4-1 とりあえず喧嘩がお約束
旧砦――テオドラ砦。
そこは、一目で古戦場の遺構だとわかる石造の廃墟だった。
天井は崩れかけ、通路を歩くだけで砂のような破片がぱらぱらと降ってくる。
足元も油断できない。敷き詰められた石畳の一部は、足を置いた瞬間に崩れ落ちた。過去の爪痕か、単純に経年劣化の影響か――ただでさえ瓦礫が散乱していて歩きにくいのに、より神経を使わされる。
足場が砕け、身体が意図しない方向に傾くたび、モニカの心臓に冷たいものが走る。
サイフォスは「建前」という私見を述べていたが、実際に兵の派遣は難しそうだった。放置もやむなしだとモニカは思う。
(それにしても……全然アンデットいないけど)
砦内で遭遇したのはネズミとコウモリ数匹のみ。スケルトンやその他亡霊の姿はない。テオ村のほうがよほどスケルトンの巣窟だった。
村長の屋敷を出ると、あれだけいたスケルトンは跡形もなく消え去っていた。
消えた原因は不明だが、サイフォスは「念のために」と村のあちこちに聖水をまき、護符を貼ってまわっていた。一応サイフォスも聖職者だ。ローガンが呼びに行った救援が来るまではもつだろう。
(それにしても――)
モニカは数歩先を歩くサイフォスの背中を見つめた。
彼は、肝心なことを何一つ説明してくれない。
テオ村にある聖遺物が偽物であると断定した理由も。
本物の聖遺物がテオドラ砦にあると言った理由も。
(監視と保護以外にも目的があるんだろうな……)
モニカは小さくため息をつき、肩にかけた革のカバンに手を伸ばした。中には、テオ村の村長から接収した「六連星の鏡」が入っている。
村長は意外なほどあっさりと手放した。
あの男に何が効いたのかはわからない。モニカの治癒術か、サイフォスの尋問か、それともスケルトンに家を囲まれて正気を失っていたのか――。
いずれにせよ、貴重な金づるだったはずの聖遺物を差し出すほど、追い詰められていたのは確かだった。
「歩きにくかったら俺が背負おうか?」
何度もつまずくモニカを見かねてか、マハが心配そうに声をかけてくる。
「いえ、大丈夫です。そろそろどこが脆いのかわかって――」
言ったそばからモニカの爪先が何かに引っかかった。
(やらかした……!)
重力に引かれるまま身体が前のめりに倒れる。モニカは恥ずかしさと情けなさに苛まれつつ、顔だけは守ろうと腕を前に出す。
だが、痛みも衝撃も訪れることはなかった。
代わりに、胸のすぐ下にぐっと何かが食い込む感覚があった。
「意外と意地っ張りで、抜けてるんだな」
笑いの混じったマハの声と吐息が、モニカの耳たぶをかすめる。
モニカを抱きとめ、転倒を寸前で防いでくれたらしい。
「背負われるのが嫌なら、こっちでもいいけど」
ふわりとモニカの身体が浮く。
抵抗する間もなく、マハによって抱きかかえられた。背中と膝裏のあたりに、たくましい男性の腕と覚えのある体温を感じる。
「このほうが顔もよく見える」
なんの照れも気負いもなく、マハは純粋に嬉しそうに笑いかけた。
無邪気な笑顔の可愛らしさにモニカはどきっとする。なんとはなしに自分の頬に触れると、病気で寝込んだ時よりも熱かった。
普段は頭一つ分以上離れているマハの顔が、ほんの少し手を伸ばせば届く距離にある。
「……やっぱ、可愛いな」
モニカの瞳を見つめ、マハは噛みしめるように呟く。
いや何を場違いなことを言ってるんですか――というモニカの指摘は音にならなかった。
不意に、マハとの間の距離が消える。
鼻先が触れ合い、マハが顔を傾けた。互いの額がこつんと重なる。小さな振動が、モニカの頭の奥深くを大きく揺さぶった。
(あれ……なんか、色々ダメ、かも……)
長く黒いまつ毛に縁どられた金色の瞳がとても綺麗で。
頬がまだ熱くて。
マハの体温は心地良くて。
耳の中がどくどくと脈打ってうるさくて――
取りとめのないことが、モニカの頭の中に次々と浮かんでは消えていく。
「同意のない接触は痴漢です! 可及的速やかに離れやがってください! ……と神がご立腹です!」
ひゅっ! と風を切る音と、身がすくむほどの鋭い声が、モニカの意識を現実に引き戻した。
「危ねぇ! モニカに当たったらどうすんだよ!」
マハは犬歯をむき出しにして怒鳴る。
その視線の先には、ナイフを携えたサイフォスの姿があった。いつもより瞳が冷え冷えとしているように見える。
「日々研鑽を重ねておりますので、目標以外に当てるなど万に一つもありません。しかしその万が一が起こった場合には、責任をもって駄犬を駆除し、ただちに自害します!」
「駆除も自害もしないでください! 心配してくれたのは嬉しいけど、マハももう下ろして!」
モニカは真っ赤な顔で足をばたつかせる。
マハはしぶしぶとモニカを下ろした。耳と尻尾がしょんぼりしおれている。
「やはり新婚旅行にペットを同伴させるべきではありませんでしたね」
サイフォスは手のひらを天に向けて肩をすくめた。
「その新婚旅行設定、俺は認めてないからな。あとペット呼ばわりもやめろ。モニカに犬扱いされるならともかく、アンタにだけは見下されたくない」
マハは噛みつく勢いでサイフォスに詰め寄った。
(ああもう、止めるのも面倒……)
モニカは火照った頬に手を当て、二人の睨み合いを遠巻きに眺める。頬の熱は、まだ引いてくれそうにない。