1.3 - 変質
「イッタイなぁ……まぁ、おかげで下手な芝居しなくて済んだけど」
子月は悪態をつきながら軽く体を伸ばして立っていた。しかし、子月の状態は「痛い」なんて軽く言うレベルでは到底あり得ない。切り傷や擦り傷、青あざを始め裂傷、刺創、火傷痕まで、四肢や胴全体、挙句顔にまで容赦なく見える。何も着ていないと言われてもすぐには分からない程素肌の色が見えない。その中でも子月の細い両足は見るも堪えない状態だった。どちらも青あざと血で汚れているのだが、右足には人差し指が通りそうな程の大きさの穴が穿たれている。このキズは銃で撃たれた際のものなのだろう。左足は特にひどく、足首から腰の付け根までにかけて真っ青になっている。普通であれば立つ事はおろか、正気ですら居られるわけが無い。
旧部はその場にへたり込んだまま子月を見つめていた。旧部の目は大きく開き、口もだらしなく開いている。その表情には驚きは勿論、目の前の光景に対する戸惑いも見える。そんな表情の通り、旧部は未だ状況を理解できずにいた。旧部の目の前で立っているのは確かに子月護留だ。先ほどまで口から赤く滲んだ泡を吹き、今にも意識を手放してしまいそうになっていた筈の。
「バカな……その足は、完全に粉々になっていたはず……!」
胴体、腕を無数の糸によって床に伏せる様に拘束されていた吾島が子月を見て声を荒げる。吾島の見せる表情は旧部と似ていたが、旧部との大きな違いは、その表情に確かな恐れが表れている所だろう。吾島の叫びに旧部は記憶が思い起こされる。あの時、特大通りで襲われた時だ。子月はあの大きなPositiveに足を押しつぶされていた。ズボンに隠れていて、実際の状態は知る由も無かったが、ただ事ではなかったことは嫌でも理解できていた。
「あ、これ? 治したんだよ」
「は?」
「だから、治したの」
子月はあっけらかんとした表情と声答えると、おもむろに左腿を上げる。そしてそのまま左足を左右にプラプラと振り始めた。足首はだらしなく揺れるが、脛、共に太腿は全く揺れることなく、その動きに可笑しな部分は見られない。吾島はいよいよ恐怖心を抑えられなくなったのか、顔を引きつらせて黙ってしまった。
子月の様子を見かねたのか、後方に居た狼面のPositiveは小さくため息をつくと、自身の着ていたジャケットを脱いだ。そのまま子月の傍に行くと何も言わずに裸同然の子月にジャケットを羽織らせる。
「ぁイッ……ん。ありがと」
子月は一瞬痛みからか顔を歪めるも、何処か嬉しそうな表情を浮かべて狼面のPositiveに礼を言う。狼面のPositiveは何も言わずに顔を少し背けた。羽織らされたジャケットは子月の太ももまで丈があり、袖に手が通らないのは見て分かる。子月はそのままその場に拘束されている吾島に顔を向けると、痛々しい足を動かして近づいてゆく。
「おい、まてお前」
トカゲ面のPositiveが子月に声を掛ける。子月はきょとんとした表情で立ち止まるとトカゲ面のPositiveに顔を向けている。
「いや、『何?』じゃねぇよ。閉めろよ。前」
「前?」
トカゲ面のPositiveが子月に指摘し、子月はつられて顔を下に向けて自身の姿を見る。トカゲ面のPositiveの指摘はその通りで、幾ら全身の傷が酷いとはいえ、大事なところを全く隠していない。子月は「ぁ~……」と小さい声を出す。
「……高尚な性癖持ち以外にはウケないし、べつに……」
「アホか」
トカゲ面のPositiveはその後も子月にジャケットの前を閉めさそうとしていた。しかしあぁだこうだと頑なに子月は拒み続ける。その後、色々あってトカゲ面のPositiveと子月は取っ組み合いにまで発展した。お互いがお互いの手を高い位置で握り膠着している。子月の主張も根幹は「痛い」というもので、拒むのも無理は無いと思ったのだが、この絵面は如何なものなのか。旧部は訝しんだ。
「ケガはない? 朱璃ちゃん」
突然声を掛けられ旧部の肩が跳ねる。横にはいつの間にか猫の面をしているPositiveが膝を曲げて旧部を見ていた。
「ふふふ、ごめんなさい。つい癖で」
