6-15 祈り
「原形が何も残ってないんだけど……。っていうかこんな物騒な狼連れ歩きたくないんですが」
モニカが距離を取ると、ダーロスは三歩ほど下がった位置までついてきた。
『人間に好かれるような擬態ごとき造作もありません』
水を払うように全身を震わせると、見る見るうちにダーロスの身体が縮む。
「えっ、普通に可愛い」
狼のときと比べてダーロスの身体のサイズは半分もない。犬としても小柄な部類に入り、モニカでも簡単に抱きあげられるほど軽かった。
毛色も鮮烈な赤から落ち着きのある赤褐色に変化している。目の周りや頬の部分が白くなっており、狼のときとはだいぶ印象が違う。
輪郭や瞳は丸っこく、どこからどう見ても仔犬としか思えない。
「えー、なにこれほんと可愛いー!」
語彙力は失ったモニカはひたすらに「可愛い」を連呼し、子犬姿のダーロスを抱きしめ、頬ずりをする。
「ダーロスって名前はちょっといかついから呼び方変えよ? だーちゃん? ダロちゃん? ロースちゃん?」
『姐さんに意見するつもりはありませんが、食肉部位みたいな名前だけはちょっと……』
「お戯れのところ失礼いたします」
やや不機嫌なサイフォスがダーロスの首根っこをつかんでモニカから取りあげた。
ダーロスはじたばたと短い手足を動かしてもがく。その姿すらあざとく可愛らしい。
「教育はすんでいますが、念のためこれを付けておいてください。裏切らない保障はありませんし」
と言ってサイフォスが渡したのはシンプルなデザインの首輪だった。
(このままだと野犬と間違われたり、あまりの可愛らしさに連れ去られてしまうかもしれない)
と、完全に飼い主目線の思考になったモニカは、受け取った首輪をダーロスにつけた。本人にとってはいささか窮屈かもしれないが、首輪があったほうがメリハリがあってよりいっそう可愛らしさを引き立てる。
「大丈夫? 苦しくない? もうちょっと緩くする?」
モニカは自然と子供に話しかけるような口調になっていた。
「……そろそろコイツに呪いのこと聞きたいんだけどいい?」
マハは首をさすり、イライラと尻尾を揺らしている。
『オレと姐さんの時間を邪魔すんじゃねーよばーか!』
ダーロスは短い舌を突き出して悪態をついた。
マハの額にくっきりと青筋が浮かぶ。
「そう言わずに教えてもらえませんか?」
モニカは悲しげな表情を作ってお願いする。
『はい喜んで!』
ダーロスは元気よく前肢を上げて即答した。
『呪いについては本当に心当たりがありません。人狼になったのはオレの血が混じったからだとは思いますが』
「じゃあこの耳と尻尾はなくせるのか?」
マハは頭頂部に生えている狼耳を指先で弾いた。
『ま、無理だろな。何か特殊な方法でもなければ一度混じり合ったもんを取り出すのは難しい』
ダーロスはマハに対してだけ尊大な口調になる。過去に一度マハによって倒されたことが原因だろう。
「役に立たないチビスケだな」
マハはガラ悪くダーロスをにらみつけた。迎え撃つようにダーロスも牙を剥き出しにしてうなる。まるで小型犬と大型犬の争いだ。
モニカからしてみれば微笑ましい光景だが、二人の心中は複雑だろう。東国を荒らしていた魔狼に対してマハが悪感情を持つのは理解できる。
「お犬様方、モニカさんを困らせないでください」
やれやれと肩をすくめたサイフォスが臨戦態勢の犬たちの間に割って入った。ダーロスの首根っこをつかんでモニカから奪う。
「こちらのお犬様を少々お借りしますよ。重要な証人ですので。主犯は、このように物言えぬ身体になってしまいましたし」
サイフォスは手のひらに収まるほどの透明な小瓶をモニカに見せた。
「きゃあっ……蜘蛛?」
小瓶の中では小さな蜘蛛がぴょんぴょん飛び跳ねていた。外に出たいのか、何度も小瓶の蓋に頭を打ちつけている。
「灰の中で生き延びていました。葬ったつもりだったのですが、僕もまだまだですね。ですが結果として、どこぞの第三王子のように思念体に憑りつかれるよりはマシですね」
サイフォスの言葉を受け、マハは不服そうに鼻の付け根にしわを寄せた。
「思念体に、憑りつかれるよりは……」
モニカは目を伏せ、呟くように反芻する。
そもそもの発端は、マグノリアが旧神の眷属アトラを呼び出し、身体を明け渡したことが原因だ。
「……マグノリアは、いつから彼女ではなくなっていたのでしょうか」
モニカはアトラが焼かれた場所へと足を向けた。そこには何かが焼けた灰と、溶けて冷え固まった装飾品だったものがあった。
「さて、僕は社交の場とは縁遠いものでマグノリア嬢とはほぼ言葉を交わしたことがありません。モニカさんのほうが接する機会は多かったのでは?」
本人に当てこする意図があったかはわからないが、モニカの胸に針として刺さる。
聖女になってからというもの、マグノリアとの関係は最悪だった。
マグノリアがモニカのことを「下賤な孤児上がり」と敵視していただけでなく、モニカ自身も「なんの力もないのに親の金で地位を買った」とマグノリアのことを見下していた。
マグノリアが何に悩んでいたのか。何をきっかけに異端に縋ることになったのか。
いつからアトラに取りつかれていたのか。いつからマグノリアではなかったのか。
聖女という立場にありながらモニカは気付けなかった。手遅れになるまで気付けなかった。
(ほんの少しでもマグノリアと向き合っていたら、避けられた事態だったのかしら)
モニカはその場で両膝をつき、祈りの形に指を組む。
(治療術の力があっただけね、私。聖女にふさわしくなんてなかった)
耳が痛くなるほど静かだった。皆が気を遣い、黙って見守ってくれているのがわかる。
(マグノリアが化けて出てきて罵倒のひとつでもしてくれれば気が楽になるのだけれど)
当然、モニカの望みが叶うことはなかった。
聖女として、死出の旅に出た者へかける言葉はいくつも知っている。しかし、そのどれもが相応しいとは思えず、モニカはただ無心に祈った。