6-5 小さな救いの手
「――おきて、モニカ。起きて」
密やかな声と、肩を叩く音と振動。
先に身体がびくっと反応し、追ってモニカの意識が浮かび上がる。鉄格子にもたれたまま眠ってしまったのか、背中や腰が痛い。
「大丈夫? ボクのことわかる?」
モニカのすぐ目の前で誰かが手を振った。
「え……あっ……え?」
困惑しつつ顔を上げると、モニカの見知った人物がそこにいた。
「フィン、様?」
「うんうん。良かった、変な薬を盛られたり、おかしな術で操られたりはしてないみたいだね」
金髪の少年――聖王国第二王子フィンレイはにっこりと笑い、モニカに抱きついた。
「あの、ちょっと待って、本当に? 本当にフィン様ですか!?」
モニカはフィンレイの肩をつかんで引きはがし、まじまじと顔を見つめる。
幼さの残る丸い輪郭に、長い金の睫毛に縁どられた大きな瞳。鼻や口が小ぶりなせいか、どことなく仔ウサギを思わせる。
並の令嬢など及びもつかないほど可憐で愛くるしいと評判の第二王子の尊顔がそこにあった。
「モニカ、少し痩せた? 色々あったし、こんな所に入れられてたら当然か」
心配そうに眉根を寄せ、フィンレイはモニカの頬に触れた。
「私のことより、どうしてフィン様がここに」
「モニカを逃がすために決まってるでしょ」
フィンレイはモニカの腕をつかみ、立ち上がらせる。有無を言わせない強さだった。
牢の扉は開いており、周囲に番兵の姿もない。
脱出のためにフィンレイが手をまわしたのだろうか。
(でも確か、城の人間はアトラに操られてるって。全員ではないし、聖王の血筋には効かないってダーロスは言ってたけど……)
また裏切られるのではないかと思うと、モニカは足がすくんだ。
「モニカ?」
フィンレイが不思議そうに振り返る。
表情も、瞳も、モニカの記憶の中にあるフィンレイと変わらない。
(……もし、フィン様にまで騙されるんだったら、その時はもう諦めよう)
モニカはゆっくりとまばたきをし、心を定めた。
「お気持ちはありがたいのですが、ご迷惑をおかけするわけにはいきません」
犯罪者の逃亡幇助は当然罪に問われる。わずかにでもフィンレイに落ち度があれば、アトラはそこを突いてくるだろう。
サイフォスの話によれば、アトラは毒蜘蛛を使ってまでフィンレイのことを排除しようとしていた。フィンレイを正当に追い落とせるチャンスを見逃すはずがない。
「ボクなら大丈夫だから」
フィンレイは健気に笑う。
「モニカがいなければ、たぶん僕は死んでた。それに、僕が蜘蛛なんかに刺されなければ、モニカがこんな目に遭うことなんてなかった。だから、少しでも恩返しをさせて」
「そんなの、フィン様のせいじゃないですよ。全部アトラが、仕組んだやつが悪いんですから」
モニカは唇を噛みしめ、フィンレイの身体を抱きしめた。
「別にボクは自分を犠牲にしたり、悪いことをするわけじゃないよ? 最近立て続けに変なことが起こっているから、療養している聖王の所にお伺いを立てに行くだけ。でももしかしたら、その馬車の荷台に誰かがこっそり乗っていることもあるかもしれないね」
フィンレイは説明的な口調で建前を述べる。
「モニカはもう諦めちゃったの? 兄様に追放された時は『あのアホども引きずり下ろして聖女に返り咲いてやる』くらい思ってたでしょ? 生きてさえいればチャンスはあるよ」
「いや似たようなことは考えてましたけど、さすがにそこまで口が悪くは……?」
モニカははたと違和感に気付く。
(あれ、もしかして、フィン様にも猫被ってたのバレてる?)
焦りがモニカの顔を引きつらせる。
「権謀術数は王族貴族のお家芸だからね。モニカの猫くらい可愛いものだよ」
フィンレイの口から、顔と年齢にそぐわない台詞が飛び出す。
そのギャップを埋めるかのように、フィンレイは仔猫を真似て、にゃんっと手招きしてみせた。
(つい最近似たようなこと言われた気がする)
モニカは脱力感を覚え、頭を抱える。
「少なくとも兄様はモニカのことを清楚可憐でまっとうな聖女だと思ってたんじゃない?」
「フォローになってないですフィン様……」
レイドールは自分の願望を通すために現実を曲解するような人間だ。最初から物事の表も裏も度外視している|イレギュラーにはバレてないよと言われても、嬉しくもなんともない。
「本当にボクのためを思ってくれるなら、一緒に行こう、モニカ。ボクを助けたせいでモニカが犠牲になった、なんていう罪悪感を抱えて生きていくのは嫌だよ」
フィンレイはモニカに向かって手を差し出す。
最初とは違い、無理矢理連れ出すのではなく、自分の意志で選べと言われているようだった。
(……聖女でなければ、私にはなんの価値もないと思ってた。誰よりも私のことを見下していたのは、私自身だ)
つ、とモニカの右目から涙が一筋まっすぐに流れ落ちた。一呼吸遅れて、感情が嗚咽となってあふれ出す。
「ご、ごめん! ボク言い方きつかった?」
フィンレイは突然のことにうろたえる。
モニカは目元を押さえ、首を横に振った。
「そうじゃなくて、まだ私に、手を差し伸べてくれる人がいるなんて、思ってなかった、から……」
途切れ途切れになりつつ、伝える。
「ありがとうございます、フィン様」
呼吸を整え、両手でフィンレイの手を包むように握った。
「今は、逃げます」
この選択が正しいのかはわからない。
だが、虚ろな気持ちのまま座して死を待つよりも、自分らしい選択だとモニカは思った。