猫面のPositiveは何処か面白そうな声をだす。猫面のPositiveはそのままへたり込む旧部の身体を軽く調べだした。
「怪我はなさそうだけど、何処か痛い所はある?」
「い、いえ。大丈夫、です」
子月たちは未だ膠着したままの体勢で居た。もはや説得と言い訳ではなく、ただの喧嘩の様になっていた。しかし狼面のPositiveが子月の背後を取る。そのまま大きな手を前にまわして子月の羽織るジャケットを問答無用に閉め始めた。トカゲ面のPositiveは手を放して数歩下がったものの、子月は両手を高い位置に出したまま静止していた。痛がっているのだろうが、子月の表情は何処かコミカルにコロコロと変わってゆくせいで何故かそうには見えなかった。
「可愛いわよね。あの子たち」
猫面のPositiveは子月たちの様子を見てどこか優しい声を出した。「可愛い」で済ましていいのか旧部は分からなかった。子月は片腕ずつ、ゆっくりとジャケットの袖に腕を通された。袖に通し終わり、痛がりながらも子月は先ほどと違って大人しく着ている。やはりかなりオーバーサイズで、もはやワンピースの様にも見える。袖の長さも七分丈になっても手は出ないだろう。一連の様子を間近で見せられていた吾島の顔は何処か気の抜けた表情をしていた。
少しして子月は落ち着いたようで、呆然と眺めていた吾島に顔を向ける。そして子月はまた吾島へと近づく。近づいてくる子月に吾島は眉を歪めるも、何も口には出さず子月に顔を向けた。子月は吾島の近くで足を止めると、「さて」と小さく口に出して改まった様姿勢を正した。
「現時刻をもって君たち籐獅組は器物損害、略取、監禁、傷害諸々の容疑で第一級Crimitive集団として断定。籐獅組の全構成員、建物等すべてを差し押さえて財団へ引き渡す。三週間前の違法取引も裏取りは済んでるから、財団のおバカさんと一緒に話してね」
吾島は子月の言葉を理解したのか、口を堅く結んで顔を伏せる。吾島の震える拳は現状を認める様に、諦める様に力を緩めた。
子月の言ったCrimitiveとは端的に言うと犯罪を行ったPositiveの事を指す。Crimitiveには厳密な定義があり、定義により警戒度、危険度等を含めたレベルが設定されている。とはいえ近年では単に犯罪者としての意味合いが強く、Positiveに限らず、一括りにされがちである。当然レベルに関しても法の管轄外では区別されていない。
そして、次いで出てきた財団とはACD財団の事だろう。全くの無関係とは思っていないが、子月を含め赤いジャケットを着ているこのPositive達は財団とどういった関係なのか。今更ながら、旧部は少し不安感を覚えた。
「と、いう訳で。これにてボク達はお役御免だね。みんな、お疲れ――」
子月はそういい終わるや否や、ふらりと倒れそうになる。すかさず狼面のPositiveが子月を支える。
「無理するな」
「あぁ~……うん。ありがと、カグロ」
子月はそう言うとカグロと呼んだ狼面のPositiveに対して笑みを見せる。しかしその笑みには先ほどまで見せていた余裕は無く、疲弊の色が見える。
「……で」
掠れた小さな声が聞こえる。
「どこからだ。我々は、どこから……?」
声は吾島のものだった様だ。弱々しい声を出して吾島は子月に疑問をぶつける。吾島の悲痛の叫びは虚しくも響く。子月はカグロの手を借りて立ち上がると、子月は考える仕草取る。そしてすぐに、小さく口角を上げた。
「ボク達に喧嘩を売ったところから。かな?」
子月は得意そうに言った。それを聞いた吾島はまた顔を伏せ、口元をゆがませる。しかし、すぐに力を抜くと「そうか……」と呟き、諦めたように口角を上げた。
「お、お待たせしました!」
突然若い男の大きな声が響く。旧部は声のした方へ顔を向けると、割れたガラス片の上に新しいPositiveがそこに居た。このPositiveも同様の赤いジャケットを羽織っており、兎の様な面を着用している。このPositiveは大きなバッグを背負っているが、それ以上に下半身が異様にメカメカしい。兎面のPositiveはきょろきょろと辺りを見渡し、旧部を見つけると「あ、居た!」と声を上げて旧部に近づく。
