4-6 異端審問官の憂鬱(サイフォス視点)
「なんてことしてくれるんですか……」
モニカを飲み込んだ大穴を呆然と見つめ、サイフォスは詰るように呟いた。
闇がわだかまっているかのように大穴の底は見えない。追いかけて飛び込むのは無謀だ。
が、そんな無謀を躊躇なくやってのけた男がいる。
マハヴィル・クー・エル・トゥグア。
東の隣国エルヌールの第三王子。ただの人の身で神の眷属を打倒した規格外の男だ。
報告書を見た時は、安っぽい英雄譚でも読まされているような気分だった。
現在、彼が魔狼ダーロスに酷似した姿をしているのは、おそらくなにがしかの呪いを受けたのだろう。神格を殺してただで済むわけがない。
秘密裏に聖王国に潜り込んだ理由もおおかた察しが付く。
聖女の奇跡の御手。
正式にエルヌール王国から解呪の依頼をしたとしても、聖女の安全面を考慮し、聖王国側はあれこれと理由をつけて拒否する。能力者が減っている今、聖女は聖王以上に代えが効かない存在だ。
頭にずきずきとした痛みを感じ、サイフォスはこめかみを押さえた。
十歳の時に神降ろしの儀式を受け、それ以来そこに居座っている存在が、ぎゃあぎゃあと言い訳をしている。
「いくら腹が立ったとはいえ、勝手に人の身体を使わないでくださいよ。そういう風に軽率だから、人間ごときにしてやられるんです」
サイフォスはいつものように声に出して反論した。
十歳の時からの癖だ。思ったことが筒抜けになるため発声する必要はないのだが、ついやってしまう。
おかげで散々白い目で見られてきた。
最初の何年かは心のバランスがとれなかった。
だがある時、逆に開き直って「神の声が聞こえる」と公言するようにしてからは楽になった。「サイフォスに関わると正気を失う」といった不穏な噂が独り歩きし、要求がスムーズに通るようになった。
頭痛が加速度的に強くなる。
石をがんがんと打ちつけられているようだ。
サイフォスはたまらず顔をしかめた。
怒らせると、こうやって危害を加えてくるのが性質が悪い。相手の格を考えれば、この程度で済ませてくれていると思うべきか。いざとなれば身体の主導権を奪うのも容易いだろう。
――ガラガラッ!
警鐘を鳴らすように、足元近くの石畳が崩れた。
いつまでもここで思案しているのは得策ではない。
サイフォスは衝撃を与えないよう、静かにその場から立ち去った。
(とにかく地下への道を探さないと。無事だといいが……)
サイフォスは剥き出しの手を一瞥し、握りつぶした。
今まで生きてきた中で最悪の感覚だった。手から命が滑り落ちていくのを、文字通り味わわされた。
モニカの夕陽色の瞳から光が失われた瞬間が、記憶に焼き付いて離れない。
一瞬の迷いもなく、モニカの後を追って大穴に身を投じたマハヴィルが、愚かで……妬ましかった。
呼吸が勝手に、速くなる。
犬のように無様に、はっ、はっ、と浅く吐くことばかりを繰り返す。
「この砦の内部構造、覚えてないんですか。そもそもあなたが言ったんですよ、例の鏡がここにあると」
サイフォスは苛立ちをそのまま声に乗せた。
頭の中の存在は問いには答えず、サイフォスの神経を逆撫でする。
――ずいぶんと聖女にご執心じゃないか、と。
「あなた以上に、その台詞を言う資格のない存在はいませんよ。痴情のもつれで殺された挙句、旧神に堕とされた冥神ナクトネフェル様」
サイフォスは嘲笑を浮かべ、虚空をにらみつけた。
冥神ナクトネフェル。
邪神に与し、初代聖王によって封じられた旧神のうちの一柱――頭の中に住み着いている存在は、自分がその冥神だと言い張った。
真偽の確かめようがないため、サイフォスはその設定に付き合っている。
実際、ナクトは魔術や神代について誰よりも造詣が深く、学ぶところが多い。崇拝――とまではいかないが、師として仰いでいる。神を自称するわり俗っぽいところが玉に瑕だが。
膨大な量の罵詈雑言が、物理的な痛みとなってサイフォスの頭蓋に突き刺さった。
言わなくてもいいことを付け加えてしまうのは、自覚のある悪い癖だ。治そうと思っても治らない。
この話題は彼にとって最も敏感な部分であるらしく、良くも悪くも反応が激しい。人間に宿ることを甘んじて受け入れているのも、そのことに心残りがあるかららしかった。
「……そんなに似ていますか。あなたの聖女に、モニカさんが」
問いかけに対し、ナクトはぴたり口を閉ざしてしまった。
「似ていようがいまいが僕には興味のないことですが、あなたの想い人と彼女を重ねないでくださいよ」
サイフォスは自分の胸に手を当てた。
平時と比較して二割ほど鼓動が速い。
取り留めのない思考をする回数も増えている。
「どれが自分の気持ちなのか、わからなくなるじゃないですか……」
自我がなくなるほどではないが、ナクトの感情に引きずられることが多くなった。
モニカと出会ってから。
サイフォスは頭全体がずんっと重くなるのを感じた。ナクトが反省している時によくこうなる。
「自省の念に駆られるよりも先に、砦の構造を思い出してください。怪我も心配ですが、手の早い犬と二人きりなんですよ。何をされるかわかったものではありません」
マハヴィルは隙があればすぐにモニカに触ろうとする。狼姿の時は、どうにか構われようと尻尾を振って媚びを売る。
非常に腹立たしい。やはり最初に出会った時に異端として処分しておくべきだった。
(……腹立たしい?)
サイフォスは自分の感情に引っかかりを覚えた。
すかさずナクトがつついてくる。
――魔術にしか興味のなかったお前が、焦りや嫉妬で狼狽えるなんて面白いね。
くつくつと喉を鳴らす笑い声が、サイフォスの頭の中に響く。
「誰が狼狽えていると?」
サイフォスは眉間にしわを寄せ、その直後にはっとした。慌てて指で眉間を押し伸ばす。
「あんな底の見えない穴に落ちて、心配しないわけがないでしょう。それを焦りだの嫉妬だのと拡大解釈しないでください」
釈明をしても、ナクトはまだ笑い続けている。頭痛よりもある意味不快だった。
笑うのをやめさせる方法はないものかとサイフォスが考えていると、突然、足が勝手に道を選んだ。サイフォスの意志に関係なく、砦の中をどんどん進んでいく。
「ようやく思い出しましたか」
サイフォスは小さく安堵の息を吐き出した。
身体を操られるのはいい気はしないが、今は急を要する。一刻も早くモニカと合流しなければならない。
モニカのことに思いを馳せた次の瞬間、駆け足になった。ほとんど全力疾走のようなスピードで通路を走り抜ける。
「……はい?」
サイフォスは眉をひそめた。
モニカに反応したのではなく、ナクトが何か焦っている。
「何かあるんですか、地下に」
サイフォスが尋ねると、答えの代わりに、よりいっそう走る速度が上がった。
こんなにも神格を焦らせる何かがあるのだと思うと、サイフォスは背筋が冷えるのを感じた。