波子のノブレスオブリージュ
「あんまりいいもんじゃないよ、オトナなんてさ」
波子はそう言って、市販の胃薬をぬるいビールで流し込んだ。
暗闇のなか、シーツから手を伸ばして胃薬を正確にたぐり寄せる手つき。波子にとっては胃薬服用は慣れ親しんだ動作なのだろう。
築年数が還暦近いくせに、いやにお高くとまった中古マンション。
あさぼらけの空。絡まった長い黒髪。
白い肌、そばかす、滲んだマスカラ、薄い褐色の乳首。
波子の醒めた表情をベッドの外から眺めながら、私はペットボトルのポカリを飲み干した。半日前に開封したから、ちょっと雑菌沸いてる味がしてオエッとなった。
私は十八歳で、波子は三十一歳。
私は高三の女子生徒で、今は三月で、もうすぐ卒業で、選挙権と運転免許だけがあって、お酒と煙草は呑めない。
波子は無職で、っていうか昨日まではソーゴーショクのショーシャマンで、このファミリー物件は彼女の部屋で、チューハイの空き缶が転がってて、灰皿はやたらデカくて重そうな硝子製だ。
子どもと、大人。
未成年と、成年。
引き算。年の差、十三歳。
私は波子のことを正直、ちょっとエロい目で見てて、波子は──波子は?
オエッとなった。
自分の外側に「目」が沢山ある。そいつらが、私と波子を並べては「不適切」「正しくない」と判定する。
キモい。オエッ。緑の吐瀉物ゲロってる黄色いハゲの絵文字。
ふざけんな、と思う。でも、その「目」は、私がわざわざ自分の外に作り出したものなんだ。
自分の目だけで世界を見たいよ、ほんと。
ポカリのペットボトルの底に残った二センチくらいの残液を呑む気になれなくて、波子の部屋の片隅にそびえるゴミ山の中に放棄した。
季節外れの小バエが、ぷぅんとうざったい羽音をたてた。うざい。
「ズルいよ、あんた」
カラン、と音を立てたポカリのペットボトルを睨んで、私は言った。
セーラー服のまま爆睡したから、プリーツがヨレてるみたいだ。
「ほんと、ズルい」
もう一度、私は言った。だって、波子は返事をしなかったから。聞こえてなかったんか、こいつ。
ちょっとだけ芝居がかって発した私の「ズルい」に、やっと返事がきた。
「何が?」
波子は首を傾げた。
垂れ目に、三つ星の泣き黒子。顔がよすぎる、ほんとにズルい。
「何って、さっきの。『オトナなんて、あんまりいいもんじゃない』とか言ってさ。こっちが『子どもって不自由だ』って話してんのに。それ、トッケンカイキューの詭弁じゃん」
「特権階級。それ、大人がってこと?」
「そう」
私が頷くと、波子は口元をむにゅっと歪める。これ、笑ってるつもり。
「大人はズルいって思ってられるのは、子どもの特権だね」
「そういうのがムカつくって!」
全裸のくせによ、と言うと、波子は「きゃー、えっち!」とか楽しそうに騒ぎながら、シーツの中に潜ってしまった。
チューハイの缶とコンビニ袋が散らばる汚部屋の中に、セーラー服の私が取り残される。
何が「きゃー、えっち!」だよと思うけれど、実際に私は波子のことをエロい目で見てたので異議は唱えないでおく。
「つーかさ、コンビニ袋って有料じゃん。全部集めたら千円くらいになりそう」
シーツの中から、波子が顔を出した。子犬みたいな上目遣いで。
「きみ、若いのにみみっちい計算するね」
「年齢関係なくない?」
「将来、大成しませんよ。そんな細かいと」
「うちらの世代は、破天荒とか流行らないの」
「ははは、破天荒て。古風じゃん」
「うっさい。使いなよ、エコバッグ」
「やだよ」
波子は言って、シーツを蹴っ飛ばした。白い裸体が、窓から差し込む明かりに照らされる。
午前四時。
夜明け前の青い光だ。
「汚いじゃん、使い回しの布袋なんて」
波子の声は煙草のせいで少し掠れていて、甘ったるい。
……一理あるかも、と思ってしまった。
きっと、たぶん、エコバッグを持参して買い物する消費者のほうが「正しい」はずなのに。
そういうのが全部、ぜんぶ、みんな息苦しくてさ。
