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AMF - ACD財団極東支部 対バケモノ特務部隊  作者: 惰犬
1 - 新たな世界と新たな秩序
6/6

1.4 - 目覚め

 必死に呼吸をしていた。浅い呼吸しかできず、喉を伝い肺に空気が満ちる感覚はとても奇妙に感じられた。未だ十分に膨らませる事の出来ない肺に入った空気を使いないてみる。自身の口から出た音はいやに甲高く、小さく、弱々しい。木霊もせず消えてゆく音の後には空気がわずかに揺らぐ静寂だけが残る。周囲はどうなっているのか確かめたいが、辺りは非常にまぶしい。明らかな異常にも関わらず、ここはどこなのかという疑問も抱くことが出来ない。何をしたら良いのかも分からないが、どうにもじっとはしていられなかった。まだ何も利かない嗅覚を頼りに動かし方も分からない四肢に力を入れる。不格好ながらなんとか身体持ち上げるも、踏ん張り切ることが出来ずに横転してしまった。幸い、ちょっとした衝撃で済んだ。また四肢に力を入れて身体を持ち上げてみるもまた転倒した。それを無為に何度も繰り返すと、眩さの中から突如として大きな手が現れた。手は霊長類、それも人間の両手だった。その大きさは私の数倍以上の大きさで、鼻につくような嫌なニオイが少しした。手は私を優しくすくい上げると、ゆっくりと持ち上げる。身体に触れる手はとても暖かい。先ほどまでのニオイは何処かへ行き、どことなく安心する香りがする。暖かさに眠気を覚え始めていると、何か大きな音が耳に入った。それはかろうじて生物が上げた声だと認識は出来たものの、言語として何を言っているのかまでは分からない。自分と同種の声かどうかも疑わしく感じる。声が途絶えると、両手は私を閉じ込めるかのように、ゆっくりと覆い始めた。覆われるに従い、暗闇がゆっくりと訪れる。ようやく見ることの出来た光が暗闇によって塗りつぶされてゆく。そんな感覚に不安と恐怖を覚えるも手の暖かさに眠気が酷く襲ってくる。力の入らない身体に抗えず、だんだんと閉じてゆく光をただ眺めていると、光の中に顔の様なものが見えた。しかし、次の瞬間には完全な暗闇が訪れ、何も分からなくなった。




 ゆっくりと、しかし力強く水面へと浮上するかの様な感覚が全身を襲う。気が付けば夢との境界が分からなくなり、旧部は意識を取り戻した。旧部の全身には謎の倦怠感と脱力感、そして心地よさを覚える程の無気力感が広がっている。起きたばかりの脳は意識を維持するだけで精一杯だった。少しでも気を抜けばすぐさま意識は深く堕ちていってしまうだろう。正に寝起き直後の、殆ど覚醒しきれていない微睡の状態だった。ただ、とてつもないほどの不快感を感じている事は理解できた。

「……?」

 不快感の原因は分からないが、旧部は反射的に顔を背けようとした。しかし、何故か顔を動かす事は出来ず、それどころか首や額、頬やこめかみなどに変な刺激を覚えた。

「……??」

 変な刺激は妙に柔らかいが、密度が高く、硬くは無いものの反発も強いわけではない。旧部は覚えのある感覚だと思考を巡らすも、起きていない脳では全てが空振りに終わってしまう。ただ、今感じているとてつもないほどの不快感の正体には気付くことが出来た。

 旧部が今強く感じている不快感は『とてつもないほどに眩しい』という事。何故かはまだ分からないが、目を強く瞑っても逃れられない程の眩さだ。旧部は再度反射的に顔を背けようとするも、やはり頭を動かす事が出来ない。瞼を貫通する程の光に晒され目はとてつもないほどにつらい。手を使い光から逃れようとするも、手も頭同様に動かない。それどころか一種の諦観を覚え、更に惰眠の欲が襲い掛かる。とてつもないほどの不快感と惰眠の欲に板挟みとなり、言葉にできない程の複雑な気分となった。

「目を覚ましたか」

 突然大きな声と共にハウリングの様な甲高い、キンキンとなる音が部屋に響く。旧部の耳と脳は容赦なく押し寄せる強い刺激に痛みを覚え、全身に変な力が入った。

「すまない。調子が少し悪いみたいでな……少しはましになったか?」

 声は何かを調整した様で、旧部の耳に入る甲高い音が緩和される。しかし、旧部にとっては爆音な様で、旧部はまた顔をしかめ、動かす事の出来ない身体に力を入れている。

「聞こえてはいるな。しかし音量が強い、か。……これでどうだ?」

 声は再度調整を行ったようで、音量が大きく下がった。旧部にとっては丁度良い音量になったようで、旧部の全身に入った力が少し抜ける。

「よし。これで少しはまともになっただろう」

 旧部はここにきて、ようやく声を認識することが出来た。先ほどまでは大きな音としかとらえられていなかったが、声だと認識することが出来てから、声にまつわる様々な情報を推察する事が出来た。

 旧部はこの声の主が男性であるという事。それも男性の中でも低めの声をしている事が分かった。旧部は未だ眩しさに慣れず、まともに開けられない目無理やり開けて周囲に目を向ける。しかし、露光が酷い写真の様な光景が広がり、まともに周囲を見ていられなかった。

「目はまだ見えないか。明りについては我慢してくれ。また眠られるとお互いに困るからな」

 男性は落ち着いた声で旧部に語り掛ける。男性の主張の通り、この明りがあるからこそ、旧部は意識を持っていられるような状態だった。旧部としてはかなり辛い状況だが、気になったこともあった。それは男性について。旧部の耳に入るこの声は何処かで聞いたことのある様に感じられたのだ。

「目を覚ましたばかりで申し訳ないが、いくつか質問させてもらいたい。喋る事は出来そうか?」

 旧部の耳は問題なく声を拾い、脳も言語として理解が出来ている。しかし、それでも旧部の視界を始め思考もまだはっきりとはしていない。身体はまるで重い毛布を上から何枚もかけられているかのように動かせすことが出来ない。

「しつもん……ですか?」

 首を振ることもできず、手で合図する事もできない。だからといって黙っているのも忍びないと感じた旧部は弱々しくも返答する。寝起きだからなのか、まだ体に力が入っていないからか。旧部の口から出た声は発音が悪く、少し掠れている。喉が渇いていないのは唯一の救いだっただろう。

