第15話 ビオラ・ドリュー:記憶
雨が、静かに降っていた。
昼間とは思えないほど空は暗く、風はなく、濡れた空気が岩肌にまとわりつく。
王都から北東へ二里。谷を挟んだ山間の崖沿いの一本道。視界が悪くなる急な曲がり道は、滑落の痕跡が残らぬよう事前に整えてある。
その道の崖上には、細工を施した岩を忍ばせた。一人が木立に隠れてその時を待っている。
馬車は予定どおり、昼過ぎに通過する。
雨は想定外だったが、問題はない。視界が悪ければ偽装の精度はむしろ上がる。
ビオラはシューリと共に崖下の河原に身を潜めていた。
音がした。
馬の蹄が、遠くから駆けてくる。
――来た。
崖の上の方で、石が転がる微かな音。その直後――
激しい破砕音と共に、崩れた岩が道を塞ぎ、悲鳴のような嘶きが響いた。
何かが滑り、転げ、金属がひしゃげる音。軋んだ幌が裂け、車輪が跳ねる。
――落ちてくる。
空を割って、馬ごと馬車が転がり落ちてきた。地面が揺れた。
暴れる脚、潰れる音、割れた木片が飛び散る。
しばらく、何も動かない。
ゆっくりと足を踏み出す。河原は石ばかりで、足跡は残らない。崖の上からもここは見えない。
“確認”のために近づく。
馬車は横転し、幌は裂け、片側の車輪が砕けていた。
潰れた馬車の扉から、放り出された人影は二つ。ビオラは手前のに近づいて見る。
――違う。
もう一人。
白い衣服に血の滲みが広がっていく。うつ伏せに崩れたまま、かろうじて息があるようだが……致命傷だ。あの高さから落ちて助かるはずもない。
放っておけば――
ここで終わりのはずだった。そういう仕事だ。
念の為に足で転がして確認する。
……だが、顔が見えた瞬間。
焼けつくような記憶が脳裏を裂いた。
熱い空気、爛れた視線、肌を這う手、
「よく似ている」と囁いた声。
全身の血が逆流する。
石を拾う。腕に力が入る。
音。鈍い音。血のぬめり。もう一度。もう一度。
――腕を掴まれた。
「――そこまで」
シューリの低く冷静な声が飛んだ。
「事故に見えなくなる」
ビオラは動きを止めた。
血のついた手の感触が、ようやく現実に戻してくれる。
しばらくその場に立ち尽くした。
そして顔を上げると、血に濡れた石を川に沈めた。
目の前の肉の塊から、もはや人間の気配はない。
任務は、完了した。
「……ええ、終わり、ね」
誰にともなくそう言って、ビオラはゆっくりと背を向ける。
雨脚が強まり、あらゆる痕跡を少しずつ洗い流していく。
人が来る前に――二人は雨に霞む森の中へ姿を消した。
激しくなるかと思った雨は、いつのまにか止んでいた。
石畳に残る光の揺めきが、サロンの薄いカーテン越しに揺れている。
まだ胸の奥に、鈍い痛みの残響がある。
あれからまだ数ヶ月。あの日、崖下に打ち捨てられた男。濡れた石の手応え。
記憶の向こうへ追いやろうとしても、時折こうして戻ってくる。
「マダム、次のお客様のご用意が整いました」
控えめな声が耳に届く。ビオラは、深く一つ呼吸をした。
わずかな間を置いて振り返れば、いつものマダム・ビオラが戻ってくる。
「次は――伯爵家のご令嬢、だったわね?」
「はい。三着目のご希望です。先日の続きで、色違いをお悩み中です」
「ええ、覚えているわ。今日は是非決めて帰っていただきましょう」
ビオラは軽やかに歩き出す。
昼下がりの陽光が差しはじめたサロンの中へ、磨き上げられた足音を残して。
そして――雨上がりのしずくにキラキラと光る豪奢な建物を、通りの片隅から恨めしげに見上げる娘には、誰も気づくことはなかった。
(あそこに、いたのに)
雨に濡れた娘は、少し先にある建物をに向かって歩き出した。