だから、正しくないこと、全部してやろうと思ってさ。
六時間かけて、セーラー服のままでこの部屋に流れ着いたのに。
私は大きく息を吸って、のらりくらりの波子を急かした。
「あの、そろそろしませんか?」
くらえ、急な敬語攻撃。
「何を」
「……本番を」
ほんばん、って言葉に波子はちょっと驚いた顔をした。
何を、白々しい。素っ裸のくせに。いや、それは関係ないけれど。
私たちはそのために会ったんじゃないか。
「しましょうよ、自殺の本番」
そうだ。
私は死ぬために、波子と会った。
◆
二十二時が待ち合わせだった。
トー横でもなければ大久保公園でもない、半端な繁華街に私は立っていた。
背負ったノースフェイスっぽい四角いリュックの奥底に制服をぎゅうぎゅう押し込んで、私はお相手を待っていた。
私の服装も、容姿も、伝えてある。
中学生の時に『しまむら』で買ってから現役をはり続けているわざとらしい空色のダッフルコートは子どもっぽくて、コートの表面にぼこぼこ居座ってる毛玉くらいによく目立つはずだ。
ちょっと私には青みが強すぎるピンクのリップティントまみれの唇がぺたぺたする。
私はとにかく、周囲の女の子達の真似をしようと思っていた。
注意深く周囲の子たちを観察して、気づいたこと。十八歳って年齢は、繁華街で誰かを待ってる女の子たちの中では、全然若くない。ゾンビみたいな顔色をメイクで上書きしてて、ちゃんとした年齢はわかんなかったけれど。
冬の街の乾燥した空気に喉がやられて、昼に買ったポカリを飲もうとしたときだった。
「あ、どーもー」
気の抜けた声がして顔をあげると、黒髪の女が私に会釈していた。
明らかに年上の女で、やたらと白い肌をしていた。泣き出しそうな垂れ目に、三つ星の泣き黒子。整った身なり。なんでこんな人が、私なんかと心中してくれるんだろう……と不思議に思うような、ありていに言えば美人だった。
「あなたが、波子さんですか?」
「あ、はい? え、そう。なみこです、波子。よろしくです!」
挙動不審だったが、これから死のうという人の挙動が安定していることもないだろうと思った。死を前に静謐なお気持ちになる人なんて、そうそういない。私だって、ずっとソワソワしてたし。
それから波子は私を連れて、なぜか焼肉屋に入った。
おごるよ、と波子は言った。
なるほど最後の晩餐ってやつかと思って、好き勝手に食べた。
波子はちょっと引き気味に、
「……焼肉屋でサンチュとアイス最中を連発するんだ」
と目を見開いていた。
肉より葉っぱのが好きなんだから、仕方ない。
私はもっぱら、甘味と葉っぱを喫食した。
波子はハラミばっかり焼いてレモンサワーをがぶ飲みしながら、現在彼女が無職であること、ちょっと前までは私でも名前を知っているような企業のソーゴーショクだったこと、好きな食パンはダブルソフトであること、など心底どうでもいい情報をぺらぺらと喋り続けた。こっちにも話を向けてくるから参ってしまったけれど、私のつまらない話を波子は否定も肯定もせず、楽しそうに聞いていた。
悪くないと思ってしまった。
要するに。
アプリとネットで心中相手を探して、やってきたのがこの女だった。
死にたいと思ったけど、一人で実行はできなかった。それで、手近な同士を探した。シンプルな構図だ。
スマホさえあれば、できないことはない時代。反吐が出る。
私は何もできないまま、こうして高三の三月を迎えてしまったのに。
学校に行かなくなったきっかけは、たぶん些細なものだった。
誰かが私のモノマネをした、ような気がするとか。
急に太っちゃったタイミングで、人前で弁当食べるのが恥ずかしくなったとか。
覚えてすらいない。なんとなく、の積み重ねと繰り返しの果ての今だ。
ドラマティックなきっかけすらないのが惨めで仕方がないと思いながらも、私は学校からドロップアウトした。
