1.2 - 朱服
半開きとなった目に映るのは灰色一色の壁と天井。天井には小さく点滅を繰り返すむき出しの電球も見える。いつから眺めていたのか、頭は霞が掛かる様にはっきりとしない。旧部はうめき声をあげて力の入らない全身を少し動かす。旧部は固いマットレスの上で仰向けに寝かされており、首から下は毛布を掛けられている。毛布はごわごわとしており、腕や肩、お腹や足に感じる毛布の感覚に違和感を覚えた。
旧部は朦朧とする意識のなか、上半身を起き上がらせようとして頭を上げる。しかし、頭を上げた瞬間。まるで酩酊したかのようにグラリと視界が揺らぎ、たまらず再度仰向けに倒れ込む。動いていないはずなのに脳が縦横無尽に飛び回る様な酷い眩暈が続けて酷い吐き気と頭痛も招き旧部に襲い掛かる。旧部は何が起きているのかも分からず、暫くの間見悶える事となった。
時間が過ぎ、吐き気や頭痛は我慢できる程度にまで収まった。眩暈もじっとしていれば治まっているのだが、頭部を動かすとまだ脳が揺らぐ。まだ大人しくしているのが身の為だろうが、この異常のおかげで旧部の意識ははっきりとし始めていた。旧部はここが何処なのか。自身の置かれている状況はどうなっているのか。旧部は極力顔を動かさないよう、仰向けのまま周囲を見渡した。
見えたのは椅子や机、大きく穴の開いた椅子と上部につけられた格子。四方には灰色一色の壁が見え、窓は見えないが上部に格子のある重々しい扉が見える。扉の格子はむき出して少し外が見えるが、少し距離があるのと格子が小さいのもあり何が見えているのかも分からない。見える範囲だけでも小さな個室に居るというのは分かったが、どう見ても病院には見えない。
旧部の頭の中には嫌な想像を中心に様々な考えが沸いては消えてゆく。此処が何処なのか、どういった状況下に居るのか。旧部が思い出すのは今朝に見た不穏なニュース。その後の記憶は進むにつれて朧げになってゆき、子月と黒瓦谷に出会った先からの記憶は思い出せずにいた。旧部は真綿で首を絞められる様な不安や焦燥を覚る。とりとめのない考えをしているうちに、随分と体調は良くなったようだ。旧部は大きく息を吸うと、部屋から出られるか確かめるため起き上がろうとして毛布に手を伸ばした。
「……なんで?」
どういう訳か、毛布に隠れていた旧部は下着姿になっており、他には何も身に着けていなかった。確か、旧部は貰い物のTシャツやズボンを着ていたはずだ。ここで、仰向けになっている最中に感じた毛布への違和感に気が付いた。手や足はともかく、肩やお腹にまで毛布の感触が分かったのは下着姿だったからの様だ。旧部は困惑するものの毛布を抱えたまま上半身を起こす。まだ軽い眩暈はするが、これぐらいであれば問題は無いだろう。旧部は改めて周囲を見渡すも、目新しいものは無かった。ベッドの上を始め、椅子や机の上も確認するが何処にも衣類や靴といったものも見つけられない。攫われた先で身包みを剥がされたと考えるのが妥当なのだろうが、旧部は思い出せずにいるため、ただただ困惑するだけだった。
背中に触れる空気は冷ややかとしており、次第に旧部の体温を奪い始めていた。少し空気が冷いと感じる程度ではあるものの、下着姿ではすぐ芯まで冷えてしまうだろう。旧部は抱えていた毛布を引っ張り、羽織る様に身体を毛布で包んだ。
「……」
旧部は暫くの間、ベッドの上でじっとしていた。旧部は何度も部屋を見渡したが、脳裏によぎる単語は独房しか出てこなかった。一体、いつまでこの部屋に居続けるのだろうか。あの扉の格子から声を出したら誰かが来てくれるのだろうか。旧部の頭の中では現状に対する、自身の取る事が出来る選択肢について考えていた。しかし、どの選択肢を考えてみても最終的にはネガティブな方向へ向かってしまう。どうしても今朝のニュースがちらついてしまうのだ。漠然とした不安から生じるイメージと、嫌に現状と結びつく現実とでは比較にならない。これ以上じっとしているのは、旧部が耐えられなかった。身体をねじりながら全身を確認する。見える範囲では怪我はないようだ。触ってみても痛みはない。
「……よし」