「良かった、受け答えも出来そうだな。なに、どれも簡単な質問だ。目を覚ますついでだとでも思ってくれ」

 男性は少し間をおくと、何かを思い出したかのように旧部に問いかける。

「質問の前に、自分の名前は分かるか?」

「えっと……ふるべ、あかりです」

「……あぁ、そうだな……。すまない」

 男性は非常に歯切れが悪く、何故か肯定し、すぐに謝罪した。男性の声は何処かよそよそしくも聞こえたが、旧部の耳には不安や少しの焦燥を感じ取った。嫌に印象に残る声色だったが、旧部はその意図までは分からなかった。

「よし。早速になるが、始めよう」

 男性は声色を少し上げると、様々な質問を旧部に投げかけた。質問の内容は今の年齢や好きな食べ物や趣味。他にも出生からこれまでの経歴など。旧部は所々詰まるところもあったものの、難なく答えていく。しかし、奇妙なことに男性が投げかける質問は適当と言わざるを言えない内容だった。生まれた場所の次はよく使う寝具。朝ごはんの好みの次は休日の過ごし方。好きな映画の次はよく使う掃除用具について等々。質問の順番はバラバラ、前後に脈絡を見出す事の出来ないものだった。

 旧部は次々と投げかけられる質問に眉をひそめる事もあったが、素直に答えてゆく。すんなりと答えることが出来るのは、頭が上手く動いていないおかげともいえるかもしれない。十数個程の質問に答えると、男性は少し間をおいて「次で最後の質問だ」と告げた。質問に答えていくうちに、旧部の意識は少しづつ鮮明になっていた。恐らく、男性は事細かく旧部の状態を見ていたのだろう。未だ本調子ではないが、だからといって何も分からないという状態ではない。旧部は今、自身の置かれている状況を客観的に知っている。それは客観的な事実であり、主観的な感情ではない。

「旧部、お前は今、どんな状況下に置かれている?」

 投げかけられた最後の質問。その意図はすぐに理解できた。旧部は現在、冷静ではあるが思考は十分に混乱している。このためにわざわざこんな回りくどい方法を取ったのだろう。少しずつ、自身の置かれている状況を知っても、酷く動揺する事の無いように。

「……拘束、されています」

 旧部は口に出して、自身が認識している状況を伝える。既に感づいていた事だが、やはり自身の口で言葉にするのは意識が変わる。今、旧部は微動だに動くことが出来ない。何故ならば、全身のいたる箇所にベルトの様なもので縛られているからだ。腕や足、胸や胴に首等の主要な部位には特に太い物で縛られている様で、声を出すために息を吸うのも少し面倒に感じられる。更にただ縛られているだけでなく、執拗にも感じる程に細かく、きつく縛られている。腕だけでも上腕と前腕に2つずつ。肘と手首に1つずつ、更に手のひらと各指の第二関節にもベルトで縛られている様だ。頭部に関しては左右から挟むように囲いの様なもので固定されている。身体の至る箇所に当たるクッションは有難いことに柔らかい。どの拘束もちょっとやそっとの動きでは隙間はおろか軋みすらしない。

「そうだ。お前の身柄は現在、厳重に拘束させてもらっている」

 男性は淡白に肯定する。その返事を聞き、改めて自身が置かれている状況を理解し、旧部は強い不安感を覚える。一体何があったのか。なぜこんな状況になっているのか。旧部の脳内には疑問が溢れ、胸中には締め付ける様な苦しさを覚える。

「気になる事は沢山あるだろう。だがこちらにも色々と手順というものが存在していてな。説明は後ほど、必ず行う。約束する」

 男性は旧部の心境を察したのか、丁寧に、優しい口調で語り掛ける。ここまでで旧部の意識もハッキリとしてきており、身体は拘束により動かせないものの微妙な触覚や聴覚によりある程度の状況の理解は進んでいた。その中で、今語り掛けられている男性の声にはやはり覚えがあった。面識程度ではあるが、聞いたことのある声だ。つい最近聞いたように感じるものの、どこか遠く昔のようにも感じる。

「済まないが先に、お前が覚えている最後の記憶を教えてくれないか。覚えている範囲で良い」

 旧部としても、色々と思う所はある。しかし、今はどうにもできないと、旧部は男性に促されるまま記憶を探り始めた。まず、思い出せたのはあのニュース。ACD財団の関係者が何者かによって拉致され、凄惨な遺体として発見されるというものだ。それから、研修施設前で迎えを待っている際に男性と少し会話したこと。そして、車高の高い車で男性とPositiveの二人が迎えに来たこと……。旧部は少しずつ口に出しながら、なぞる様に思い出してゆく。断片的になっていたり霞がかかる様にしてあやふやになっている記憶が多いが、時系列はしっかりとしている様だ。旧部の口に出ていく記憶は順調に掘り起こされており、最上階で助けられて、近くのビルの屋上へ飛んで移動したところまで来た様だ。

 「そうしたら突然、頭上から大きな塊のようなものが降ってきて、気がついたら屋内? で倒れていて、それで……」

 旧部の口が止まる。旧部の脳内には力なく、大量の血を流し倒れているPositiveの姿が映る。その瞬間、あらゆる記憶が急速に鮮明になり、霞や断片的な記憶が繋がってゆき、名前や顔を思い出してゆく。そして、大量の血を流し、倒れているPositiveのその顔も、ハッキリと思い出した。

「――子月ちゃんは!?」

 旧部を拘束するベルトが軋みを上げる。反射的に体を動かした弾みで何処か筋を痛めた様だ。旧部の表情が苦痛にゆがむ。

「安心してくれ。子月は今、騒げるほどに回復している」

 男性の言葉を聞いて、旧部は安堵したようで、表情が少し柔らかくなる。同時に旧部は男性の正体にも気が付いたようだ。この男性は黒瓦谷 勤慈。あの日、子月と共に旧部を迎えに来た男性だ。男性の正体に気が付いて、安堵の覚えた旧部の身体から力が少しずつ抜けていく。

「大丈夫か?」

「あ、はい……えっと、酷い姿で、倒れてる子月ちゃんが居て……えと……。覚えているのはそこまで、です」

 本当なら正直に答えるべきなのだろうが、旧部ははぐらかしてしまった。理由は単純で、以降の記憶は日に焼けた古い写真フィルムのように、不明瞭でいて断片的にしか分からない。それでいて浅い夢のように支離滅裂で、旧部自身それが何かを説明ができなかったのだ。はっきりと分かる事は、その時全身を猛烈な痛みが襲うものの、酷く冷静で全てが理解できていた自分が居たこと。それと、酷く醜い姿となり果てたPositiveが眼前に立ちふさがり、敵対していたということ。しかし、それが本当に記憶なのか、夢の出来事なのかは全くと言っていいほどに判別がつかないのだ。