学校を中退して働くという選択もせず、ただ時間が流れるがままに過ごして、勝手に自尊心をすり減らした。
もちろん、思い通りにならない心と体は辛かった。
けれど、それ以上に辛いのは、周囲が優しかったこと。
高級なスマホを持たせてもらって、何不自由なくて、理解のある親に甘やかされて、各種SNSの病み垢で色んな人にちやほやしてもらって、応援してもらって──だからもう、死にたかったのだ。
甘ったれてるとか、ワガママだとか、どうでもいい。
ただ、もう嫌だった。怖かった。
いつまでも子ども扱いしてもらうのが、しんどかった。
こんな状態でオトナになることも、耐えられなかった。
波子の仕事も素性も経歴も、麗しい見た目も、何が本当だろうと嘘だろうとどうでもいいと思っていた。
だって、これから私たちは死ぬんだから。
焼肉屋を出て、タクシーに乗った。
お金は波子が当然のようにすべて払ってくれた。
「現場はここだ」と言われて連れ込まれたこの汚部屋で波子を押し倒したのは、どうせ死ぬならセックスくらいしてみたかったからだった。
生まれてこの方、欲求不満だったし。
男とセックスする簡単な手口はいくらでもあるのに、女の人とそういうことをするのはやや面倒な障壁が多いのだ。
これから死ぬ者同士なら、強姦だのなんだのも不成立だろという雑な考えもあった。……いつまで経っても、練炭も睡眠薬も出てこなかったし。
波子は全然、抵抗しなかった──わけではなかった。
私が不器用さ丸出しで波子を押し倒して服を脱がせて、ムードも何もないままに波子を素っ裸にするところまでは私の好きにさせていた。
そのくせ、波子のなめらかな裸体の前に私が「で、このあとどうする?」とフリーズした瞬間に、ズルいオトナの顔をして。『やめといたら? 未成年との淫行は勘弁だし』とか抜かしたんだ。
十八歳は、成人なんだって。
そう抗議するかわりに、波子がコンビニで買い込んでいたチューハイをひっつかんでプルタブを起こした。「うわ馬鹿、それストゼロ」っていう波子の言葉を無視して理科室みたいな臭いのする炭酸を一気飲みして──ゲロ吐いた。オエッと。
着ていた私服は台無しになって、リュックの奥底に詰め込んでいたセーラー服に着替える羽目になったというわけだ。安っぽい。ほんと、あまりにも安っぽい一幕だ。
数時間前のことなのに、もう黒歴史じみている。
でも、そんなことは知ったこっちゃない。
だってもう、私たちは死ぬんだから。
◆
「あー。そのことなんだけどさぁ」
波子が、もにょもにょと何かを口ごもる。聞こえねぇよ、タコ。
「ごめんだけど、たぶん私、あんたが待ち合わせしてた人じゃないんだわ」
「……は?」
何を言っているんだ、こいつは。
頭が沸騰して、数秒後に心がスンとして、私は思い至った。
「適当に声かけてきたってこと?」
思えば波子は、「どーもー」とかいう腑抜けた挨拶だけをしていて、私の身元を確認することはしなかった。
「じゃあ、あなたは波子さんじゃないの?」
「……な、波子でーす」
「棒読みかよ! 下手くそかよ! ってか、そういう話じゃなくてさ!」
自殺サイトの、波子さん。
それが私が待ち合わせした相手だった。
つまり、本物の波子さんは待ち合わせ場所に私が現れずに、帰ってしまったということか。
親からの連絡が入ってこないようにスマホの電源を切ったのがよくなかった。
今頃、本物の波子からメッセージが入っているだろう。
怖じ気づいたのか、とか。嘘つき、とか。
あるいは、幻滅しました、とか。
というか。
こっちから「波子さんですか?」とか尋ねなければよかった。
この女、口裏を合わせて私を騙したんだ。
「ふ、ふざけんなよ!」
「真面目だよ! 真面目に、男に買われそうになっているうら若き乙女を、逆に私が買って助けてやろうとか思ったんだって!」
「結局、買うんかい!」
意味不明の焼肉屋直行コースも、納得がいった。
同伴的な、そういうやつのつもりだったらしい。
