5-6 根っこにあるのは無力な自分
『あっ、うそっ、え? 待って、冗談だってば! モニカはいつでも優しい! 可愛い! 最高!』
慌てたマハはぐにゃぐにゃと蛇行する。
「そうじゃなくて……ごめんなさい、巻き込んでしまって。サイフォスさんから聞いているかもしれませんが、私をさらわせたのは聖王国第一王子レイドール。マハは東国エルヌールの王子でしょう。今回のことをきっかけに遺恨が残るようなことがあっては」
『なんだ、そんなこと?』
マハは大声で笑い飛ばした。
『大丈夫だって。暴れていたのは、どこからか現れた狼の魔物。で、そいつが女の人を一人をさらっただけ――でしょ?』
「ま、まぁ、事情を知らない人から見たらそうかもしれないけれど」
『だからモニカが気にすることじゃないよ。そもそも、そんな奴と仲良くできる気がしないし。もし公の場で会ったら問答無用でぶん殴っちゃうかも』
「……ありがとう」
ことさらに明るく振舞うマハの優しさが、モニカの視界をさらに潤ませた。
『真面目な話、俺がこんな姿になってるって知ってるのは、他国はもちろん、エルヌール国内でも一握りしかいないから。バレることはないと思うよ』
「そうなんですか?」
『魔狼ダーロスを倒した第三王子がしくじって呪いを受けた、なんて醜聞もいいとこだよ。表向きには、第三王子は見識を広めるために諸国行脚に出た、ってことになってる。サイフォスのやつはなんでか俺のこと知ってたけど』
「異端審問課は諜報機関としての側面もありますから。もっとも、サイフォスさんの場合はすべて『神のお導き』なのかもしれませんが」
神のお導き、と言った瞬間、モニカは自分の中で何か引っかかりを感じた。
(結局あの天啓ってなんだったんだろう。六連星の鏡はなんの役にも立ちそうにないし。無駄に旧神の印をつけられただけ? でもどうして私に?)
モニカはため息をつき、マハの身体につかまり直した。
腕も疲れるが、それ以上に太腿に負担がかかる。鞍なしで馬に乗っているに等しい。
『もう少しで森に入るから、そしたらちょっと休憩しよう』
「はい。気遣ってくれてありがとう、マハ」
『……本当にモニカが無事で良かった』
ともすれば聞き逃してしまいそうな呟きだった。
嘘偽りのない気持ちで言ってくれているのがモニカにもわかった。
(こんな風に誰かに思ってもらえるのは初めてかも)
心の中で嬉しさと気恥ずかしさと申し訳なさが入り混じる。
必要とされていたのは、案じられていたのは、いつでも「聖女」としてだけだった。
とはいえ、聖女は自ら選び望んだ道だ。当然そうであることは理解している。
(……私なに考えてるんだろ。今は逃げのびるのが最優先。余計なことに気を取られてる場合じゃない)
モニカは頭を小さく振り、マハの身体にしがみつくことだけに集中した。
◇
『モニカはこれからどうするんだ?』
森に入り、大木の幹にもたれて休んでいると、マハがおもむろに尋ねてきた。
「どうって……」
『まだ聖女に戻りたい?』
マハは食い気味に重ねて質問する。
モニカは答えに困った。
答え自体は決まっている。
(戻りたい)
だが、その道はほぼ潰えた。仮に元の力を取り戻したとしても、レイドールがそれを許しはしないだろう。レイドールを失脚させない限り望みはない。
(でも、わざわざ私をさらわせたのは、他に聖女に匹敵する力を持つ者が見つかっていないってことよね。……あの王子に最低限の考える力があれば、の話だけれど)
欲望を剥き出しにしていたあの感じから、単純にモニカを妾にしたかっただけの可能性も捨てきれない。
「っ……」
モニカは口元を押さえてうつむく。レイドールとのことを思い出したせいで吐き気がこみあげてきた。
『平気? 水探してこようか?』
マハがおろおろとモニカの顔を覗き込む。
「ごめんなさい、大丈夫。なんでもないですから」
モニカは笑顔を作り、マハの頭を撫でた。ふわふわしたものに触れていると落ち着く。
『聖女に戻るのなんかやめて、俺と一緒にエルヌールに行こう』
マハは柔らかく目を細め、優しい声で願う。
モニカは戸惑い、視線をさまよわせる。
何度か口説き文句として言われてきたが、今までとは雰囲気が違った。
『あ、結婚とかそういうのはとりあえず抜きでいいからさ』
慌てたように、マハは自分の顔の前で前肢をぱたぱたと振る。
『身勝手な言い分かもしれないけど、俺はモニカに聖女に戻ってほしくないんだ』
「……どうして?」
『だって、聖王国では聖女は聖王と結婚しなきゃいけないんだろ。自分の都合でモニカのこと追放したくせに、また自分の都合でさらうなんて絶対にロクな奴じゃない。王族としてだけじゃなく、人としても軽蔑する』
マハの鼻の根元にしわが寄り、低い唸り声が響く。
「……それでも、私は汚名をそそがなければなりません」
モニカはゆっくりと首を横に振る。
「私個人の名誉のためだけではなく、私を育ててくれた孤児院のためにも」
口をついて出たのは、綺麗事だった。
無意識のうちに、マハに良く思われたいと考えてしまったのかもしれない。
本当は、もっと利己的な理由だ。
(私は、聖女として孤児院を支援することで、自分を慰めてるだけ)
治療術の力が発現したせいで、准聖女になる以外の選択肢を奪われた。だが同時に、その力がなければ、生まれてすぐ親に捨てられた「いらない子」に過ぎない。
心の均衡を保つには、強く必要とされる存在――聖女になるしかなかった。自分でその選択をしたのだと、思うしかなかった。
『じゃあ、孤児院も丸ごと全部エルヌールで引き受ける! それならいいだろ?』
思いもよらないマハの申し出に、モニカは一瞬、言葉を失った。
(出自のわからない他国民を受け入れるなんて、王族が軽々しく言うべきことじゃない。でもきっと……マハは、本心から言ってくれてる)
「さすがに、そこまでしてもらうわけには……」
『モニカにとって大事な場所なら、俺も守りたい。でもそれ以上にモニカ自身が大切なんだ。傷付くのがわかっている場所に、戻らせたくない』
まっすぐな金色の瞳に、熱のこもった声。
モニカは心臓が高鳴るのを感じた。胸の奥に火が灯ったかのように熱い。
(嬉しい――けど、やっぱり私は、そこまで思ってもらえるほどの人間じゃない)
胸の奥の灯を消すように、モニカは服の胸元を握りしめた。
治療術の研鑽をし、外見や立ち居振る舞いを磨いても、変わらない。孤児院にいた頃と同じ、自分に自信のない「モニカ」が顔を出した。