「そうか、分かった。拘束のせいで分かりづらいだろうが、体調や身体の違和感は無いか? 些細な事でもいい」

 旧部は自身の身体に意識を向ける。今のところ、頭痛や吐き気などの不調は感じてない。拘束されているので何とも言えないが、気だるさや身体自体も特に問題はなさそうだ。とはいえ、微動だに出来ない現状、身体を始め何がどうなっているのかは分からない。しかし、拘束されている事が分かったことといい、旧部はあやふやであるものの確かに今までと何かが違う事を感じていた。

「よく、分からないのですが……なんだか、感覚が鋭いような、そんな気がします」

「ふむ、具体的に言えるか?」

「えっと、何と言えばいいか……。肌? であったり、耳とか……? とにかく、鮮明というか、細かい様な……?」

 旧部は曖昧な回答を返す。しかし、精神的にも鋭敏になっている状況下では、誰であってもこれを言語化しようとするのはかなり難しい事であろう。実際、旧部の身体に備わっている各感覚器から得られる情報はかなりの情報量だった。現在、旧部を拘束しているベルトの数はおよそ48個。両手両足に大小様々なベルトが合計44個。腰、腹、胸、首と、とびきり太いベルトで拘束されているのを肌感覚だけを頼りに知ったのだ。

 他にも、旧部の腰や背中には少し反発力を感じる。これはマットレスの様な物を背に、仰向けになっている事。手の甲や足の指先に感じる感覚から、少し厚めの掛け布団をかけてくれている事。それらを知覚する事により、旧部は意識を向けるだけで自身の身体の輪郭をハッキリと感じることが出来る程なのだ。

 ここまででもかなりの物だが、何より耳から入る情報もとても多かった。ずっと語り掛けてきた黒瓦谷は同じ部屋にいないという事に旧部は気付いていた。旧部の耳は黒瓦谷の声に僅かに混じるノイズや反響音、振動を感じ取っていた。これらの特徴は人の声帯からはまず出るものではない。更に声は部屋の上部、それも両端から聞こえていたことにも気が付き、黒瓦谷の声はスピーカーから流れている事にまで推察することが出来た。そのスピーカーから流れる声や音によって反響した細かな音により、この部屋の大体の大きさまでも脳内で理解することが出来たのだ。ここまで細かく、膨大な情報は以前の旧部は体感したことがなかったため、どう表現すればいいのか分からないのだ。

 ここまでで、依然と比べ物にならない程の感覚の鋭敏化は明らかな異常と言えるだろう。しかし、それとは別に旧部は非常に違和感を覚えていた。それは旧部自身の発する声。旧部の記憶にある声と質問に答える今の声には明らかな相違を感じている。単純な姿勢や息の吐き方などの違いからくる違和感ではなく、明らかに声音が高くなっており、響き方も以前とは全く違う。旧部の声は同年代の女性と比べると少し低めという印象だったが、今は少し幼くも元気な女の子といった印象の声をしている。

「私は……私に、一体何が……?」

 旧部の口から発せられた声は僅かに反響する。旧部が感じる『今までと違う』という感覚は異様なほどにはっきりと感じられるものだった。旧部の耳は反響音を受け取り、脳は耳からの情報を理解、解釈し、イメージへと変換する。それは寝台の細かい形状から部屋の寸法、縮尺に至るまでを精密に再現した一枚の3Dモデル。これを何ら意識をせず、さも当然と言わんばかりにイメージ出来るのだ。まるで意識と身体、自分が二人いるかのような乖離感。そんな感覚に気持ち悪さを感じていた。

「俺も回りくどいのは苦手でな……いいか、旧部。結論から言う。心して聞いてくれ」

 黒瓦谷は一層低い声を出す。そして、マイクにも入る程に大きく息を吸うと、ゆっくりと、ハッキリと言葉に出した。


「お前は、Positiveとなった」


 黒瓦谷の言葉は部屋を縦横無尽に駆け巡るもすぐに消えた。

「あの日、昏睡状態となったお前を保護し、それから今日まで既に3か月が経つ。その間、お前の身体は明確に変質した。念のため検査も行ったが、結果は結論の通りだ」

 黒瓦谷の言葉を聞いた旧部の口がだらしなく開く。旧部自身、みっともない表情をしていると感じる程だった。この世界で生きる以上、ゲノビリタに感染するリスクからは誰も逃れることはできない。

「りかい、しました……」

 旧部の口から出た声は小さく、そして震えていた。感染してしまったが最後、ただ運が悪かったと笑うしかない。最悪を想定し、覚悟していたはずだった事実は本当に笑えなかった。しかし、旧部は明らかに動揺しているものの、取り乱してはいない。何故なら、薄々感づいていたからだ。

 過剰ともいえる厳重な拘束は、変質した身体がだす未知数の膂力に耐える為であり、万が一にも暴走してしまっても抑え込めるようにするため。

 自身がPositiveになったという事実を知り、旧部は今まで見て見ぬふりをしていた現実に打ちのめされてしまった。およそ3か月もの間眠っていたとはいえ、旧部の意識ではたった数日の間の出来事に等しい。起きた出来事はあまりにもひっ迫しており、旧部の許容量を圧倒的に超えていた。

 旧部の脳内には様々な懸念や疑問が渦巻いている。その中でも特に強く懸念しているのは自身の身体の状態についてだった。

 常人を超えた旧部の各感覚器から得られる情報では、現状特に異変は感じていない。視覚も大幅に制限されているものの、見える範囲で自身の身体の輪郭に異常は感じていない。とはいえ、輪郭だけで判断は出来ない。今、旧部は人の形はしているのか、それとも人ならざる形をしているのか。仮に今は軽微な変質でも、いつかは大きく変質してしまうだろう。どちらにしろ、実際に見るまでは理解もできないだろう。思考だけがめぐり、憶測が脳内を飛び交い、根拠のない不安や恐怖が広がってゆく。呼吸は浅くなり、心臓は主張を強め始め、背中全体で湿気を感じ始める。旧部の脳裏には異形と化した吾島の姿が映る。