旧部は部屋を探索しようと思い、ベッドから降りるために足を床につける。指先が触れる石レンガの床は想像以上に冷たく、素足では長くいられないだろう。毛布を下に敷くことも考えたが、胴体が冷えるのは良くないと考えやめた。旧部は自身に活を入れ、両足で一気に立ち上がった。想像はしていたが、床の冷たさは素足には厳しかった。足を動かし、踏む位置が変わるごとに足から熱が奪われる。足はすぐに冷え切ってしまい、指先から徐々に痛みが広がり始める。だが今の旧部にとって痛みは余計な考えを鈍らせることが出来て丁度良かった。
一通り部屋を探るも、何も見つけられなかった。隠された抜け穴や脆くなった壁など、そんな都合の良い物もある筈がなかった。扉も当然開いておらず、押しても引いてもびくともしない。扉についていた小さな格子から外を覗いてみるも、狭い廊下に似た扉が数個見えただけで何の情報も手に入らなかった。足から昇ってくる痛みに限界を感じた旧部はベッドの上に戻ると、冷え切った下肢を抱える様に丸くなった。足を手で擦り、少しでも温めようとする。旧部の脳裏にはあのニュースから連想される嫌な想像が何度も浮かびは消えを繰り返している。これからどうなるのか分からないという現実と、今旧部に出来ることは何もないという現実。旧部の胸中にある希望が大きく揺らぎ始めていた。
暫くして、扉の外から足音が聞こえてきた。足音は反響しながらゆっくりと近づいてくる。足音は旧部の居る部屋の前で止まる。旧部は顔をあげて扉に顔を向ける。ベッドの上からではよく見えないが、格子には影が見える。影は扉よりも大きいようだ。扉からガチャガチャと音が鳴り、すぐにガチャリと大きな音を響かせた。そして、重い金属の擦れる音と共に扉が開いた。
「お。起きてたか」
開いた扉には黒いスーツを着た小太りの男がいた。男は旧部の様子を見るなり無遠慮に部屋へ入って来た。近づいてくる男に対して旧部はにらみを利かせる。しかし、旧部の毛布に包まれ小さくなった姿を見た男は口角を上げて鼻で笑った。近くに来たことで分かったが、男の身体は左右のバランスがズレている様だ。黒いスーツを纏っているのでよく見えなかったが、腕と足でそれぞれ左右の大きさが違う様に見える。この男はPositiveなのかもしれない。だが露出している頭部と両手に変異は見られない。
「威勢は良いようだな。安心したよ。さぁ来い。組長がお待ちだ」
男は旧部に背を向けて扉付近へ行くと、旧部に部屋から出る様に促す。しかし、旧部は微動だにせず男を睨み続けていた。旧部自身、何故この様な反抗的な態度を取ったのかは分からなかったが、正義感やプライドによるものだろう。身の安全を考えるのであれば、大人しく従うのが吉だ。状況も理解できず、相手についても何も分からない。下手な態度を取り機嫌を損ねた場合、どんな仕打ちを受けるのかも。それでも、何の説明もなしに命令されたことが旧部は納得できなかったのだろう。
実際のところ、旧部の身体は寒さにより限界に近かった。毛布をかぶり、冷えた下肢を手でこするも一向に痛みは消えない。それどころか、暖かくなる事無く、寧ろ体力を消耗して余計に冷たくなり始めていた。毛布の中もゆっくりと冷え始めていた。ベッドの上から扉までおよそ数メートルしかない。だが今の旧部にとってはそれ程の距離に感じている。心の底では早く解放してくれと懇願しているのだ。男は強情な態度をとる旧部の様子を黙ってみていたが、次第に笑いをこらえきれなくなったのか乾いた笑いを上げた。
「いい度胸だな。そんじゃ、その毛布と一張羅を剥がされるのと、大人しくこの部屋を出る。選べ。簡単な二択だよな?」
旧部は苦い顔をする。徐々に高まる命の危機に羞恥心はあまり感じないが、この寒い環境で裸になるのは間違いなく命に関わるだろう。男は変わらずにやけたまま扉付近で旧部を見ている。一歩も動く様子はない。この我慢比べは火を見るよりも明らかだ。目の前には一人。廊下に出て隙を突けば上手く逃げられるかもしれない。だが、道も分からなければ、身体は寒さで上手く動かない。これ以上の時間稼ぎは首を絞める事になるだろう。しかし……。
「それでいい。言う事聞いて居れば怪我する事はねぇよ」
