5-5 好意と罪悪感と
勝手口の扉を開けた途端、モニカは大きな黒い影に飛びかかられた。
『モニカ! モニカ! モニカ!』
見慣れた黒い巨狼は、ちぎれ飛ぶのではないかというくらい尻尾を激しく振り、モニカの顔を舐める。
「マハ、ちょっと……!」
モニカはどうにかマハの巨体を押し戻し、唾液まみれになった顔を服の袖でぬぐった。
『ごめん! なんかつい! この姿だと狼に引きずられちゃうみたいで』
マハは地面に腹這いになり、前肢で耳を押さえた。上目遣いで機嫌をうかがうのがあざとい。
「人にじゃれつく狼なんていないでしょう。今のは完全に犬の挙動ですよ」
モニカは頬を膨らませてみせた。
が、落ち着きなく毛づくろいをしたり、何度も鼻を舐めるマハを見ると可哀そうになった。
モニカは息を吐き出し、笑顔でマハの首回りをほぐすようにわしゃわしゃと撫でる。
「助けに来てくれてありがとう、マハ」
撫でて毛流れを整えてから、モニカは頭を下げた。
『ううん、俺のほうこそ気付くの遅くなってごめん! でもモニカが無事で良かった』
マハは口吻をモニカの頬に寄せた。ひやっとした鼻先が触れる。
『……あれ、あいつは?』
サイフォスの不在に気付いたマハは、きょろきょろとあたりを見回し、顔を高くあげて匂いを嗅いだ。
いまさらながらモニカも周囲の確認をする。屋敷の中と同様に、人の気配はなかった。
「攪乱のために残るそうです。わざわざ、そんな危険なことまでしてくれなくていいのに……」
モニカは胸元に手を当て、サイフォスの残した手袋の感触を確かめるように指先を動かした。中身の形が手袋そのものとは少し違っていて、ひんやりとした硬さが指先に伝わる。
『……ふーん』
マハは奥歯に物がはさまったような相槌を打つ。
「マハ?」
『ここの屋敷を守ってた奴はみんな金で雇われたっぽくて、俺が吠えただけでほとんど逃げたぞ。わざわざ残って攪乱する必要なんてあるのか』
「サイフォスさんが具体的に何をどうするかまではちょっと……。元々、秘密や謎の多い人ですし」
モニカは屋敷を振り仰ぐ。
『なんかいまいち胡散臭いんだよな。冥神の話とかもどこまで本当かわかんないし』
マハはやや乱暴に前肢で耳を掻いた。
『――ま、あいつの屋敷で待ってればそのうち帰ってくるか。話もその時聞けばいい。とりあえず乗って!』
「……はい」
モニカは屋敷に背を向け、マハにまたがった。以前に乗った時と同じように首に腕をまわす。
『行くよ』
声を発したのとほとんど同時に、マハは力強く駆け出す。
ウィンプルのヴェールが大きくはためく。
モニカの肌に風が冷たく刺さった。目を開けていられないほどではないが、乾燥で涙が滲む。
『本当は舗装された街道を行くのが安全なんだけど、森の中を突っきるよ。万が一、張られてたらまずいし、今の俺の身体は目立つから』
「お任せします」
モニカはうなずいた。
現在地がわからない自分よりも、サイフォスから地図を渡されているマハに任せたほうが良い。
レイドールが自由に使用できることから考えて、おそらくアラル領にある聖王家所有の別荘の一つだろう。サイフォスが逃亡先に自分の屋敷を指定したのも、地理的に近いからだと考えられる。
『モニカさえ大丈夫なら、もう少しスピード上げられるけどどうする?』
「お願いします。一刻も早くこの場から離れたほうがいいですよね。でも、無理はしないでください。森に入れば目をくらませられますし、そこで休憩しましょう」
『了解。でも、無理しないで、じゃなくて、頑張って、って言われたほうが俺はやる気出るタイプだよ』
マハの軽口に、モニカは小さく吹き出した。
どんな状況においても変わらないマハのからっとした明るさと、良い意味での軽薄さに救われる。
「頑張って、マハ」
モニカはマハの耳に唇を寄せ、注文通りの台詞を囁いた。
狼耳がくすぐったそうにぴくぴくと動く。
『今ならどこまででも走れそう』
マハは冗談めかして言い、体勢を低くした。
大地を蹴る間隔が狭まる。
身体に打ちつける風がいっそう冷たくなった。
急加速によって後ろに飛ばされそうになったモニカは、振り落とされないよう思いきって身体を密着させる。
『……やっぱり背中にモニカ乗せるのっていいなぁ』
「言ってる意味がわからないんですが」
マハの声音の中にいかがわしい含みを感じ取り、モニカは戒める目的で首にまわした腕に力を込めた。
『ごめんって! でもこの姿がモニカの役に立って嬉しい』
「……狼に変わってしまうことに対しては、あまり悲観してないんですね」
モニカは腕を緩め、ずっと疑問だったことを尋ねた。
『人間の時に獣耳と尻尾があるのは恥ずかしいから嫌だけどさ、狼になるのはそんなに悪くない。人間よりも速度も持久力もあるから長距離の移動に便利だし、獣道や隘路だって余裕。魔物や動物もほとんど襲ってこない。あとは、こっちの時のほうがモニカが優しい』
「そんなつもりは」
ない、とは言いきれなかった。
人間の時のマハ相手だとどうしても緊張してしまう。好意をぶつけてくる男の人とどう接していいかわからない。
うまくあしらって利用してやろうと考えたこともあったが、そうするにはマハがあまりに善良でまっすぐな人物だった。モニカが頼む前に、たいていのことは率先してやってくれる。
今だって、本当なら東国の王族であるマハは関わらないほうが良い。
結局、マハの好意にただ甘えてしまっている。能動的に利用しようとするよりも、よほど性質が悪い気がした。
「――ごめんなさい」
モニカは目頭のあたりが熱くなるのを感じ、マハの首元に顔をうずめた。