「ってか、自分の部屋のこと『現場』って呼ぶなよ!」
「だって、なんて言えばいいか、わかんないじゃん! ラブホみたいに用途が明確じゃないしさ」
「……じゃあ何か、今からマジでするか? ラブホでするようなこと」
「まあまあ! それも波子さんの誤解だったわけだしぃ?」
「いつから一人称が波子さんになったんだよ! 白々しすぎるだろ!」
本当に意味が分からなかった。
さしたる理由もなく街で目に付いた女を助けようと思ったなんて、控えめに言って狂ってる。
私の怒りをよそに、波子はらんらんと目を輝かせた。
「……つーかさ、なぁに。自殺って」
「好奇心丸出しかよ、ちょっとは隠せよ」
「えっ、乳首もジャングルも丸出しなのに、どこ隠せっていうのー?」
波子がおどけて、サンバっぽい動きをする。やわくて形のいい乳が揺れてる。……一発、殴ってやろうかと思った。
思いとどまって、チョップにしておいた。
波子は「きゃー」とか楽しそうな声をあげる。ムカつくな。
人が自己憐憫ビンビンで死のうと思って今日という日を迎えたのに。
なんだよな──死ぬ気が失せてしまったじゃないか。
「まあ、なんていうかさ。これもご縁だよねぇ」
言いながら波子は私の手を取って、セーラー服の袖をたくしあげる。
私の前腕の内側、柔らかくて滑らかな手首に、波子がつーぅっと指を這わせる。嫌に鋭利に整えられた爪が、皮膚を掻く。
夜明け前の青い部屋で、波子の指先が蛇行する。
手首の静脈を、なぞっている。
「きれーで、つやすべ」
その声色に、ぞくっとした。
もしかして本当に、ラブホでするみたいなことをするつもりなのか。
「……若いからね」
「それだけじゃないよ」
波子は私の手を裏返す。
みっともなく「ちょーだい」みたいな手の形になったところに、波子は自身の手首の内側を、すり……っと擦り付けてきた。
つるつるしているのに、凹凸がある。
変な感触がした。
なんだっけ、これ。ケロイドみたいな。
リストカットの痕なんだって、馬鹿な私にも分かった。
……なんだよ、あんたもそういう人なんじゃん。
心臓が跳ねる。どきどき、した。
波子がすりすりと腕を動かしながら、私の耳元で囁いた。
「あのさ、ロイヤルブルーって知ってる?」
「知らない。エメラルドグリーンの仲間? 小学生って好きだよね、エメラルドグリーン」
自分の心臓の音が五月蠅くて、無駄に饒舌になってしまう。
「え、そうなの」
「あ、あ、ジェネレーションギャップっすかね」
「ッスゥー……ってなんないでもらっていいっすか?」
ロイヤルブルー。
色の名前ではないようだった。
てっきり、英国王室御用達の禁色的なやつかと思ったけれども。
「まあ、色の名前でもあるんだけどさ……血管って青いでしょ」
「静脈だっけ、青く見えるの」
「そう。労働とは無縁の白くて日焼けのない肌であればあるほど、透けて見える静脈って青く見えるんだってさ。だから、高貴なご身分の人の血は真っ青なんだって。それが、ロイヤルブルー」
「へえ」
それはあれじゃないか。『お前の血は何色だ』みたいなことじゃないのか。
高貴な人たちは、まともな血が通っていないみたいな。
「なんか、こう、身分の高い人って静脈瘤とかやりがちなの?」
「さあね」
話を広げる気がないのかよ。
ヤル気のない豆知識披露の間も、波子と私の手首の皮膚が摺り合わせられている。どんどん、皮膚が同じ温度になる。ちょっとだけ、居心地が悪い。
──やめてって、言えばいい。
だけど、それが言えないままに、私は波子に掴まれていないほうの手でもぞもぞとスカートのプリーツを弄ることしかできなかった。
「……そう思うとさ。じっとこうやって血管見てるとさ、自分の血が青い気がしてくるよね」
「え、もしかしてご実家が王族?」
「いや、ふつーに公営団地。でもさ、ほら」
あ、と。
馬鹿みたいに間抜けな声が出た。