「えっと……こ、これを」
兎面のPositiveは旧部に近づくと、おどおどしながら背負っていたバッグから小さく、白い物を取り出した。そのまま旧部に手渡すと、兎面のPositiveはそそくさと立ち上がり「で、では!」と言って子月の方へ向かっていった。旧部の掌にはイヤホンの様なものが乗せられていた。
「着けてみて。貴方も知っている人よ」
猫面のPositiveに促され、旧部は恐る恐る耳に装着する。片側しかなかったが、装着されたイヤホンからは猫面のPositiveの言う通り、聞いたことのある声が聞こえた。
「聞こえるか? 俺だ、黒瓦谷だ」
「黒瓦谷、さん……?」
旧部は聞いた覚えのある声に徐々に全身の力が抜けてゆくのを感じた。
「まずはお前を巻き込んでしまったこと、本当にすまない。今回の説明は後日、必ずすると約束する」
黒瓦谷の声は非常に落ち着いていながらやさしく聞こえた。
「各員に示達。もうすぐ財団関係者が現場に到着する。ウラタギとハギは現場の引き渡し。カガリは旧部を下の昼行燈に預けろ。後は先ほどの通信通りだ」
猫面のPositiveを始め、多くの赤いジャケットを羽織ったPositive達が「了解」と返事を返していた。
「もしかして、ボク仲間外れ?」
子月はブカブカの袖のまま耳に手を当てている。
「……お前は当初の予定通り、カグロと共にヒノの元へ行き一足先に離脱だ。異論あるまい?」
「はい、はい。分かってるよ。だけど先に確認しておきたいことがあるんだ。寝込んじゃう前にね」
黒瓦谷は少し沈黙した後に大きくため息をついた。
「お前の無理は既に許容範囲を超えている。手短に済ませ」
「ん。ありがと」
子月はそう言うと耳に当てていた腕を下げて吾島の方へ顔を向けた。先ほどまでの気の抜けた表情は無く、大きなその瞳は何処か鋭さも感じられる。吾島も気が付いたのか、顔をあげて子月を見る。
「一足先に答えてもらうけど、今回のボクたちの略取。ターゲットは『これ』を着た奴らをおびき寄せる為、という事でいいんだよね?」
そういうと子月は腕を少し上げて羽織っている赤いジャケットを強調する。
「……あぁ。その通りだ」
吾島は観念したような表情を浮かべながらも、子月を真っすぐに見つめ肯定する。子月はその様子を見て小さくうなづく。
「じゃ、も1つ質問。あのビートとかいう奴は何者?」
「……ビート?」
「ボクたちを襲撃した三人の中の一人。そのうちのでかい奴にそう呼ばれてた。細くてへらへらしてる癖に、ボクの足のど真ん中を撃ち抜けるほど、銃の腕はすごい奴」
子月の質問に吾島は考えるように沈黙する。旧部もおぼろげながら覚えていた。あの時、突然爆発が起きた後、旧部を避難させようとした子月の足を撃ちぬいた奴だ。大きなPositiveの印象が強かったものの、確かに覚えている。
「すまない。役職が付いている者の顔と名前は憶えているが、その名前は聞いたことがない。それに――」
吾島は突然口を止め、硬直してしまった。吾島の身体は暫くすると小刻みに増えだす。異変に気付いた皆が吾島に顔を向ける。吾島は大きく目を見開き始め、脂汗を出し始める。
「ぁ……ぁあ……がっ!」
吾島は突然、全身を無茶苦茶に動かして暴れ始めた。その表情は苦痛に大きくゆがんでいる。吾島を拘束している糸もギチギチと音を立て、苦痛に漏れる声も、双方どちらもどんどん強くなってゆく。
「おい! まさか――」
トカゲ面のPositiveが大きな声を上げると同時に、瞬きをした1フレームには何かを思い切り振りかざす子月の姿があった。先ほどまでと位置が大きくずれている。それに、子月の振りかざす手にはキラリと光る鋭利なモノも見える。それは拘束され、暴れている吾島の首を真っすぐに狙っていた。何故それが理解できたのかは旧部には分からなかった。ただその時の子月の大きく金色に光る瞳は、その縦に割れた瞳孔で、真っすぐに吾島の首を狙っているように見えたのだ。それは間違いなく、獲物を獲る肉食獣の瞳だった。旧部は瞬きも出来ぬまま、凄まじい勢いで吾島の首へ子月が振り抜く一筋の線を見るしかできなかった。
――!
