2-7 汚名は知らないうちに着せられるもの
『結界が、ない?』
困惑したようにマハが聞き返した。
「『聖女モニカの後釜についたアレは控えめに言って超無能だよ。能力のなさをごまかすために、結界の維持に必要な魔除けの水晶を粉砕したパワー系だよ』と我が神も嘆いておられます」
神の代弁者として喋るときのサイフォスは妙に嬉々としている。
「あの、もっと真面目に説明してもらっていいですか? 粉砕したって、どういう……」
モニカは控えめに手を挙げて尋ねた。
「准聖女のマグノリア様が『聖女代行』として鎮めの儀を執りおこなったところ、魔除けの水晶が破裂四散しました」
サイフォスは簡潔に説明する。
「なんで!?」
あまりのことにモニカは声を荒げてしまった。
鎮めの儀に使われる魔除けの水晶は、高さ二メートル以上もある円錐形の巨大な塊だ。簡単に壊せるものではない。
「聖女代行のマグノリア様はまったく動じることなく『追放した魔女モニカの怨念が魔除けの水晶を砕いたのです』と仰っていましたが。異端審問官として、あの面の皮の厚さは見習いたいものです。ちなみに、モニカさんは心当たりあります?」
「あるわけないじゃないですか!」
モニカは怒りのあまり、テーブルに拳を叩きつけそうになった。
すべてを奪って追放しただけでは飽き足らず、新たに罪を着せるなんて信じられない。
「ですが、今の聖王城ではその荒唐無稽な主張がまかり通っているのです」
サイフォスは平坦な調子で答え、口の端についたマカロンの欠片を指でぬぐった。
「……ああ、『今』に始まったことではありませんね。正確に言えば、フィンレイ王子の事件が起きた前後から、きな臭さのようなものは漂っていましたが」
モニカはうなじがぴりっと痛むのを感じた。
サイフォスはモニカを一瞥してから続ける。
「とにかく、そういうわけで今の聖王国は結界なしの剥き出しの状態なわけです。だからこそ、獣の耳と尻尾の生えた輩に不法に入り込まれているわけですが」
(余計な一言付け加えずにいられないのかな、この人)
モニカは内心ため息をつきながら、先んじてマハの口に食べ物を押し込んだ。二人を直接会話させると余計な方向に逸れて話が長引く。
「浅学で申し訳ないのですが、魔除けの水晶が割れて結界がなくなると、具体的にはどうなるんですか?」
聖女の職務の一つとして「鎮めの儀」をおこなってはいたが、実際にどのような効果があるのかモニカは知らない。
以前、神官長に尋ねた時、「神の意図は知ろうとするものではなく汲むものだ」と釘を刺されて以降、誰かに尋ねることは控えていた。
「さぁ? 魔物が自由に入って来れるようになるわけですからね。ロクでもない目に遭うんじゃないですか」
サイフォスは無表情で肩をすくめてみせた。
(人のこと言えた義理じゃないけれど、やる気なさすぎじゃない……?)
いくら会話をしてもサイフォスにはつかみどころがない。神に対して妄信的なくせに言動がちぐはぐだ。
「ごめんなさい、マハ。退魔の結界というのは、おそらくひと月前まで私が維持していたものです。月に一度『鎮めの儀』という聖女がおこなう儀式があり、それによって結界が張られていたのだと思います」
モニカはサイフォスとの会話を諦め、マハの方に向き直った。
『別にモニカは悪くない。それが聖女の役目だったんだろう。うちの国で暴れてたダーロスには迷惑してたけど、そいつはもう倒したわけだし』
旧神の眷属である「赤き魔狼ダーロス」を倒した英雄。
マハのことを見て、サイフォスはそう言っていた。
旧神に限らず、神には手足となる存在――眷属がいる。神が直接力を行使すると世界の理が狂うため、神の意志を代行するのが眷属だ。
広義では聖王と聖女も主神の眷属にあたる。
(眷属の存在自体は知ってたけど、名前とか、そいつが他国で暴れてたなんて初耳だわ。意図的に伏せられていた? なんのために?)