波子は「ほら」と言いながら、どこから取り出したのかわからない──いや、きっといつも彼女の手の届くところに置かれているのであろうカッターナイフで、傷跡だらけの左腕を、薄く薄く切りつけていた。
流れるような動作の、リスカだった。
波子は「ほら」とまた言って、私に腕を差し出した。
窓から差し込む夜明け直前の明かりだけでもわかるほどに青い血管から、不思議なくらいに赤い血が吹き出る。
白い肌の上でこんもりと盛り上がって、やがて表面張力が決壊して流れる。スローモーションみたいに。
……波子の素性は知らないけれど、こいつの血が青くなんてないことだけはよく分かった。
よく、わかんないんだけどさ。
波子の青い血管から流れる、ふつーに赤い血を見たら、びっくりするくらいに悲しかったし、びっくりしたし、怖かった。
だから、なんていうか。
──「ああ、この人は、死のうとしてた目の前の小娘のために、手首に一本キメたんんだ」ってさ、根拠ないんだけどそう思っちゃったんだ。
他のリスカ跡のことは知らんけど、少なくとも最新のはそうなんだって。
全然、根拠なんてないんだけど。そう思った。
「や──」
やめなよ、とは言えなかった。
だって、私は今夜、死のうとしてたはずなんだ。
さっきまでインスタント心中相手だと思い込んでいた相手のリスカひとつくらい、別にどうってことないはずだった。
でも、それでも。
波子のことを抱きしめて、首筋にしみついた紙巻き煙草の臭いを吸ったり吐いたり、しないではいられなかった。そんな私のぐちゃぐちゃの行動を波子はしばらく黙って受け入れてくれて。
その間にも、私の背中に両手を回したまま、さっさと手首を止血してた。
器用かよ。
◆
「そろそろ帰る?」
紙巻き煙草をふにゃふにゃの箱から一本取りだして、やっぱり戻して、それを三回くらい繰り返して、波子は言った。
やだな、と私は思う。
帰るのも嫌だし、ここに居座るのも嫌だった。
波子と私はマジで面識がなくて、波子は三十代で私は女子高生。
明らかに、これ以上この部屋に滞在するのは正しくないって、私の中の「目」がジャッジする。
意味わかんない状況で、意味わかんないくらいに胸の中がぐじゃぐじゃしてるのに、私の中の「目」だけが冷静だ。
正しいとか、正しくないとか。そういうこと、すぐ考えてしまう。
「……嫌だ」
帰るのも、正しさばっかり考える自分も嫌だ。
今は三月で、私はまだ女子高生で。大人にもなれていなくて、下の毛だけが立派に生え揃ったケツの青いがきんちょで。
もうじきすっかり日が昇るし。もうすぐ、春が来るし。
「だめだよ、ちゃんと帰って朝帰りを怒られなって」
波子が、そうやって大人ぶる。実際、この人は大人なんだ。
行動原理も言動もめちゃくちゃだけど、大人なんだ。
……まっとうな血の通った、大人なんだ。
私は波子に、手を伸ばす。
夜が終わってしまうその前に、もう一度、こいつを抱きしめたかった。
──瞬間。
青い時間が、終わった。
朝が来た。
窓の外、急激に空が変わる。白く、橙色に、赤に。
世界が青い夜明け前から、朝の色に変わっていく。
「おお、朝だよ」
「……あんた、その顔」
いけすかない中古のデザイナーズマンションに差し込む朝の光が、メイクが剥がれた波子の顔を照らす。
目の回りに、グロテスクな痣があった。
巧妙に塗られたコンシーラーと夜の闇と、私の他人への無関心が隠してくれていた左目の周りの痣が、波子の顔面にありありと浮かんでいた。
青黒く変色した左目を、波子は黒髪で隠すようにしていた。
でも、朝の光はもう、それを隠してくれない。
きれいだ、と思った。
馬鹿みたいに波子の顔に見とれてしまっている私に、波子は「たっは」と照れ笑いをしてみせる。
「あ。これ、夫にやられたん」
「既婚者かよ!」
笑いごとじゃないんだわ。
「やっとあいつと切れたの、三日前」
波子は心底安堵したように、ふにゃりと笑った。
「それでさ、気分良くてさ。街歩いてて、あんたを見つけた」
なんか、運命っぽくない?
