4-12 イツモヨリ カワイク ウツル カガミ
『これが聖遺物とか冗談だろ……』
マハはテオドラに近付き、鏡に鼻を近付けた。
『錆びくっさ!』
叫ぶと同時に飛びのき、露骨に顔を歪ませる。
「私の記憶している限り、システィーナ嬢が持っていた『六連星の鏡』というのはこれ一つだけだ。鏡ごときに『六連星』などというスカした名を付けるのは、我が主くらいのものだろう」
テオドラはふっと鼻で笑った。若干の嘲りが混じっている。
「二度とこの地に立ち入らないと約してくれるのであれば、これは持っていってくれていい」
『そんなのもらっても、なぁ。むしろなんか呪われそう』
「マハ、失礼ですよ」
モニカはたしなめはしたものの、マハの言う通り、テオドラが持ってきた物は鏡の体すら成していない。
サイフォスの方を窺うと、何故か眩しそうに目を細めていた。
(サイフォスさんがなんにも口出さないってことは、本物ってこと? これ?)
テオ村では、祀られていたのが偽物だとサイフォスは断言していた。サイフォスの頭の中にいるのが本当に冥神であるなら、真贋が見極められるはずだ。
(冥神が聖女システィーナに送ったとか、教義がひっくり返るようなことをさらっと言ってた気がするけど……今は聞かなかったことにしよう)
モニカは今聞いた話を頭の隅に追いやることにした。聖遺物の出自はたいした問題ではない。
「承知いたしました。六連星の鏡の受領を約定の代わりとさせていただきます」
謹んで、モニカは錆びた鏡を受け取った。
「……え?」
持った瞬間、鏡の柄の部分がぽっきりと折れる。
「あ」
テオドラは神の眷属とは思えない間の抜けた声を漏らした。
気まずい沈黙が訪れる。
(うーん、これはただのゴミ)
モニカは投げ捨てたい気持ちを抑え込み、ハンカチで鏡の残骸を包んだ。
(今もらった物が本物であるかどうかは別として、この人が言うように冥神が与えた物なら、魔を払う効果なんてないのでは? だったらどうして、あの神っぽい奴はあんな啓示を私にしたんだろう。いや、アンデットの言葉を鵜呑みにするほうがおかしいのかな。それとも前提が、あの天啓自体が嘘?)
モニカは深呼吸をし、冷静にテオドラを観察する。
武人然としており、弁を弄するタイプには見えない。洒落や軽口は好きそうだが、あくまで会話を楽しむためだろう。
だいいち、あんな嘘をついて何か得があるとも思えない。
「ちなみに、なぜ彼女の鏡を探していたのか聞いてもいいかい?」
テオドラは手を払って錆びの粉を落とした。
「私の求める力が、六連星の鏡にあると耳にしたので」
モニカは天啓のことは伏せて答えた。
「力、ね。余計なお世話かもしれないが、これの送り主である某という神はかなりの色ボケでな。愛しい恋人の機嫌を保つために作った、いつもより可愛く映る鏡だと聞いている」
テオドラが何を言っているのか、モニカにはわからなかった。
イツモヨリ カワイク ウツル カガミ?
モニカの手の中で、ぴしりと何かが壊れる音がした。
「確かパなんとかという希少な輝石が埋め込まれていて、その輝きを利用して魔術でどうのこうのとか……魔術は門外漢ゆえ、詳しく説明できないが」
テオドラが気を遣って必死に説明してくれているが、まったく頭に入ってこない。
『可愛く映ると、何かいいことがあるのか?』
マハが鼻先でちょんちょんとモニカをつつく。
「ええと、そうですね。多少、気分が良くなる、くらいでしょうか」
モニカは必死に答えをひねり出した。
どんなに考えてもそれ以上の有効性は見い出せない。上流階級のご婦人方には需要があるかもしれないが、聖遺物としては格落ちだ。
「なんだかすまないな、色々」
モニカの表情から何かを察したのか、テオドラは肩をすくめた。
『こいつのこと放っておいていいのか? 旧神の眷属は悪い奴だろう』
マハが顎をしゃくってテオドラを指し示す。
「聖戦の折、邪神に加担した三柱の旧き神。それに仕える鳥獣蟲魚が旧神の眷属」
モニカは目蓋を伏せ、建国神話に書かれていたことをそらんじる。
「私は、たとえ相手が邪神であろうと旧神であろうと、敵対する意志のないものとは争うつもりはありません。そもそも私自身に戦う力なんてないですし。今は私、ただの一般人ですから。なんの義務もしがらみもありません」
穏便に帰れそうなのだから、変な正義感を出して余計な騒ぎを起こすのは悪手だ。
「ちなみにテオドラさんは、このあと人類に対して敵対行動を取ったり宣戦布告とかしたりするんですか?」
モニカは冗談めかして尋ねた。
「まさか。ダーロスやアトラといった他の神の眷属の中には、主の仇としてレイフォルドを恨むものも多いがね。砦を荒らす者を追い払うくらいさ。あとは主が戻るまで寝起きをするだけだよ。しかしここ最近眠りが浅くて、それだけが不満だね」
(単純にそんな鎧着て寝てるせいじゃないのかな)
どう見ても板金鎧は寝衣に向いていない。
『ダーロスは嫌ってほど知ってるけど、アトラって誰だ?』
テオドラに対してをぬぐいきれないのか、マハは不躾に尋ねる。
「黒の繰り糸アトラ。天神の眷属、蜘蛛の化生。ダーロスのようにわかりやすく粗暴ではないが、二つ名の通り搦め手を得意とする厄介な子だよ。度を超えて主のことを敬愛していたから」
何かを思い出すかのように遠くに目を向け、テオドラは小さく息をついた。
「蜘蛛……」
モニカの眉間に皴が寄る。
すべての発端である第二王子フィンレイの負傷事件の原因は毒蜘蛛。マハが襲われたのも同じ。
たったそれだけで結びつけるのは安易かもしれない。だが、胸の奥に小さな棘が刺さったような違和感がどうしても拭えなかった。
(仮にその眷属が関わっているとして、フィン様を狙った理由はなんだろう? ……そもそも眷属の目的がわからないから想像しようもないか)
推測を頭の隅に追いやった瞬間、ずきんっ、とうなじのあたりが重く痛んだ。
モニカは反射的に手を当てる。ざらついた凹凸を指に感じ、聖痕の存在を思い出した。
中央に円が配され、そこから長さの異なる八本の線が伸びた、太陽を象形化したかのような図形。
(蜘蛛の肢の数も八本……)
考え過ぎだとは思ったが、一度走った思考は止まらない。
太陽に見えていた聖痕が、醜悪な蜘蛛へと変じる幻覚を見た。
モニカは骨の髄に氷を注がれたような悪寒を感じ、うなじを掻きむしった。