『何が潜伏していたようです、だよ! 聖王国が張った結界のせいで周辺諸国がどれだけ迷惑してるか!』
マハが言っていた言葉が頭の中にこだまする。
(結界を張り続けることによって、他国に魔物を押し付けていた。聖女に選ばれるような高潔な人物が、そんな非道な行為を黙認できるわけがない。ダーロスのことを伏せていたのは、聖女に体良く結界を張らせ続けるため?)
モニカは危うく舌打ちをしそうになった。
ガラの悪い癖は全部孤児院に置いてきたつもりだが、うっかりすると出てしまう。
「でも、マハはそのダーロスのせいで痛覚を――」
と言いかけたところで、モニカは慌てて自分の口を手で押さえた。
(コイツがいる前では言いたくないって言ってたのに言っちゃった!)
モニカは自分のうかつさ加減に腹が立った。口にしてしまったことも悪いが、その後のごまかし方もひどい。
サイフォスの方をちらりと窺うと、何事もなかったかのように紅茶を啜っていた。空気を読んでくれたのか、それとも本当に気付かなかっただけなのか、モニカには判別できない。
『この呪いを受けたのも、もとを正せば俺の慢心が原因だ。モニカが気にすることじゃない』
マハは静かに自分の身体を見下ろした。
(こっちはこっちでややこしい事情がありそう。英雄と称される、呪われたもふもふ第三王子、か。あんまり深入りするのもよくないかな)
モニカはため息を押し戻すように、カップケーキに噛りついた。
シンプルなプレーンのカップケーキだ。焼けたバターの良い香りがする。甘さと食感がちょうど良く、飽きがこない美味しさだ。
『……俺もそれ食べたい』
マハはテーブルの縁に前肢をかけ、モニカが食べているカップケーキに熱い視線をける。期待で揺れる尻尾がリズミカルに床を打つ。
「お行儀悪いですよ。おすわりして待っててください」
モニカは人差し指を立てて注意する。
言われた通りにマハは前肢を揃え、お尻を床につけて座った。完全に、犬がしつけで覚える「おすわり」のポーズだ。
マハのことを犬扱いしてしまうのは見かけが原因だと思っていたが、彼自身にも問題があるとモニカは確信する。
「はい、どうぞ」
モニカは衝動を抑えきれず、マハの口に向かってカップケーキを放り投げた。
マハは見事に口でキャッチし、満足そうにカップケーキを頬張る。
モニカが小さく拍手を送ると、マハは口角をきゅっと引いて得意げな顔をしてみせた。
「それだけ飼いならされていれば粛正の必要はありませんね」
サイフォスは肩を震わせて笑いを堪えている。
『なんだと――ぅぐっ!』
いきり立つマハの口に、モニカは素早くカップケーキを押し込んだ。
王族だというわりに、マハは直情径行で煽り耐性がない。他人事ながらモニカは心配になる。
「そういえば、サイフォスさんはどうして私たちに関わるんですか?」
モニカはうっすらと気になっていたことを尋ねた。
「私は、ご存じの通り追放された身です。忌避されることはあっても、こうしてお家に招いていただけるような者ではありません」
「将来の伴侶なのですから、家に招くくらい当然でしょう」
サイフォスは口角をわずかに上げ、艶っぽく微笑んだ。
男性に対していだく印象ではないのはわかっているが、サイフォスには薄暗い色香のようなものが漂っている。
「それは、私がお二人を『説得』した後の話でしょう。そもそも、どうしてあの場所にいたんですか?」
サイフォスが現れた時は突然のことに気が動転して気付かなかったが、あの場に一番に現れたのが「異端審問官」なのはおかしい。
マハの見た目は「異端」というよりも「魔物」だ。魔物討伐は治安維持を担当する聖堂騎士の領分になる。それに最初からマハの正体を知っていなければ「異端」という単語は出てこない。
「……そんなに僕のことが気になります?」
サイフォスの瞳がすっと細くなった。