波子が笑った。
ナイーブな運命論より、心配事はあるだろうに。
「……その元夫さん、急にこの家に帰ってきたりしない?」
「ん。接触禁止命令つーの出てる、だいじょぶ」
ぴーす、と波子は二本の指を突き立てる。
その手首に、横線がいっぱい引かれていた。
びっちりリスカ痕。
それから、生傷一本。
「……それのせいでさ、あんたが『波子さん』だって疑わなかった」
ほんとは、ただの通りすがりで。
私と一緒に死のうだなんて、これっぽちも思ってない人だった。
だけど、今、私は彼女と一緒にここにいる。
「そう? じゃあ、私のこれに感謝しないとなー」
誇らしげに波子は笑う。
三つ星黒子の真上に浮いた目尻の皺を見ていると、なんだか急に苦しくなって。私は思わず、呟いた。
「子どもで、ごめんなさい」
「あ?」
「だから。ガキでごめんっつってんの。死ぬとか生きるとか振りかざしてさ」
「うん。でも、謝る必要なくない?」
「だって! 青臭いガキの青春ごっこっていうか、死にたがりの先走り、みたいな? そういうのに、あんたのこと巻き込んで……いや、そうじゃなくて、声かけて貰わなきゃ死んでたのに、その……どうせさ、あんたから見たら馬鹿なことしてたんでしょ、私」
「馬鹿なんて思わないよ死ぬほどツラいって思ってたんだよね? じゃあ、しょーがないじゃん」
しょーがないじゃん。
絶対に死んだらダメだと、まっすぐに言った直後に、そういうこと言う。
やっぱりオトナって嘘つきだ。
あるいは……全部、波子にとっての本当なのかもしれない。
本格的に、毒気を抜かれてしまった。
私はヨレヨレのプリーツスカートを引っ張りながら、考える。
考えながら、波子に尋ねる。
「……なんか、わかんないな。どうして助かっちゃったんだろ……ってか、あんたは、なんで私のこと放っておかなかっ──」
「おっと、そこまで」
鋭く、波子が言って。
ぐいっと、襟元のリボンを引っ張られた。
「えむっ」
唇に柔らかいものが当たった。これ、キスじゃんって。
無理矢理なんて、ひどいじゃんって。
文句を言おうと藻掻いていたら、ふにっとしてぬるっとした感触のあとに、変な味の炭酸が口の中に流し込まれてきた。
「オエッ!」
「あーあ、朝っぱらからビール飲んじゃった。不良娘だね~」
波子が楽しげに言った。なんだこいつ。
「なになに、なんなの! いきなり!」
「余計なこと考えようとしてたから。『どうして』とか『なんで』とか……そういうのはさ、考えないでいいんだよ。理由がなくたって、いいじゃんか」
「理由も理屈もない行動は、不気味だよ」
「そんなわけない。人生ってのは物語じゃないんだから……理由なく食べて、理由なくデカくなって、理由なく生きててもいいんだって」
波子はまっすぐに、あんまりにもまっすぐに前向きな言葉を吐いた。
その右手からは、まだちょっと血が流れてて、正直テンションのギャップが怖い。
でも、たぶん。
今にも売春行為に及びそうに見えた私を理由なく助けることも、理由なく焼肉屋で豪遊することも──今夜、『波子』という名前の女になることも、彼女にとって必要なことだったんだ。
私が上手に言葉にできずに黙っていると、波子は小さく笑って、頭を下げた。
「でも……嘘ついたのは、ごめん」
「ホントだよ。大人は嘘つきだし、キモいし、最悪」
薄っぺらい言葉だけは、スラスラ出てきた。
波子はケラケラ笑う。
「元夫によく言われてた」
「……ごめんじゃん」
「全然。大人には、もっとヤバい嘘つきが沢山いるよ。せいぜい生き延びな、若者」
波子はそう言って、ぬるい缶ビールをまた煽った。
あんなクソ不味いもんを、よく平気な顔で飲むなと思った。
……オエッ。
変な顔をしてたからかもしれない。
波子は私の頭をちょっと撫でて、ゲラゲラ笑った。
「それにしても、まさか自殺とはねー。私、ようあんたに声かけたわ。死ぬなんて売春よりたち悪いじゃんね!」
「え、それは一概には言えなくね? 比べるようなもんじゃあないでしょ」
ハグをやめて、ドン引きの表情で率直な感想を述べる。
若者的には、ちょっと偏見が過ぎる意見だった。