一筋の線が消え、目には持っていた鋭利な物を振り下ろした子月の姿。耳にはガラスが割れたような大きな音。その裏でブチブチという鈍い音も聞こえる。とてつもなく早いが、手を止めた紙芝居の様にも感じた須臾の光景は、間髪入れずに切り替わる。カグロは凄まじい速さで子月を掴むと、そのままの勢いままに旧部の方へと子月をぶん投げた。
「逃げろ!」
カグロが叫ぶ。旧部は反応することが出来ないまま、突然の状況に固まっていると、猫面のPositiveが旧部の目の前で素早く子月をキャッチする。猫面のPositiveは素早く旧部も抱え上げると、一直線に外へと飛び出した。
「ちょっと落ちるわよ。舌噛まないでね!」
猫面のPositiveが言い終わるとほぼ同時に、身体に掛かる重力が消え、まるで静止したかの様な感覚が訪れる。ガラス壁というフレームにはトカゲ面のPositiveにカグロ。そして、カグロを越える程の大きな影が見える。しかし考える間もなく、旧部の身体にはすぐさま浮遊感が襲い掛かる。
目の前、水平方向に見えるビルはものすごいスピードで上へと伸びてゆく。身体には自由落下による暴風の感覚。耳には低く強い風の音。旧部は下を向けなかった。
「食いしばって!」
猫面のPositiveに言われるがままに全身を強張らせながら食いしばる。すぐに胸とお尻に凄まじい重力がかかる。「もう大丈夫」と優しい声が聞こえ、旧部は恐る恐る目を開け、周囲を見る。どうやらここはビルの屋上の様だ。
旧部は猫面のPositiveに優しく降ろされる。へたり込み、お尻と足全体で冷たさを感じる。旧部の全身は総毛立っており、血の気が引いているのが傍から見ても分かる。旧部の心臓は痛む程バクバクと鳴っており、呼吸もとても荒い。急激な温度差に旧部の額には汗が溢れる様に出始めていた。
旧部は落ち着かないままに周囲を見渡す。目の前の高いビルを見上げると、その最上階には大きく穴が開いていた。軽く見ても10階近く、いやそれ以上はあるだろう。
「……ゲホッ! ……ゴォッ……!」
突然耳に苦しそうな声が聞こえ、旧部は何事かと声のした方へ顔を向ける。そこにはその場にへたり込み、腕で辛うじて身体を支えていた子月の姿があった。影になっている部分には小さく水たまりが出来ている。
「子月ちゃん大丈夫?」
猫面のPositiveは子月の背に手を添える。子月は猫面のPositiveに手を借りて何とか上体を起こす。あげられた子月の顔を見た旧部の表情は無意識に目を見開いた。
子月の左顔には無数のキラキラとした破片が刺さっており、至る所から流血していた。半開きとなった左目、小さく開かれた口端から血が零れ、足元の小さな血だまりに落ちてゆく。
「ちょっと……無理、しすぎた……」
子月は弱々しい声で答える。呼吸も弱々しく、乱れ、不安定だ。先ほどまであった辛うじて残っていた余裕もなさそうだ。身体に力が上手く入らないのか、猫面のPositiveの支えなしでは座っても居られない様だ。
「朱璃ちゃん。彼女の身体、少しの間支えてもらってもいい?」
猫面のPositiveは旧部に声を掛ける。旧部は小さく返事をすると後ろから倒れないように子月を支える。猫面のPositiveは子月の着るジャケットの裾をまくってゆく。見えた左手、そこには大きく深い裂傷が各指、手のひらを横断する様にあった。
「全く……困ったわね。これじゃ応急処置しかできない」
猫面のPositiveは子月の様子を一通り確認し終わると、ジャケットのポケットから包帯を取り出し、裂傷のある左手に包帯を巻き始めた。
「ごめんなさいね。貴方は怪我とかしていない?」
猫面のPositiveは呆然とする旧部に声を掛ける。ハッとしたように旧部は反応すると、自身の身体を軽く見る。幸い、自覚している限り旧部はどこも怪我はしていない。
「だ、大丈夫」
「そう、良かった」
猫面のPositiveは子月の包帯を巻き終えると、「少し待ってて」と立ち上がると少し距離を取った。猫面のPositiveは先ほどまで居たビルを見上げ、着用する面の側面を手で押さえる。どうやら黒瓦谷と通信を始めた様だった。幸い、二人の通信は旧部のイヤホンも拾っていたおかげで聞くことが出来た。
「こちらカガリ。黒瓦谷聞こえる?」
「あぁ、聞こえている。状況報告を頼む」
