6-10 黒の繰り糸
「二人とも、こんな時まで喧嘩するんですか! 少しは弁えてください!」
モニカがダーロスの服を引っ張って止めようとすると、逆に抱きかかえられてしまった。荷物のように肩に担がれる。
「ちょっ……人の話聞いてます!?」
「喋ってると舌を噛むぞ」
ダーロスは面倒くさそうに忠告をし、モニカを抱えたままその場から飛びのいた。
一瞬遅れて、地面に幾本もの黒糸が迸る。ダーロスの足を捉えようと伸びるが、先端が燃えて勢いを失う。
「アトラの、黒い糸……!」
サイフォスの方を窺うと、ナイフを閃かせ、迫りくる黒糸を切り伏せていた。サイフォスの背に隠れ、不安げな顔をしているフィンレイの姿もあった。
「寄生体を消滅させればあるいは――と思ったのですが、皮を被っていただけだったのですね。最初に教えてもらえれば手間が省けたというのに」
サイフォスは倒れているアトラに言葉を投げかけた。
アトラは返事の代わり手足をびくりと震わせる。
それは、人間の動きではなかった。
操り人形のように、かけられた力に対して反応しているだけに見えた。
膨れていた腹部がさらに膨張し、女性の悲鳴に似た音を立ててドレスが破ける。
その下から現れたのは人間の皮膚ではなく、金属光沢を持つ黒い塊だった。塊から四対八本の長い肢や触角、鋏角が伸び、蜘蛛に似た姿を取る。
上半身はマグノリア、下半身は巨大な黒蜘蛛の姿となったアトラが顕現した。
アトラが指先で髪を払うと、プラチナブロンドだった巻き髪が波打ちながら伸びた。黒糸とまったく同じ、湿ったような質感の黒に染まる。
『揃いも揃って、人間に加担するなんて愚かしいですわね』
かつてモニカが偽の天啓を受けた時と同じ声がした。
男女の声が幾重にも重なったような声色。きしきしと耳の奥にこびりつく不協和音。
「人間に加担したわけじゃない。お前が嫌いなだけだ」
ダーロスは極めて簡潔な言葉で唾棄した。
「ここにいる我が神はあれこれ口出しはしてきますが、あくまで僕は人間なので。人間側であるのは当然でしょう」
サイフォスは指でこめかみをつついてみせた。
「むしろ、こそこそと人間の腹の中に隠れていたあなたのほうが愚かしいとは思いませんか」
流れるような動作でサイフォスは指先をアトラに向ける。
「しかもその状態でやったことといえば、下半身がだらしない王子をたらし込み、フィン様に毒蜘蛛をけしかける。力をある程度取り戻してからも、一部の人間を操ったり、旧神の封印になんの関係もない水晶を壊したり。同じく封印に関係のない鏡を取りに行かせたりもしていましたねえ。まったく、どれもこれも人間でもできることばかり。情けなくなりません?」
サイフォスはひと息にまくし立てた。
当事者でなくともイラっとさせる絶妙な声色と表情だ。
「あいつ嫌な奴だな。マハヴィルの中から見てた時もいけ好かなかったが、実際に目にすると輪をかけて関わりたくない」
ダーロスは心底嫌そうに呟いた。耳がぺたりと下がっている。
モニカは空笑いをするしかなかった。実際、サイフォスは敵に回すと厄介であり、味方にいたとしても真意が見えなくて胡散臭い。
『封印に、なんの関係も、ない……?』
アトラの声が動揺で震える。
モニカには少し意外だった。それほどまでにアトラはサイフォスのことを信用していた、ということになる。
(じゃあやっぱり、サイフォスさんの中にいる冥神は本物ってこと? テオドラさんもそうだったけど、眷属なら神格の気配を感じ取れるみたいだし)
モニカは思案しつつ、嬉々として口撃を続けるサイフォスの横顔を見つめた。
「あんなあからさまな物で邪神や旧神を封じているわけがないじゃないですか。僕はただの異端審問官ですよ。いち官吏ごときが国家機密を知っているとでも? なんの証拠もなしに僕の言葉に踊らされるなんて、眷属というのはどこぞの聖女様と同じくらい世間をご存じないようで」
サイフォスは形の良い唇を吊り上げ、腹立たしくも美しく嘲笑う。
(誰彼関係なしに徹底的に煽るなぁ……。何気に私も侮辱されてない?)
モニカは薄目で状況を観察する。
人間に匹敵するサイズの蜘蛛はグロテスクで、どうしても直視できない。
「陰でこそこそやるのが得意な黒き繰り糸サマが、人間風情の手のひらで踊らされていたとはな。同じ眷属だとは思いたくねぇな」
ダーロスもサイフォスの挑発に被せた。
『あなたこそ、人間相手に完膚なきまでに叩き潰されたでしょう。むしろ一緒になどされたくありませんわ』
アトラは口元に手を添えて嫌味に目を細める。
『せっかくの力ある器を十全に使いこなせないなんて勿体ない。宝の持ち腐れですわね』
やや勢いを取り戻したアトラは、矛先をダーロスに向けた。
「本当に持ち腐れてるか確かめるか? なんの力も持たない無能な女しか乗っ取れなかったくせによ」
ダーロスは額に青筋を浮かべ、担いでいたモニカを降ろした。モニカが数歩離れたのを確認してから、両手に炎を纏わせる。マハが炎を操っていた時よりも火に勢いがない。
「ダーロス……!」
モニカはダーロスを止めようとしたが、サイフォスとフィンレイによって遮られた。
「ひとくくりに旧神の眷属といっても仲が悪いんですねえ。聖戦で聖王に敗れたのもこの協調性のなさが一因でしょう」
炎を纏った拳と何本もの黒糸がぶつかるのを横目で見遣り、サイフォスは他人事のように呟く。
「あの二人戦い始めちゃったんですけど、加勢しないんですか?」
モニカは戦いの様子をちらちら見ながら、サイフォスの服の袖を引っ張る。
素人目に戦況は五分――正確にはダーロスがやや押されているように見えた。アトラの攻撃射程と手数の多さによって、ダーロスはなかなか攻めきれないでいる。
「漁夫の利を狙うのが一番楽でしょう」
サイフォスは感情のない瞳と声で答えた。
「でも、今はダーロスが操ってるかもしれないけど、あの身体はマハなんですよ! もしも何かあったら……!」
モニカはサイフォスの腕を強く握り、うつむいた。
自分では何もできないのが歯がゆい。
「だからこそ、ダーロスには消耗してもらわなければなりません」
サイフォスはモニカを落ち着かせるように肩に手を置いた。
「いい加減、マハヴィル殿下にも目を覚ましていただきましょう」
含みのある笑みを浮かべ、サイフォスはダーロスとアトラの戦いに目を向けた。