6-8 裏切りの裏側
「……ぃ……や……」
意志とは関係なしに、モニカの口から拒絶がこぼれる。
次の瞬間、首筋のあたりから、めりめりと肉を破るような音が聞こえた。
「あっ……ああっ!」
モニカは痛みを通り越し、灼熱感を覚える。ねばつく嫌な汗が肌にびっしりと浮く。
自分のうなじからも、さっき見たように蜘蛛が這い出てきているのではないか――そんな想像がよぎり、モニカは内臓がぎゅっと締め付けられるのを感じた。強烈な吐き気がこみあげてくる。
「――ずいぶんおとなしくしているのね、ダーロス」
不意に、アトラが挑発的な視線をダーロスに向けた。
「こちらの聖女をご所望だったのではなくて? 助けなくてよろしいのかしら」
「グダグダうるせえ! どうするのが一番良いか今考えてんだよ」
ダーロスはガラ悪く舌打ちをした。
いくら炎で焼き払っても、それを上回るスピードで次々と黒糸が地面から生えてくる。そのせいでダーロスはモニカに近付けないでいた。
(ダーロスは私を助けようとしてくれてる?)
一瞬、モニカは希望をいだいたが、すぐにうつむいた。
(……でも、人質がいる以上、私は助けられてはならない。だから、身体を、開け渡さないと――)
モニカが重力に抗うように顔を持ち上げると、にっこりと微笑むアトラと目が合った。わずかに開いた唇から複眼が覗き、蜘蛛の肢がはみ出ている。
「わたし、は――」
「何も答えるなモニカ!」
ダーロスの怒号が、モニカの震える声を遮った。
「三秒でいい。口閉じてろ!」
(……三秒?)
モニカが疑問に思った瞬間、ダーロスを中心として炎の渦が巻き起こった。周囲の黒糸を残らず焼き尽くす。
「っ……今はてめえの口車に乗ってやる! 三秒以内にどうにかしろよ、陰湿クソ野郎!」
ダーロスは肩で息をし、訳のわからないことを怒鳴りながら駆け出した。モニカ――ではなく、囚われているフィンレイに向かって。
「止まりなさい! なんのつもり、ダーロス!」
アトラは顔を歪め、ヒステリックな声を上げた。
モニカとダーロス、どちらを先に対処するべきか逡巡しているのか、アトラはその場から動かない。
まさかダーロスがフィンレイの救出に行くとは思っていなかったのだろう。それについてはモニカも同じ考えだった。
「やれやれ、勝手に時間制限つけないでくださいよ。焦りで手元が狂ったらどうするんですか」
落ち着き払った場違いな声とともに、風を切り裂く音が聞こえた。
前にも何度か聞いたことがある。
サイフォスがナイフを投擲する音。
次の瞬間、モニカは首筋に衝撃を覚えた。
(刺さっ……た?)
だが、痛みはない。代わりに、首に何かが重くのしかかる。
「もっとも、日々研鑽を重ねているので、そんなことは万に一つも起こりませんがね」
モニカの首からふっと重さが消え、どさりと何かが地面に落ちた。
大人の手のひらほどもある黒蜘蛛だ。頭部に、銀の釘が貫通している。
黒蜘蛛は金属音に似た悲鳴を上げ、直後、黒煙となって四散した。
「サイ、フォス……きさ、ま……」
アトラは口を押さえ、くぐもった声で怨嗟を吐いた。赤黒い液体が指の間から漏れ、顎を伝って垂れる。
ふらふらと二、三歩後退すると、アトラはその場に力なく崩れ落ちた。
「お怪我はありませんか、モニカさん」
モニカの前に、銀髪で目の死んだ異端審問官――サイフォスがひざまずいた。
サイフォスがモニカの手を取ると、身体に絡みついていた黒糸がぐずぐずと崩れる。
(なに……どういうこと?)
「印を直接消せればこんな面倒なことをしなくともよかったのですが。寄生体を消滅させなければ解けない呪いでしたので。不徳の致す限りです」
疑問に答えるようなタイミングでサイフォスは言い、モニカを抱え起こした。確かめるようにモニカのうなじに指を這わせ、顔を近付ける。
「きゃあっ!」
「大丈夫ですね。ちゃんと消えてます」
「それくらい自分で確かめられます!」
モニカはサイフォスの身体を押しのけ、自分のうなじに手を当てた。
指に引っかかる嫌な凹凸がなくなっている。いつの間にか痛みや灼熱感も消えていた。
「遅いよサイフォス! 職務怠慢で報告するからね!」
せわしない足音と、フィンレイの怒鳴り声が聞こえてきた。拘束を脱したフィンレイが駆け寄ってきている。
その隣には、ダーロスの姿もあった。心なしか顔色が悪い。炎で黒糸を焼き払ったせいで力を使い過ぎたのかもしれない。
「遅いよ、じゃありませんフィン様。決して勝手なことはしないでくださいと散々言い含めたはずですが」
サイフォスは肩をすくめてため息をついた。
(この二人、知り合いだったの?)
状況が飲み込めないモニカは、サイフォスとフィンレイの顔を交互に見る。
「いつまでもあんな劣悪環境にモニカを置いておけないよ! 元はといえばお前が後手後手に回るからこんなことになったくせに!」
フィンレイはサイフォスの眼前に厳しく指を突きつける。
「いえ、僕にもちゃんと策があってですね」
サイフォスは顔の高さに両手を上げ、明後日の方を向いた。
「だったら最初から説明してよ。無駄に隠し事する癖ほんと良くないよ!」
(それは本当にそう)
フィンレイの意見に、モニカも心中で大きくうなずく。サイフォスは隠さなくてもいいことまで隠している気がする。
「仕方ないじゃないですか。マグノリア嬢をお救いしろとかいう無理難題があったんですから。それさえなければ、彼女が眷属を召喚した時点で処して終わっています」
サイフォスの瞳に冷徹な光が宿る。
「こんな大事にするくらいなら、独断でさっさと切っておけば良かったと今でも悔やんでいますよ。そうすれば、フィン様が足を失うこともなかったでしょう」
「いいよその話はもう。あれは、油断したボクが悪かっただけ」
フィンレイは床に散らばった黒糸を蹴りあげた。
「あの……色々追い付いてないので、ちょっと、できれば詳しく、説明してもらいたいんですが」
モニカは皴の寄った眉間に手を当て、言い合いをしている二人に呼びかける。
埒外のことが立て続けに起こりすぎていて、もはや思考するのも億劫だった。
「ええ、ええ。モニカさんのお怒りもごもっともです。ですがこここではなく、もっと雰囲気のある場所にしませんか。ある意味、ここも雰囲気のある場所ではありますが」
サイフォスはモニカの手を両手で覆うように握りしめた。
「そうやって意味なく話をはぐらかそうとするのサイフォスの悪い癖だと思うよ」
フィンレイが二人の間に割って入った。じとっとした目をサイフォスに向ける。
「お二人はいったいどういう関係なんですか?」
モニカはとりあえず直近で気になったことを尋ねた。
第二王子と異端審問官との接点がわからない。顔見知りところか親しげに見える。
フィンレイが愛称の「フィン」呼びを許しているのは、モニカも含めたごく一部だけだ。
「本当に本当に、色々ごめんねモニカ。サイフォスにアトラの懐に入るよう命じたのも、モニカの護衛をお願いしたのもボクなんだ」
フィンレイは顔の前で両手を合わせ、申し訳なさそうに片目をつむった。