自身をカガリと呼んだ猫面のPositiveは黒瓦谷に答え、現在位置や旧部、子月の様態などについて共有して行く。
「こっちもこっちか……」
黒瓦谷は小さく、唸りながら呟く。
「とにかくまずは合流しましょ。子月ちゃんも早くヒノちゃんに預けないと」
「そうしたいのは山々だが問題が発生している」
黒瓦谷はそのまま現在起きている状況を説明し始めた。旧部達が先ほどまで居たビルの正面玄関には、ACD財団の治安維持部隊を始めとした多数の財団関係者が控えていた。しかし、突然正面玄関から多数のPositive達が雪崩出てきたというのだ。
「どういう事?」
「分からん。報告では『何とか鎮圧出来ている』とのことだが、上の様子と合わせて不審な点が多い。それに……」
旧部はカガリと黒瓦谷の会話をじっと聞いていた。詳細までは理解できなかったが、今が非常にマズイ状況だというのは理解できた。
「ケフ、ゴホッゴホッ……」
先ほどからずっと子月を支えていたが、子月の様子が悪くなっているのが良く分かる。徐々に子月は重力に引っ張られるかのように、姿勢が崩れてゆく。心なしか、呼吸も弱くなってきている気がする。旧部は子月を抱きかかえるように姿勢を変える。「大丈夫」の一言でも言えたらよかったのだが、これまでの状況を思い返すと情けなさで声が出なかった。
「……よし、その手筈で運ぼう。旧部、聞こえるか?」
「……? あっは、はい!」
旧部は無意識にぼんやりとしていたようで声が裏がってしまった。
「悪いが、少し歩いてもらう事になった。子月はカガリに任せて、共にマブチと合流してくれ」
黒瓦谷はそう言うと通信を切った。
「詳しくは私の方から、行きながr――」
「お前ら!」
突然大きな声がイヤホンから聞こえる。この声はトカゲ面のPositiveの声に似ている気がする。彼は間髪入れずに通信を入れるが、言い終わる前に突然影が旧部達の周辺に落ちた。
「上だ! よけろ!」
見上げると何か黒い物体が旧部達の頭上にあった。その黒い物は凄い勢いで大きくなっている。いや、落ちてきている。急いで避けようとするも、旧部は突然後方へと強引に引っ張られ、少し宙を飛んだ。
ドカン! という断続的に続く大きな音と衝撃が響き、背後、後頭部に強い衝撃が走る。緩んでいた糸が突然目一杯張かの様な痛みが後頭部から脳天にかけて押し寄せる。旧部の目は目一杯に開いているものの頭痛に遮られて情報を処理できない。倒れ込んだ旧部の足元には大きく穴が開いていた。その穴はガラガラと音を立てながら旧部へとヒビが伸びてゆく。徐々に頭痛は引いてゆくものの、脳がグラグラと揺れる感覚が酷く、平衡感覚が狂う。旧部の耳はカガリの叫ぶ声を捉えたものの、何を言っているのか脳内で言語化できない。身体を起こす事も出来ないままに悶えていると、鈍い音を立てて足元が崩れ、旧部の身体にまた浮遊感が訪れた。
重い瞼を開けると、ピントの合わないレンズの様に眩しい。何度か瞬きを繰り返すと、背を向けて倒れている子月の姿が見えた。何が起きたのか、意識は濃い霧がかかる様にしっかりしない。身体の左側面全体に重いような不変な感覚を覚える。なんとなくだが、倒れているのは理解できた。旧部は起き上がろうと腕を伸ばし、身体を動かす。その瞬間、まるで槍にでも刺されたかのような、電撃のようなとても鋭い痛みが胸を貫いた。
「あっ……がぁ……!」
旧部は仰向けになりながら見悶え始める。右胸部に鋭い痛みが絶え間なく襲ってくる。どうやら旧部は肋骨を折ってしまった様だ。ただ呼吸をするだけで、肺が少し動くだけで激しい痛みが押し寄せる。浅い呼吸ですら無視できない痛みを感じる。激しい痛みに襲われながらも、旧部は必死になりながら左腕に重心をかけて身体を少し起こす。しかし、すぐに上下が分からなくなり上半身はうつ伏せに倒れる。痛烈な痛みと共に、頬に水気を感じる。もう一度ぐらつきながらも顔をあげると、赤い水たまりが出来ていた。
旧部は肋骨以外に頭部も強く打っていたようで、血が頭頂部から輪郭を伝って落ちている。他にも全身打撲や擦り傷も目立つ。旧部はあまりの痛みと連想される恐怖心から涙目になりながら周りを見る。しかし、まだ生命活動に余裕はあるようで、旧部の生存本能はこれでもかと働いていた。
