、普段の荒っぽさとは違う強さがあった。
「包帯、持ってきます!」
アルトが駆けていき、ほどなく細い布を一巻き持って戻ってきた。
「はい!」
ダンは受け取ると歯で布を裂き、アデラの手に巻きつける。石を扱う手とは思えぬほど、指先は慎重で丁寧だ。掌を包まれるたびに、アデラの鼓動は早まり、耳の奥がざわめき続ける。
「……手当、上手なのね」
震える声を隠そうと笑みを作って口にすると、ダンは包帯から視線を逸らさず答えた。
「ああ、この仕事にケガは付きもんだからな」
簡潔な言葉。
だが、その結び目を締める指は優しく、どこか不器用な思いやりがにじんでいた。
「ありがとう」
アデラは真っ直ぐに見上げて言った。
ダンの動きが止まる。
目と目が合った瞬間、彼の呼吸がわずかに乱れ、瞳の奥に何かが生まれる。今までとは違う色。汗に濡れた額の下で、彼は一瞬だけ息を呑んだ。
そのとき、後ろから声が飛んだ。
「おーいダン、いつまで女の手握ってんだ!」
「こりゃ惚れ薬でも効いたか!」
職人たちの笑いがわっと広がる。
アデラは顔を赤らめ、ダンは舌打ちをして余った布を巻き取り、籠を拾ってアデラに差し出した。
「今日はもう帰れ」
低い声。
ぶっきらぼうに突き放すようで、けれどどこかぎこちない何かが含まれている。
「……あっ、迷惑かけて、ごめんなさい」
アデラは慌てて頭を下げた。
「いや、そうじゃねえ」
すぐに否定したが、それ以上言葉が出ないように口をつぐむ。
空気を和ませたのはアルトだった。
「アデラ、怪我させちゃってごめんね! ゆっくり休んで。それから、また来てね!」
絶妙なフォローとアピールに、アデラは思わず笑みをこぼす。
「うん、ありがと。じゃあ、またね。ダン、手当ありがとう」
「ああ」
短い言葉。だが、その声にはさっきまでとは違う柔らかさが混じっていた。
アデラは籠を抱えて歩き去る。
路地の向こうに小さな背中が消えるまで、ダンは立ち尽くしていた。握った掌の温もりと柔らかさが指に残り、胸の奥でざわめき続けている。
「おい、ダン!」
仲間の職人に後頭部を小突かれる。
「いつまでボーッとしてんだコラ!」
「……うるせえ!」
怒鳴り返したが、耳まで赤く染まっているのは隠せなかった。
見つからないようにそっと城に戻ると、厩舎の陰でアデラはミリアの服に着替えた。厨房に近い廊下の窓からそっと城内に戻る。
そこへミリアのカルナ——プエラが「クルル!」と嬉しそうに飛んできた。
「しーっ。見つかっちゃうでしょ?」
プエラは理解したのか、黙ってミリアの肩にとまる。
「あら、王女様、こんなところでどうされました?」
「あ、ええ、プエラを探しにきたの。部屋に戻るところよ」
本当は、口笛で呼べばプエラはどこにいてもミリアのところへ飛んでくる。けれどそんなことは知らない下女はそのまま厨房へ向かった。
「ありがとプエラ。助かったわ」
「クルルゥ」
鳩より一回り大きい体をすり寄せて、プエラは嬉しそうに鳴く。
部屋に戻るとミリアは寝室に向かい、ベッドに仰向けに寝転んだ。
右手にはまだダンが巻いてくれた包帯がそのままだ。他の侍女に気づかれる前に外さなければ。
ミリアはなぜか残念に思いながらゆっくりと包帯を外した。丁寧にそれを畳んでじっと見つめる。
「動くな」——あの時の声が、熱い息が耳に残る。背中の熱を思い出し、ダンの笑顔を思い浮かべる。ぶっきらぼうだけど、優しいダン。
ミリアは起き上がって、引き出しの奥にその汚れた包帯を納めた。
胸が苦しくなり、自分でも意味がわからない涙が頬を伝う。
土埃、汗の匂い、力強い腕、そして笑顔のダン。
ミリアの涙は止まらなかった。
そうして、ミリアは恋を知った。