「個人の感想でーす。っていうか、まあ、そういうわけでさ……絶対、死んだらダメだよって話よ」
グロくて青黒い痣で、出来損ないのパンダみたいになってる波子は笑う。
旦那にボコボコにされて、無職で、たぶんアルコールに溺れてて、呆れるほどにお人好しでお節介な『波子さん』は、まっすぐに私の目を見て、言った。
「……絶対、死んだらダメだって」
そんなん、何も言い返せないじゃんね。
◆
波子は小汚い灰色のスウェットを着て、ほこり臭いエントランスホールまで私を送り出してくれた。
「じゃーねー。馬鹿考えるなよ、若者」
「……なんでそんな親切なの、意味わかんない」
「なんで、とか意味ないんだってば。あえて言うなら、あれよ。ほら……高貴なる者の負うべき責務ってやつ」
ノブレス・オブリージュ。
波子はカタカナで、そう言った。
「高貴って。王族かよ」
「ああ、ここのマンションの名前なんちゃらパレスだしね」
宮殿って。そりゃまた大きく出たもんだ。
波子は私を、パレスの外に蹴り出しながら、胸をはる。
「……ってのは冗談として。オトナってのは、そんなにいいものじゃないけどさ。子どもの前では高貴なフリするもんなんだよ」
なにそれ、ズルいよ──なんて言い返すことはしなかった。
私だって、それくらいにはオトナぶりたかったから。
やたらとフレッシュな色彩に溢れる朝を歩き出す。
私は何度か、この不思議な夜の名残を振り返った。
青黒い痣がくっきり左目を縁取ったままの顔で、リスカ痕でボコボコの手首をさらして、波子はいつまでも手を振っていた。
「……帰ろ」
結局のところ、私はただのガキだった。
ちゃちな空色のダッフルコートが似合う、クソガキだった。
ケツの青いガキの、馬鹿げた青春ごっこだった。
もうすぐ女子高生とかいう身分を失う自分を哀れんで、思い詰めて、自分が世界の底の底にいる、吐き気を催すような最底辺だと思い込んでいたわけだ。
スマホの電源を入れる。
朝六時。
オトナたちが仕事に向かったり、家路についたりしている。
学生服を着た、私よりも年下の少年少女が通学路を歩いている。
朝っぱらから、世間も世界も通常運転だ。
すっかり日が昇って、朝がきて。
眩暈を覚えるような淡くて眩しい青が、空に広がっていた。
「帰って、ママに怒られてやろっか」
私が昨晩迎えるはずだった『本番』は、もう少しだけ先延ばしにしようと思った。
波子とはきっと、もう会うことはない。
きっと、波子は昨夜のことを誰にも言わないだろうから。
「……なんだよ、嘘つき」
メッセージアプリに親から凄まじい数の着歴があった。
自殺サイトで出会った本物の波子さんからの連絡はひとつもなかったし、なんならツイッターで病み散らかしてて、なんというか通常運転だった。
今日を人生最後の日とするはずだった私も、この人も、取り急ぎ命日を後ろ倒しにすることに成功したみたいだった。
私はもう一度、スマホの電源を落とした。
死ぬほど怒られるだろうけれど、成人なのにまだ青臭いガキの私は家に帰らなくちゃいけない。
「いいよな、オトナは」
そんなにいいもんじゃない、と嘯く波子を思い出しながら呟く。
実際、オトナがいいものだなんて思っていたわけじゃない。
ただ、私は子どもでいることが息苦しくて、オトナになることも怖かっただけだ。
──本当は、うらやんでなんていなかった。
──本当は、死にたくなんてなかった。
ああ、なんだよ。笑ってしまう。
ズルい嘘つきは、私も同じじゃないか。
朝の白い光の中で、目を閉じる。
思い出す。
ロイヤルブルーの血管から流れ出る、真っ赤な血。
汚部屋に飛んでいた、季節外れの小バエの青い羽音。
たった一晩だけ、『波子』という名だった人。
「ズルいよ、やっぱ」
多分もう会うことはないし、会うべきじゃない。
それなのに、無性にあのインチキパレスに駆け戻りたくてたまらなくなった。このどうしようもない青い気持ちをどうしてくれるんだよ。
もうすぐ、春が来る。
朝の光は都合の悪いことを隠してくれない。
【終】
「青」をテーマにした作品です。
感想などいただけると、とても嬉しいです。