「今のお前の状態は非常に安定している。この安定の状態はPositiveの平均を大きく超えている。気休めにしかならないと思うが、それだけは伝えておこう」

 黒瓦谷の言葉を聞いても、旧部は実感を持てなかった。Positiveとなったものが一番恐れている事は、何も人でなくなるからではない。Positiveとなった者全てが抱え、いつ爆発するのかも不明な爆弾である「自我の喪失(ロスト)」を抱えているからだ。

 自我の喪失(ロスト)はその定義された言葉の通り、自我を喪失させてしまう。つまり、廃人となるのだ。目の前で話していたPositiveが突然苦しみ始め、すぐに気を失ってしまう。そのまま廃人となるケースは多数見られる。自我の喪失(ロスト)となったPositiveは植物状態に似た症状が現れる。しかし、植物状態と大きく違うのは、脳は活動していないのに、身体は大きく活動しているという事だ。心拍数は200台をキープし、体温は平均40度を超える。代謝が著しいほどに上がるものの発汗は全くなく、排泄物も出ることはない。そんな状態が五日ほど続き、エネルギーを使い果たしたPositiveは、次第に弱り始め、そのまま完全に生命活動を終える。

 自我の喪失(ロスト)は記録されている物でも数百万と発現例がある。しかし、いくら自我の喪失(ロスト)の発現の条件を調べても、これといった条件や原因を見つける事は出来なかった。あるPositiveはゲノビリタに感染直後。あるPositiveはおよそ70年程の時間をPositiveとして過ごした後に天寿を全うした。その際、脳死が確認され、死後硬直も始まっていたにも関わらず、心臓が動き始めたという。ただ、硬直が始まったからだという事もあり、30分も持たず心臓は停止したという。これらの事から、しばしば自我の喪失(ロスト)はPositiveにとって死と同義とされている。だが、自我の喪失(ロスト)はあくまでもPositiveとなったものが恐れる事。自我の喪失(ロスト)を引き起こした者の内、数パーセントの確立で真に恐れる事態が引き起こされるのだ。

 言葉にできない程の苦しみや悲しみでいっぱいになり、抗う事の出来ない衝動に動かされる。まるで強力な薬物を使用したかの様に生物が持つ様々な安全装置、制御装置は一切働かなくなり、肉体の限界を有に超えた力でただ暴れ始めるのだ。いくら自身が傷つこうが気休めにもならず、むしろ限界を超えてもなお滾る苦しみは更なる苦しみの呼び水となる。

 突然「カチッ」と複数の箇所から音が鳴った。全身から圧迫感が消えて、身体の様々な箇所が少し冷えを感じる。

「拘束を解いた。自分の身体だ、自分で確認するのが一番だろう」

 布団のなか、旧部は腕を動かすと、複数のベルトの様な細長い物が指や腕を滑ってゆく。旧部は掛け布団をずらさないようにそっと右手を出す。腕に触れる空気はどこか肌寒く感じた。旧部はゆっくりと自身の目の前に右腕を動かす。影になり少し見づらいが、間違いなく、それは自身の腕だ。人差し指、中指と指を動かし、肘を軽く曲げ、手首をゆらゆらと動かす。どの動きも旧部が思う通りの動きをしており、脳内の認識と目の前の動きは間違いなくシンクロしている。左手も布団から出すと、右て同様に目の前へもっていく。間違いなくこの両手、両腕は旧部自身の物だ。生まれた時から所有し、酷使してきた自身の一部だった。だが、旧部の記憶と合わなかった。3か月もの間眠りこけていたのだから腕は細くなり、色も薄くはなるだろう。しかし、旧部はもっと大きな違和感を覚えていた。

 旧部は元々薄いオレンジ色をした肌をしていた。美容意識はあったが、面倒に感じればどうしてもさぼってしまう事が度々あった。そのせいというつもりは無いが全体的に少し焼けていたりなど、肌質は人並だった。しかし、今旧部の目の前にある腕はそんな面影が見られなかった。今動かしている手と腕は眼前に近づけなくても分かる程にハリや艶が強い。光に照らされる腕は透き通るほどキレイな肌をしている。以前の旧部はこれ程の肌はしていなかったはずだ。手も記憶と照らし合わせると大きく違う。記憶の中の指より目の前にある指は細く、少し長い。サイズ感がつかめないが、掌の大きさも少し小さくなっているかもしれない。何処か儚げにも映るその肌は憧れも覚える程綺麗だと思えた。

「……」

 旧部は何も口に出さず、両手を動かして掛け布団を掴むと、ゆっくりと剥いだ。既に色々と思う所が旧部にはあったが、やはり腕や手だけでは判断をすることが出来なかった。首に力を入れ、見下ろすように自身の身体へ視線を向ける。旧部は緑色をした甚平の様な病衣を身につけていた。あの時と違い、下着姿ではない事が分かり旧部は少し安堵する。今更だが掛け布団もいい物だったようで、改めて触れると肌触りが良い。旧部は腕や肘を使い、腰を引きながら恐る恐る上半身を起こした。

 上半身を起こした際、頭部と腰、その両方の後ろに独特な刺激が走った。決して強くはなく、痛いわけでもない。ただ、今までに感じた事のない感覚だった。まるで、今までなかった部分に感覚があるような、若しくは感覚が引きのばされたかのような。とはいえ、頭部の違和感はすぐに理解できた。髪が異様に長いのだ。実は既に何度も視界の端に見えていたのだが、上半身を起こした際にはっきりと認識できた。

 旧部はベッドに乗る髪の毛を少しつまむと目の前へ持っていく。明りに照らされた毛先は光をキラキラと反射させている。影になっていても分かるであろう程の白さだった。旧部は前髪と思われる毛を少し摘まむとゆっくりと引っ張る。すぐにピンと張った髪は旧部の頭皮に小さな痛みを走らせる。間違いなく、この髪は旧部自身の物だった。

 旧部は確信をもっておかしいと感じた。髪色も、長さも説明がつかないのだ。旧部の記憶が正しければ、3か月前の時点で髪は長くても肩に掛かる程度の長さだったはずだ。それが太腿まで届くのではないかと思うほどに伸びている。髪の色もそうだ。旧部は素で茶髪だった。ストレスや後天的なアルビノ、何らかの色素異常等、考えられることもありはするものの、見える範囲で髪の毛を何度見ても毛先まで真っ白だ。生物として、この結果は異常だと言わざるをえないだろう。