旧部は自身の耳に手を当てる。しかしどちらの耳にもイヤホンは無い。周囲に目を向けると、少し離れた場所にキラリと光るものがある。目を凝らしてみるとそれはイヤホンだった。だが、原型はあるものの外装は壊れ、中身の基盤などが飛び出してしまっていた。
辺りは瓦礫とボロボロになった骨組みしかない廃墟。それなりに広い様だが、フロア中央には大きく穴が開いており、天井にも同様に大きな穴が開いている。角度は悪いが、見える範囲では空は見えない。何とか見える窓の外の景色は明るいものの、今何処に居てどれぐらいの時間が過ぎているのかも全く分からない。
旧部は慎重に、ゆっくりと子月に手を伸ばす。先ほどから子月は微動だにしない。意識を失っているだけなのか、それとも……。
旧部は伸ばした手で子月の肩を揺さぶる。揺さぶりは次第に強くなってゆくが何度か繰り返すと旧部の胸にビキッと痛みが全身に響く。その弾みか力加減が出来ず、子月を思い切り小突いてしまった。だが、その衝撃のおかげか子月はこちらに倒れてきた。そのまま仰向けになると同時に子月の顔は旧部に向けられる。しかし、その顔は旧部に絶望感を植え付ける事となった。
「……っ……!」
身体的、精神的な苦痛からか舌も満足に動かせず、声も出ない。子月の顔は真っ白になっていた。特徴的であった大きな瞳は半開きとなり、少し覗くその瞳は虚空を見つめていた。それでも、小さな口を必死に動かし、何とか息はしている様だった。だが、誰がどう見ても虫の息当然だった。
旧部の存在に気が付いたのか、子月は半開きとなった目をゆっくりと、少しづつ旧部の方へと動かす。しかし、その目にはもはや何も映ってはいないのだろう。子月は表情を変えず、旧部を見つめている。その目はくすみ始めていた。
つい昨日まで旧部はごく普通の女性だった。それこそ、何処にでもいる様な一般人だった。人一倍の正義感はあれど実行に移せるほどの身の程知らずではない。度胸はあれども勇気は持ち合わせていない。そんな自分が嫌で、『自分が出来ること』をとACD財団へ入る事を決意した。入団試験に際して合格する為に、自身を変える為にと勉学は勿論。肉体作りにも時間と労力を割いた。そうした努力が実り無事合格。入団後も二年と半年の新人研修を精一杯頑張った。そして新人研修も終わり、これから頑張っていこうと決意を新たにしたばかり。しかし、今目の前の現実。いや、この一日で起きた現実はあまりにも非常で非情だった。明らかなイレギュラーである事は旧部も理解が出来ていた。だがそれ以上に情けなさを覚えていた。悲しいが、こんな事も当然あり得る世界だ。それらも全て織り込んでの決意のはずだったのだ。明確で逃げる事の出来ない痛みは旧部の精神を順調に削っていく。次第に旧部は大粒の涙をこぼし始める。目を思い切り瞑るも涙は止まらない。声を必死に殺そうとするも、赤子の様な泣き声と、嗚咽は止まらない。その姿は、味方によっては非常に滑稽なのだろう。胸中を蝕む真っ黒な感情はもうどうしようもなくなっていた。
「!?」
あまりに突然の事で旧部は固まる。何故なら、旧部の口の中に突然何かが入ってきたのだ。閉じていた目を開けると、子月の手が見えた。そこで気が付く。今口に入ったモノは指だ。子月の指だ。
子月の顔は変わらず微動だにしない。子月は旧部に構う事なく、旧部の舌へと細い指を伸ばす。旧部の舌に子月の指が触れる。少しヒヤリとしたと思ったら、同時に舌先にぬるりとした液体が舌を伝う。わずかに感じる甘味の裏に酸味やえぐみがする。そして息を吸う際に鼻腔内で感じる強烈な鉄臭さ。鼻は詰まっている筈なのに、それでも分かるそのニオイは間違いなく、血であった。子月の指先から流れる子月の血だ。
旧部にもどうしてなのか、何故なのかは理解できなかった。恐らく説明すらも出来ないだろう。子月の意図も、旧部の意図もきっと違っただろう。いや、もしかすると意図なんてものはそもそも無かったのかもしれない。子月の指先から伝い流れ、旧部の舌を介して口腔には血が溜まってゆく。旧部を見る子月の小さな口は小さく揺れる。旧部はその動きに言葉を聞いた気がしたのだ。
そして、旧部は口腔内に溜まった血を飲み込んだのだ。
喉にはまるで上ってきた胃酸の様な、僅かな刺激が不自然に残る。二度、三度とわずかに溜まってゆく血を、増えてゆく自身の唾液で薄まりながらも飲み下してゆく。次第に指から伝う血の量は少なくなり、子月の指は旧部の口から零れおちた。
