5-8 赤狼
「う……そ……マハ……っ!」
モニカは震える手でマハの身体を地面に横たえた。胸に耳を当てて心音を確かめる。
――そこには、音も熱も、なかった。
生命が抜け落ち、氷像のような硬く冷たい塊だけがあった。
一瞬、マハの口元が動いたように見えたが、顔の筋肉が弛緩し、舌がだらりと垂れただけだった。
「そんな……急に、どうして……」
モニカは目を擦り、唇を噛みしめる。力を入れ過ぎたせいか、かすかに血の味がした。
モニカは縋るような思いで、マハの首に手を当てた。どこに触れても、生命の残滓すら感じられない。
涙でモニカの視界が揺れたその時、動いた。
マハの瞳孔がぎゅっと収縮する。
黒い点となった瞳孔から血のような赤が滲み、あふれた。金色だった瞳が暗い赤に浸食される。
それと同時に、漆黒の被毛にも変化があった。血を吸わせたかように、艶やかで深紅へと染まっていく。
陽炎を纏った時も体毛が赤みを帯びていたが、それとは明らかに雰囲気が異なる。
神獣のごとく美しかった黒狼が、色が異なるだけでこうも禍々しく見えるものなのか。
本能的に異変を感じ取り、モニカは座ったまま後退った。
『――ああ、ようやくだ』
マハの口が動いた。
身体を内側から揺さぶるように低く、険のある声が響く。
『やっと堕ちた! 火神の裔だかなんだか知らないが煩わせやがって!』
マハは力強く立ち上がると、天に向かって猛々しく吠えた。
空気がびりびりと震え、木々で羽を休めていた鳥たちが我先にと空へと逃げる。
「マハ……?」
モニカは理由のわからない震えを感じ、自分の身体をかき抱いた。
魔物と遭遇した時に感じた恐怖を何倍にも強くしたような――「畏れ」と呼ぶのが一番しっくりとくる。
『エルヌールに戻るのが楽しみだ。皆、どんな顔で【オレ】を迎えてくれるかな』
赤狼の瞳に薄暗い光が宿った。
それだけで、目の前の存在がマハではないことがわかる。
『――だが、その前に』
赤狼は凶悪な形に口角を吊り上げると、突然モニカに飛びかかった。そのまま地面に押さえつける。
『世話になったな、元聖女。感謝の証として最初の贄にしてやろう。マハヴィルもきっと喜ぶ』
「っぁ……!」
ナイフに似た鋭利な爪がモニカの肩に食い込んだ。鋭い痛みに、モニカは視界に白い紗がかかるのを感じた。
(――よくわかんないけど、このままじゃマズい……!)
「……マハ! なに調子に乗った下っ端悪役みたいなこと言ってるんですか! 重いんだから早くどいてください!」
モニカは息を吸い込み、大声で怒鳴りつけた。
マハがふざけてやっているわけではない。そんなことはわかっている。
数秒でいいから、考える時間が欲しかった。
『……あぁ? 人間の女風情が、慎め』
挑発に乗った赤狼は、モニカを押さえつけている前肢に力を込めた。爪がより深く食い込み、骨が軋む嫌な音がする。
「ぅくっ……あっ……!」
モニカが苦痛に顔を歪めると、赤狼は牙を剥き出しにして嗤った。他人の命を握っていることに悦びを感じている顔だった。
(……まず確実なのは、『こいつはマハじゃない』ってこと)
モニカは痛みに耐えながら赤狼の様子を探った。
赤狼は悦に入った様子で、自分がマハと違ってどれだけ偉大な存在であるかを語っている。
(マハ自身は、どうなったの……)
マハは最後に『【俺】から逃げて!』と言っていた。赤狼の言動と合わせて考えるに、何者かに身体を乗っ取られたと推測できる。
(『ようやく堕ちた』、『人間ごとき』、『オレに逆らった』、赤い狼――まさか? でも……)
限りなく正解に近い嫌な予想が、モニカの頭の中をぐるぐると巡る。
「――ずいぶん遅いお目覚めですわね、ダーロス」
あの日――断罪された時と同じように、とある女性の声が高らかに響いた。
それだけで空気が一変する。
二度と聞きたくない声によって答えが確定させられ、モニカは奥歯を噛みしめることしかできなかった。
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