 旧部は明らかな変化に戸惑いつつも、他に可笑しなところはないか自身の身体を見下ろす。手や腕は初めに見た通り、細さや肌の質が大きく違う。下半身はまだ掛け布団がかかっており、まだ足の具体的な様子は見えていないが、掛け布団のなかで動かす足に違和感はない。膝や足の指の感覚はある。肌の感覚も特段おかしくはない。掛け布団から盛り上がる足の輪郭と合わせても、大きな差異はなさそうだ。しかし、はっきり言って華奢な体格だと旧部は感じた。まるで成人女性の身体とは思えない程に。

「……ん?」

 旧部は何かに気が付いたようで、おもむろに両手を自身の胸に当てた。少しの沈黙と静止の後、軽く手を動かし、丹念に何かを確認する。ひとしきり何かの確認を終えると、ゆっくりと胸元の病衣に手をかける。そしてそのまま自身が見える程度に勢いよく胸元を広げた。

 「???」

 旧部は静止した。今、旧部は突如として現れた疑問にすべてのリソースが割かれていた。この瞬間だけ、旧部は自身がPositiveになったという大切で重大な事実を忘れていた。何がとは言わないが、小さい気がしたのだ。うつむき見る病衣の隙間から見えるのは胸。間違いなく、旧部自身の胸だった。しかし、今見えるものは今まであったはずの、女性としての尊厳の大きさが記憶と合わないのだ。もとより、旧部の尊厳は大きいとは言えなかったが、かといって小さい方でもない。それは旧部も理解している所で、認めるところでもあった。何がとは言わないが、旧部は学生時代、人並より少し小さい事をコンプレックスに感じていた。だが旧部は孤独にも旧部なりの努力をして人並に大きくしたのだ。本当に効果があったのかについては不明だが、その事実は旧部にとっては少し自信になっていたし、大人になったという自覚にもつながっていた。何がとは言わないが。

 みっともない姿勢のまま、旧部は思考が停止していた。見かねた黒瓦谷の咳払いが部屋に響く。旧部は突然の咳払いに肩が跳ねたものの、今の姿に気が付き少し赤面しながらそっと病衣を整える。この問題は旧部が一人の女性として、一定のプライドも関わる無碍にすることはできない大事なところではあったが、今はそれ以上に、気にすべき事がある。

 実のところ、ずっと気になっていた事ではあった。胸の事で少し飛んではいたが、この感覚はまずありえないものだと旧部は感じていた。手で触れればすぐに分かるかもしれないが、旧部は未知に対する勇気が持てなかった。それは上半身を起こした時に感じた腰の刺激。それは意識をせずとも何とも奇妙な感覚を旧部に届けてくるのだ。旧部は意を決して腰に感じる奇妙な感覚を頼りに意識を向けてみた。すると思ったよりも鮮明に情報を得ることが出来た。

 言葉に表すのは難しいが、結論としてこれが何であるかを旧部は理解した。『それ』は尾てい骨辺りから伸びている感覚があり、とても細長い。『それ』はある程度しなやかに動かすことができ、付け根部分が一番動かしやすい。それはもはや本能に近い答えの導き方だった。だが理性と知性はその本能的な答えを受け入れる事は出来なかった。それは今まで旧部に存在しえなかったものであり、当然『種』としても既にありえないものだったからだ。頭では受け入れられずとも、身体は既に自身の一部として認識していた。その細長い物に意識を向ければ自在に動かすことが出来る。思ったよりも重量があるようで、軽く動かすだけでも重心がズレる。ゆらゆらと動かしてみると露出した腕や肘、首筋にもわずかに風を感じる。

「これ……」

 旧部は口に出してみようとするも、踏ん切りがつかないのか言葉に詰まる。旧部の脳内のキャパシティは既にいっぱいになっていた。既に事実は理解している。しかし、その事実が意味する現実には理解しきれていない。もし今、脳が理解すれば間違いなく旧部はパニック陥るだろう。旧部自身、その自覚があったし、そうなる自信もあった。

「大丈夫か?」

「はひっ……! は、はい。大丈夫です」

 相当緊張が高まっていたのだろう。突然黒瓦谷に話しかけられ、旧部の身体がビクリと大きく反応し、口からは情けない声が出てしまった。旧部は全身の毛が逆立つ感覚を覚え、顔も酷く熱を感じた。

「ゆっくりでいい。立つことはできるか?」

 旧部は顔を赤くしながらも小さく頷くと、下半身に掛かっていた布団に手を掛ける。膝を曲げ、ゆっくりと掛け布団を剥ぐと隠れていた下半身が露になる。病衣から繋がるその足はやはり白く、細い。これで病衣の下以外の全身は確認できた。髪の毛や腰の違和感、四肢や肌と違和感は沢山あるものの、人の形は容易に保っている。この事実をどう解釈するかは別として、今のところゲノビリタの影響と考えられる部分は少ないと言えるだろう。旧部は漠然と安堵感を覚えた。

 旧部はそのまま、自身の足をベッドから出す。宙に投げ出された足へ当たる空気の感覚はとても新鮮に感じられた。旧部はベッドの端に腰をずらし、足を床に着けようとしたが、届かなかった。どうやらこのベッドは旧部の身長よりも高さがあるようだ。

 旧部は慎重に腰をずらし、手で身体を支えながらゆっくりと指先を床につける。そのまま飛び降りるかのようにして勢いをつけて腰をずらし、細い両足で床を踏みしめる。着地の瞬間、足に上手く力が入らず少しよろめいてしまったが、ベッドを支えとすることでなんとかバランスを取ることが出来た。

 同時に腰から伸びた『それ』は滑り、ベッドの下へと落ちる。勢いがついていたこともあり、僅かではあったものの重心が後方へとずれる。ふくらはぎやアキレス腱辺りにはふわりとした感触と、まるでハケにでもつつかれたようなこそばゆい感覚もある。今下を向けば『それ』を少し目視できるだろうが、反射的に『それ』を後ろへ伸ばしてしまい、更に重心がズレてしまった。旧部は自身を落ち着かせると、ベッドから手を離し、顔をあげてゆっくりと足を前へと出した。一歩踏み出すと同時に足の全体に自身の身体の重さと振動を感じる。少しふらつきながらも、何とか歩くことが出来た。旧部はベッドから少し離れると、改めて辺りを見渡した。耳から得られる情報により、ある程度の事は分かっていた。だがやはり、目から得られる情報の方が、より鮮明に、より事実を事実として実感する事が出来た。