「見つけた!」
天井に空いた穴からカガリは旧部を覗いていた。カガリは穴に手を掛けながら、器用に体を捩じり二人の傍へと飛び降りてくる。
「大丈夫!? 二人と……」
カガリは駆け寄る足を止め絶句する。
「ここか! やっと見つけたぞ!」
フロアの端から馬の頭骨を模した新たなPositiveが走ってきた。このPositiveは狼面のPositiveの様にがっしりとした体躯を持っているが、背中に色々な物が飛び出したバッグと一枚の大きな板を背負っている。しかし、カガリ同様。子月を見ると絶句してしまった。
二人の前には、だらしなく口を開け、仰向けになっている子月。そして涙を流し続ける旧部の姿があった。訪れた静止した時間は、ふい起きた大きな空間の揺れと共に動き始めた。
「ぁ……あがっ、あああぁぁああぁあああああ!!」
突然大きな破壊音と揺れが辺りを襲う。同時に旧部は耳を割くほどの絶叫を上げ、頭を抱えて激しく体をのたうち回り始めた。まるで張り詰めた弦が限界を超え、本当に頭蓋から真っ二つになったかのような痛みが襲う。その苦痛は今にも失神してしまいそうなほど、旧部の許容量をはるかに超えたモノだった。カガリは驚きつつもすぐに旧部の傍に行き、旧部を押さえつけようとする。
「落ち着いて! 朱璃ちゃん!」
「カガリ代われ! お前は子月を!」
二人は手際よくポジションを入れ替える。馬面のPositiveは大きな腕で暴れる旧部を押さえつけると、そのまま抱え上げる。カガリも子月をそっと抱え上げる。
「早く二人を――!」
二人を抱え走りだろうと構えた瞬間、再度大きな破壊音と揺れが襲い、旧部を抱えた馬面のPositiveの足元が崩れる。旧部も暴れている事もあり、姿勢を崩して下の階へと落ちてしまった。
「マブチ!」
カガリはマブチと呼んだ馬面のPositiveの落ちた穴へと近づく。しかし、カガリからは砂埃が立ち込め、下の階の様子が上手く見えない。
「クソッ……お前は先に行け!」
マブチの声が聞こえカガリは少し迷ったものの、腕に抱えた子月を一度見て、すぐに踵を返して走り出した。下の階では体勢を崩した際に離れてしまった旧部がその場でうずくまっている。頭を抱え、まだ激しい頭痛に襲われている様だが、先ほどまでと違い大人しい。
「すまない! 大丈夫だ、すぐに助ける!」
マブチはうすくまる旧部を抱えようと手を伸ばすも、旧部はマブチの手を払いのけた。
「――?! まさか……ダァ、クソ!」
マブチは何度も旧部を抱えようとするが、その度暴れる旧部にマブチは跳ね除けられる。マブチはPositiveの中でも恵まれた体躯を有しており、Positiveである事も含め、その強靭さは並大抵のモノではない。決して優しくしようと力を加減しているわけではない。何なら今はマブチもかなり力を入れている筈なのだ。それが今、マブチは純粋な力で押し負けているのだ。旧部に。
「ガァァァア!」
突然周囲に立ち込める砂埃を切るように黒い物体が横切り、ドカンと大きな音と共に砂埃がはれる。マブチはすぐに横切った黒い物体へ目を向ける。
「まさか……」
そこにはヒビの入る壁を背に座り込んだ黒い狼の様な見た目のPositiveが居た。面は付けていないが、恰好から見るに狼面のPositiveであるカグロだろう。黒い狼のPositiveは苦しそうな表情を浮かべながら奥を睨む。その目線の先にはマブチより更に一回り大きな影が立っていた。マブチはその影に気付くや否や、背負っていたバッグを投げ捨てると同時に背負っていた大きな板を取り出した。
「全く、次から次へと! だが全くの悪運でも無い、か」
マブチは大きな板に取り付けられていた取っ手に右手を通す。そして二人の前に出ると大きな板を構える。それは全身を隠せるほどの大きな盾だった。大きな影もマブチを見てか構える。僅かな静止の後、マブチに猛進し、大きな影は丸太の様な腕を思い切り振りかぶると、勢いそのままにマブチへと振り下ろす。
バゴン! と金属塊がへこむような破裂音と共にマブチが後方へと吹き飛ばされる。すぐに受身を取り、マブチは姿勢を整える。
「冗談じゃねぇぞ……?!」
マブチは盾を構えなおし、左の口角を大きく上げる。マブチの構える盾はただの鉄の塊ではない。それを一番理解していたマブチは大粒の冷や汗をかいた。
「……?」
ただならぬ状況にようやく旧部も気が付いた。未だ旧部を襲う頭痛は酷く、その全身は半ば筋肉痛の様な痛みを感じ始めていた。旧部はうずくまりながらも辺へと意識を向ける。旧部の目の前には、なんとか体勢を整え、大きな盾を構えなおしたマブチ。その先には、天井に空いた穴から入る明りに照らされた大きな影がいた。まだ旧部の脳は上手く状況を飲み込めなかったが、光に照らされ、はっきり姿を見せたその大きな影に旧部は既視感を覚えていた。
その腕は大木の幹の様に太く、肩や胸周りの筋骨はもはや歪な程に膨れていた。頭部はまるで闘牛の様な角が伸び、その目に理性は残っていない。あの時、突然苦しみ始め咄嗟に外へと飛び出した際、一瞬見えた誰とも一致しなかった大きな影だ。旧部は直感で吾島だと理解した。吾島は頭、身体をやたらめったに振り回しながら掠れた怒号を放つ。異様で、とても正気とは思えない。間違いなくこの状況は危ない。しかし、警鐘を鳴らす本能とは裏腹に何故か恐怖心は無かった。寧ろ、どうにかしてこの状況を変えなくてはいけないと、解決策を欲していた。
旧部は周辺を確認する。正面には吾島とマブチは今もにらみ合っている。マブチは吾島がどう動くのか、動いた際、どのように対処すれば良いのか必死に考えていた。当の吾島は細かく体を動かしている。その仕草に意図は感じられないが、何かに耐えているようにも見える。後方の壁付近には狼面のPositiveが立ち上がり、構えていた。吾島が動いた瞬間、マブチに合わせる為であろう。右側の窓近くにはマブチが投げ捨てたバックと、その内容物がバック周辺に散らばっている。散らばった荷物の中に、細長い物が見えた。旧部自身はそれが何か全く理解できなかったが、これしかないと悟った。
吾島は掠れた怒号と共にマブチへと飛び掛かった。その瞬間、旧部も目にもとまらぬ速さで細長い物を取りに行く。旧部の身体には激痛が走る。頭痛もひいてはいるものの、到底動けるものではなかった。しかし、マブチが吾島の拳を受け止めると同時に、旧部は細長い物を取った。
「?!」
突然の旧部の行動にマブチと狼面のPositiveは驚きを隠せなかった。旧部は腰を深く落とし、左手で身体を支え、右手で細長い物を構える。それは刀だった。その刀の柄や鍔こそ日本刀のそれであったが、その刀身は刃先が黒く、峰にかけて白くなっている。旧部は構えたまま吾島を真っすぐに見つめる。吾島も明らかな異常を感じ取ったのか、マブチを吹き飛ばすとすぐに旧部に体を向ける。
とてもではないが、旧部の取った行動は全てが自殺行為だった。時折、Positiveは暴走を起こす。暴走を起こしたPositiveは理性を喪失し、その力の限り、デタラメに暴れるだけのカイブツになり果てる。このカイブツの恐ろしい所は生物としての安全装置が一切働かなくなることにある。特に人間は痛覚がその代表例だ。生まれつき痛覚が分からない幼子は力の加減が分からず、噛む力が強すぎて歯を割ってしまったり、痒いからとかきむしり皮膚を割いてしまう事もある。これと全く同じことが暴走したPositiveにも起こる。更に理性が介在しない事により、人を越えた力を持つに至った者達がその肉体強度の限界をゆうに超える力で暴れるのだ。そんな暴走したPositiveにただの人間が生身で勝機を得ることはまずありえない。銃火器を用いたとして当たらない、若しくは当たっても効果が無いといった結果に終わるだろう。旧部は生まれてこのかた傷を負うほどの喧嘩もしたことが無い、それ以前に竹刀、木刀すらも握ったことがないのだ。
だがその行動、その思考、その戦略は最善の策であると本能が告げる。何処か夢見心地で、まるで別の誰かが旧部の身体を一方的に操っているのを、ディスプレイ越しに見ているかのような。そんな感覚を旧部は覚えていた。
吾島は掠れた怒号を旧部に向けながらも真っすぐに見つめる。旧部も静かに、吾島を真っすぐに見つめる。旧部の向けるその瞳は栗色に淡く光り、その瞳孔は縦に割れていた。
遅筆極まれり。一話導入、ようやっと次回で最後です。
単純に忙しかったり現実逃避したり予定外のアイデアの襲来が頻発して全く筆が進みませんでした。
今まで投稿してたので、今まで見て見ぬふりしてた誤字や意図しない表現を修正してから次書き始めるつもりなので次もまた遅くなると思います。