「あの、これ……ここは……?」

 旧部は困惑した表情を浮かべ、部屋を見渡している。中央にベッドが置かれたこの部屋は想像よりも広く、天井も高い。床、壁共に白を基調とした一色に統一されており、酷く殺風景な景色の中に無骨なベッドが浮いて見える。旧部もそうだが、誰もここが病院であるとは思えないだろう。だが、それ以上に不可解なことがある。それは気が付いたからこそ感じ取れた感覚であり、部屋という概念を根本から崩すものだった。

「気づいたか。安心しろ、出入りは出来る」

 黒瓦谷は旧部の疑問を察し、淡々と答えた。しかし『出入りは出来る』と言われても、旧部の目に映る光景からは、そうは思えなかった。四方の壁にはどこを見ても扉は見当たらず、窓や換気のための通気口ひとつ見当たらないのだ。それは床や天井も同じで、まるで密閉された箱の中に居るような感覚を旧部は覚えた。

「旧部、お前自身の状態はある程度理解出来たと思う。少し席を……おいまて、いつの間に……」

 何かに気が付いた黒瓦谷は突然深いため息とともに言葉を失った。旧部は理解できずにいると、突然部屋が大きな音を立てながら揺れ始めた。旧部はとっさにベッドへ近づくと、手と腰をもたれるようにして身体を支える。突如正面の壁が一部動き始め、つなぎ目に沿って奥へとズレてゆく。数十秒程かけておよそ1メートルずれると、今度は壁が上へと昇ってゆき、暗闇が広がった。すぐに暗闇の奥から頑丈そうな足場が伸びてきて、たちまち大きな通路となった。数分掛かった大げさな仕掛けが揺れと共に治まり、旧部は困惑しつつもベッドから離れ、現れた通路に近づく。通路の周りに明りはなく、近くから見ても周囲は暗闇だった。しかし、通路の奥にはどうやらまた別の通路が存在している様で、目を凝らすと、奥に小さく明りが点いている様だ。

「……? 何? この音」

 旧部の耳は通路の奥から何かの音を聞き取った。旧部は警戒するかのように通路の暗闇を凝視する。音がだんだんと大きくなり、それはキュルキュルとキャスターの様なものの音だということが分かった。次第に音はどんどん大きく、辺りに響いていく。そして、通路の暗闇の中から、布を被った大きな物が一人でに旧部の居る部屋へと向かってきているのが見えた。突然起きた謎の展開に旧部は軽くパニックになり、すぐにベッドの上へ飛び乗ると、布団と膝を抱えて座り込んだ。布を被った大きな物は、部屋に入るとゆっくりと旧部へと近づいてゆく。旧部はベッドの真ん中で顔を強ばらせてじっと見つめていた。布を被った大きなものは旧部の近くまで来ると突然動きを止めた。旧部はまるで警戒心を露にした猫のように微動だにせず凝視していた。

「おっはよー朱璃ちゃん!」

 突然大きな声と同時に見知った顔が大きなものの後ろから覗き込んむように現れる。旧部はこれまた猫のようにびくりと身体を反応させる。

「目が覚めたと聞いて飛んできたよぉ!」

 物陰から出てきたその顔は子月だった。子月は満面の笑みを浮かべ、はねながら旧部の傍へ走ってきた。旧部の強張っていた顔はすぐ晴れやかな表情となった。

「しかしまぁ、聞いてたけどこれは……ほほぅ」

「えっ、あ、ちょっ……!」

 子月はベッドの上の旧部へ急接近すると、そのまま自身もベッドの上に登り旧部へ急接近する。子月は旧部へ顔を近づけ、旧部の周囲を器用に移動しながら旧部の全身をまじまじと眺め始めた。旧部はどんな感情を抱けばいいか困惑していたが、子月の元気そうな姿を見られて安堵と共に嬉しく感じていた。しかし、子月もまだ本調子とはいかない様子だった。頬には大きなガーゼが1枚貼られており、包帯も頭部に巻いている。子月も纏っている病衣の隙間から、至る箇所にガーゼや包帯が見える。とはいえ、ここまで元気なのであれば、この心配は杞憂に済むだろう。

「お前、まだ安静にしていろと、言わなかったか……?」

「終わったらすぐ戻るよ? だけど一気に済ましちゃった方が、朱璃ちゃんの為にもなると思うんだよ」

「そういう問題では……!」

 黒瓦谷の怒気を含む言葉に対して、子月の飄々とした様子に黒瓦谷は言葉を詰まらせる。黒瓦谷はしばし間をおいて深いため息をついた。

「次やったら、ここ以上に窓も扉もない密室に閉じ込めるからな」

「うわぉ……わかった! 分かったから、それだけはやめてくれない?」

 黒瓦谷の声はドスが効いており、本気なのかはともかく、冗談ではない事が良く分かる声だった。流石に子月も分が悪いと感じたのか少しバツの悪そうな表情を浮かべる。

「あー……。これ以上はホントに殺されそうだから、さっさと済ませちゃおうか」

 子月はベッドから降りると、子月が押して持ってきた布を被った大きな物へと向かった。旧部は子月の後を追う様にしてベッドから降りると、少し駆けるように子月へ近づく。

「朱璃ちゃんはここね」

 子月は指をさして旧部へ指示を出す。旧部は子月の指さした場所へ立つと、布を被った大きなものが正面へ来た。子月は大きなものの隣へ軽やかに向かうと、旧部の位置を細かく確認しながら位置を調整し始めた。改めて見ると、とても大きい事が良く分かる。子月と比べると高さはおよそ三倍近くあり、横幅も二倍近くある。ただ、奥行きは無いようで、布を被っていても分かる程に薄い。

「もしかして、これって……」

「そ。……よし。準備は良い?」

 旧部の曖昧な問いに子月は軽く答える。そして調整が終わったのか、子月は布に手をかけると旧部へ顔を向けた。旧部は子月の行動の意図も、布の内側にあるものも察することが出来た。子月が言っていた『一気に済ませる』と言うのは、そういう事なのだろう。旧部はあくまでも今の状況を暫定的に理解しているに過ぎない。あくまでも感覚や推測でしかなく、まだ事実を知っているわけではないのだ。

 旧部は肩を動かして大きく息を吸う。肺に空気が満ちた事を感じると、ゆっくりと時間をかけて肺の空気を吐き出した。ゆっくりと自然な呼吸に戻すと、旧部は見つめる子月の目に視線を合わせ、小さく頷いた。子月は旧部の頷きに小さく頷き返すと、全身を使って勢いよく掛けられていた布を外す。暗闇から一瞬の間に光を反射する何かが現れた。その何かを見て、旧部は固まってしまった。

「え……?」

 旧部の正面。顔を向けた先には子月がいた。外された布はバサバサと大きく音を立てて床へ落ちていく。しかし、旧部の耳には届かなかった。旧部の正面に立っている子月は先ほどまでの様子とは打って違う。酷く驚いた情けない顔をして、真っ直ぐに旧部を見つめ立ちすくんでいた。

「えい!」

 困惑する旧部に子月が飛びつくようにして抱きついた。突然の衝撃に旧部は一瞬ふらつくも、すぐに踏ん張り姿勢を保つと抱き着いてきた子月へ顔を向ける。

「お〜! こうして見ると面白いねぇ!」

 子月は楽しそうな声と表情で正面を見続けている。先ほどまで正面、それもそれなりの距離があったはずなのに、いつの間に隣へ移動したのか。旧部は疑問を向けたものの、子月は一切顔や視線を動かさない。旧部は釣られるように子月の視線の先へ向ける。そして、情けない声を上げて固まってしまった。

「まるで双子みたいだね。そう思わない?」

 子月はクスリと笑いながら優しく語りかけてくる。子月の視線の先には子月が二人居た。一人は真正面に立っており、もう一人は真正面の子月の肩に寄りかかるように隣に立っている。

 正面に居る子月は立ち尽くし、呆然とした表情を浮かべている。その隣にいる子月は何処か面白い物でも見るかのような微笑みを浮かべている。しかし、明確に違う点として、微笑みを浮かべる子月の頬には大きなガーゼが1枚と、頭部に包帯を巻いているのだ。

「こんな……こと、って……」

「ね。ボクもびっくり」

 真正面の子月は、今の旧部同様に呆然とした表情で立ち竦んでいる。反対に、その隣の子月は小さく体を揺らしたり、楽しそうな表情を浮かべていた。旧部は自分でも驚く程の速度で自問自答を繰り返していた。しかし、正面隣の子月の頬には大きなガーゼが1枚と、頭部に包帯を巻いている。それは今隣にいる子月の容姿とそっくりだ。更にダメ押しと言わんばかりに、旧部の隣の子月が喋れば、正面の隣に居る子月の口元も同じように動く。その動きに違和感は感じない。

「もう分かったと思うけど、この際だから言っちゃうね」

 子月は旧部の傍を離れ、正面へ移動する。いつの間にかあった柱のような枠の隣で立ち止まる。今、旧部の正面には立ちすくむ子月と、枠の隣に立っている子月の2人が居る。旧部自身の隣には誰も居ない。


「朱璃ちゃん、君はボクに激似な姿になっちゃいました!」


 子月は枠を支えに身体を乗り出して満面の笑みを浮かべている。子月の高らかとした声はすぐに辺りは静まり返る。旧部は呆然としながらも、確かめるためにゆっくりとした歩幅で正面の自分に近づき、右手を上げる。正面にいる子月の姿をした旧部も、同時にゆっくりと近づき、同じように左手を上げる。互いに手はシンクロしているかのように、全く同じ揺れ方をする。そのまま互いに手を近づいてゆき、そのままぴったりと指を合わせる。指先に感じる感触はとても硬く、ヒヤリとした冷たい物だった。合わせた指を動かさず、不自然にかかる影をなぞるように、そのまま手のひらをゆっくりと合わせる。指同様に硬く、ヒヤリとした感触が手のひら一杯に感じられた。間違いなく、これは鏡だ。目の前に映る子月は、今の旧部の姿である。

「旧部!」「朱璃ちゃん!」

 黒瓦谷と子月の声が響く。何が起きたのか分からなかった旧部はキョトンとした表情を浮かべていた。緊張の糸がほどけたのか、旧部は膝から崩れてその場にへたり込んでしまったようだった。子月が急いでへたり込んだ旧部へ駆け寄ると、子月は膝をついて旧部の身体を支える。

「朱璃ちゃん、大丈夫?!」

「あ……えっと、うん、大丈夫。なんか、気が抜けちゃって……」

 旧部は苦笑するも、その顔色は何処か明るい。旧部は落ち着いた様子で、自身の両手を握ったり広げたり、手のひらと手の甲を数度返しながら眺める。手の動きを止めると少し腰を捻り、自身の背後を見る。そして小さく頷くと自身の腰に下がっている細長い物に手を伸ばした。

「わっ……こんな感じなんだ」

 旧部は恐る恐る細長い物に手を伸ばすと、ゆっくりと持ち上げて膝の上に待ってくる。未知の感覚に戸惑いながらも穂先の方から伝う様に手を這わせてゆくと、やがて自身の腰にまでつながっている事が良く分かった。これは間違いなく旧部自身の尾であり、旧部の尾骨辺りより伸びている物であった。子月の持つ尾と同じように真っ白で長く、毛量の多い尾であった。

「なんだか不思議な感じ……」

 旧部は自身の尾の付け辺りを中心に手を使い確かめる。その後、今度は付け根から尾先までをなぞる様に、ゆっくりと手を這わす。ひとしきり自身の尾を堪能した後「そういえばこっちは……」と呟くと自身の尾から手を離し、旧部自身の頭部へと手を伸ばす。

「ふぁっ? あ、あぁ~……こんな、感じなんだね……?」

 旧部は自身の頭部にある大きな耳を触った。始めはおっかなびっくりという感じだったが、次第に感覚に慣れたのか、黙々とさすったり、揉んだりと色々と触りだした。

「えっと、朱璃ちゃん? 大丈夫?」

 すっかり自身の世界に入り込んでいた旧部に対して、子月は苦笑いしながらも旧部に声を掛ける。

「あ……あはは、うん。おかげさまで」

 旧部は少し恥ずかしそうに、顔を赤くするも、すぐに真剣な表情を作る。

「なんて言えばいいんだろ。霧が晴れたとかじゃなくて、まるで水が掴めたような、そんな感じ。でも頭では分からなくて、直感とか、感覚だけがわかる。みたいな感じなのかな……」

 旧部は自身の尾を抱えると、考え事でも始めたのかまた自身の世界に入ってしまった。子月は腰を曲げて旧部の顔を見る。おもむろに旧部の目の前で手をひらひらとさせるも、見事に反応ひとつ起こさない。

「……」

 子月は何を思ったか、旧部の目の前にあった鏡をよけると旧部の正面に回ると、旧部と同じようにその場でへたり込むように座り、自身の尾を抱える。異様な光景になったが、その様はまるで鏡のように左右対称の構図だった。子月には身体中に包帯やガーゼなどもあるため、どちらかと言うと間違い探しにも見えなくない。二人して微動だにしないのがそのように見える要因だろう。この様子をモニター越しに見ていた黒瓦谷は声を掛けるべきなのか、それともそっとしておくべきなのか、かなり悩んだ。

 およそ一分ほど続いた謎の空間は二人が同時に同じ方向へ顔を向けた事で終了した。何かを察知したのか、二人が顔を向けたのは開いたままの暗い通路の先。次第にゆっくりとした足取りで大柄な人影が現れた。そのままゆっくりと部屋へ入ってきたのは、二足歩行の真っ黒な狼だった。大きな狼は白地の短パンにオーバーサイズな黒いTシャツを着ていた。

「あ、カグロ。どしたの?」

 子月が呼んだカグロという名前は旧部も聞いたことがあった。旧部は曖昧ながらも、攫われたあの時に旧部と子月の救出に来たPositiveの一人だと気付いた。カグロは二人の様子に気が付くと、少し呆れたのか肩を少し落として足を止めたものの、再度二人にゆっくりと足を向かわせる。

「楽しんでいるところ悪いが、そろそろ自分の事も気にしてくれ。マモル」

「あ~……自分の事、ね? まぁ、うん。そう……だね?」

 子月は露骨に嫌そうな顔を浮かべ、カグロから目を背けている。旧部はカグロの口元が動いていないことに気が付いた。あの日、助けに来た時もそうだったが、口元は動いていないのにもかからず、声はハッキリと聞こえる。一瞬、高等な腹話術なのかとも思ったが、思い返すと違和感を感じた。旧部は以前の立場からPositiveとなったものと少しだが交流を持つ事があった。胸から上が完全に変質してしまっていた者、カグロのように全身が変質してしまっている者。嘴を持つものに裂けたように大きな口を持つ者など、様々なPositiveと何度か話す機会はあった。しかし、旧部の記憶が正しいのであれば皆口元は動いていたはずだった。動きこそ違えど、皆一様に口を開き、動かし、声を出していた。それに、やはりカグロが発する言葉に重なる様に小さな唸り声も聞こえる。

 カグロは気まずい表情で目を背ける子月を見ると、カグロは子月の傍へ数歩近づくと膝をついて子月を諭し始めた。

「既に用は済んだ。問題もない。ならば、いつまでも此処に居るのは、旧部にとっても良くないだろう?」

「まぁ……うん。それは、そうだね……」

 カグロの縦に割れた瞳孔を持つ黄色の瞳は真っすぐに子月を捉える。子月は一瞬旧部に目を向けるも、すぐに折れたのか露骨にうなだれながら渋々立ち上がった。その様はまるで対外的には大人を装うものの、親元へ帰れば素の自分をさらけ出せる少し大人びた子供のような印象だ。子月のうなだれる姿を見てカグロは小さくため息を漏らすが、すぐに旧部の方へ顔を向ける。先ほどまで子月に向けられていた黄色い瞳が真っすぐに向けられる。

「すまない。目覚めて早々、騒がしくした」

「い、いえ。むしろ助かりました……」

 突然の謝罪に旧部は何と返せば良いのか困惑してしまい、当たり障りのない返答をしてしまった。しかしカグロはどことなく柔らかい笑みを浮かべると、その場で立ち上がり、顔をあげて黒瓦谷へ話しかける。

「黒瓦谷、マモルのついでにはなるが、旧部も連れて行こうか」

「……あぁ、すまん。手間を掛けるが、よろしく頼む」

 カグロは小さく頷くと、旧部に顔を向けた。カグロはそのまま旧部に近づくと座り込んだままの旧部に手を差し出した。

「立てるか?」

 旧部は小さく頷くと差し出されたカグロの手を取る。カグロは手を握ると勢いよく旧部を引き上げる。引きが強かったこともあり、旧部は姿勢を崩すも、カグロがすぐに支えた事により転倒はしなかった。

「すまん。大丈夫か?」

「う、うん。大丈夫」

 旧部は少し気恥ずかしさを感じた。ふと視線を感じて顔を向けると子月が少し難しそうな表情を浮かべて二人を見ていた。旧部は瞬時に察知すると、カグロから離れる様に一歩下がった。カグロは特にこれといった反応をする事は無かった。

「これからお前を黒瓦谷の元へ連れていく。部屋の外に車いすはあるが、必要か?」

「へ? あ、いえ。多分大丈夫、です」

「そうか、辛くなったら言ってくれ。その時は俺が抱えていこう」

 カグロはそう言うと子月に顔を向ける。

「マモル、行こう。……マモル?」

 子月はその場で立ったまま少しうつむき、口に手を当てて考え込んでいた。その表情は何処か深刻そうな表情を浮かべている。カグロは子月の傍に寄ると膝をついて子月の顔を覗き込む。

「マモル?」

「んっ!? あ、えっとぉ……なんでもない、よ? うん! なんでもない、なんでもない……」

 子月は平静を装うとするが、動揺していたのは一目瞭然だった。

「あ、車いす! 朱璃ちゃん要るよね! ちょっと取ってくる!」

「あ、えっと――」

 子月は旧部の声を聞くことも無く部屋を飛び出していった。あまりに唐突だったため、旧部とカグロは何も動くことが出来なかった。

「あんな様子のマモルは見たことが無いが、一体……」

 すぐに車いすを押しながら帰ってきた子月を見ながら、カグロは心配そうな表情を浮かべて小さく呟く。旧部は何となく気が付きながらも、子月と自分自身の目が気になり口を開く事が出来なかった。

導入第一話、次で終わりです。

下書き、というより話の大筋は大体2週間程度あれば出来上がります。肉付け自体もそこまで問題なく出来るのですが、細かな日本語やら言葉やら流れやら、一度気になると凝り性やら被害妄想やらが加速してしまうのでそこが目下課題となってます。今回もそういう感じに加えて気力云々もなくなってたので次回もそういう感じになるかと思います。

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