結局、旧部の抵抗はささやかに終わり、男に促されるまま大人しく外へと出るも旧部は怪訝な表情を浮かべている。廊下も部屋同様に寒く、刺すような痛みが足に広がる。男は旧部が廊下へ出たのを確認すると、何処から取り出したのか手錠の様な拘束具を旧部の両手首に取り付ける。拘束具は見た目ほど重くは無いものの、とても厚く、簡単には壊れてくれなさそうだ。更にこの拘束具は鎖に繋がれており、鎖の先は男の掌。逃げることは不可能となった。唯一の救いは、毛布を取られなかった事だろう。
「わりぃな。これも命令なんだ。さ、行くぞ」
男は旧部につけられた拘束具の鎖を手綱の様に引いて歩き始めた。旧部は引かれるままに男の後ろをついて歩く。旧部はこれから自身に起こるであろう、考えられるだけの恐ろしい未来を想像してしまった。ここから嬉々とした状況に繋がるビジョンは見えない。感情の整理もおいつかない。旧部の体は小刻みに震え始める。その震えは恐怖や屈辱といった感情からなのか、それとも肌を刺すような寒さからなのか。旧部自身も分からなかった。
進んでゆく道はまるで迷路のように複雑だった。壁や床は相変わらず灰色で、寒さからは一向に逃げられない。足から伝わってくる寒さは全身の熱を奪い始め、重要な器官を守るために手先の熱も使い始める。肩を丸め、毛布を強く握る。自然に荒くなる呼吸で肺に入る空気の冷たさが良くわかる。旧部から残り少ない余裕が徐々に失われ始め、脳内で作成していた地図も形から曖昧になってきた。もう何度目かの角を曲がると、男は急に立ち止まった。男の大きな背中でよく見えないが、どうやら扉の前に立っている様だ。先ほどまで辿ってきた通路には無かった材質の扉だ。男は扉の隣にある端末へ手をかざすと、スーッと静かに音を立てて扉が開いた。
男は開いた扉から部屋へと進む。扉からは暖かい空気が流れてくる。旧部は警戒こそすれど、抵抗する気力は残っていなかった。男に引かれるがまま大人しく部屋へ入ると、旧部の冷えた体に暖かい空気がなぞる様にあたる。肺に入る空気も暖かく、冷えた皮膚は温度の差に驚いている。背後で自然に扉が閉まると、空気の流れが止まり、旧部の全身をじんわりとした暖かさが包んだ。寒さから解放され、旧部の全身を安堵感が駆け巡り、身体から力が抜けてゆく。
「さて、お前の大きさに合うのがあればいいんだが……面倒だな。自分で選んでくれるか?」
男は面倒くさそうに言った。何の話なのか、旧部は理解が追い付かないまま頭を上げる。
「ここは……?」
旧部が見渡すこの部屋は複数の縦長の台が並んでおり、その上には様々なガスマスクが並べられていた。
「なに、対策するのはニオイだけだ。さっさと選べ」
男はいつの間にかガスマスクを手に持っていた。ニオイというのはどういう事だろうか。危険な臭化物によるものなのだとすれば毛布一枚、下着姿で素肌が露出しているこの姿の方が危険な気もするが。旧部は疑念を持ちながらもガスマスクを一通り眺めてみる。見た目や構造は様々で、正直どれがいいのか全く分からなかった。それによく見るとどのガスマスク細かい傷が目立つうえ、ガラス面が汚れている。男を見ると、既にガスマスクを着用しており、扉に背を向けてこちらを見ている。旧部は諦めて近くにあったガスマスクを手に取った。旧部の手に取ったガスマスクは口元に当たる部分が大きく前方に飛び出しており、実際に空間が広がっている。形からして間違いなくPositive用のものだろうが、他のガスマスクも似たようにいびつな形をしている。
「決まったか。じゃこっち来い」
旧部は男の元へ行くと手に持っていたガスマスクを付けられた。ガスマスクは錠によって固定されている様で、勝手には外せない仕組みになっている様だ。後頭部と接地面の締め付けが少し痛む。つけて見て分かったが、ガスマスクは思ったよりも重く、形状ゆえか頭部の重心が前方へ傾く。手で支えてないと首が痛みそうだ。それにガラス面の汚れは思った以上に視界を遮っている。やはり適当に選んだのは間違いだったのかもしれないと、旧部は少し後悔した。
続けて男は旧部から毛布を取り上げると、近くにあった毛布とはまた別の黒い布を旧部に着せた。どうやらローブの様だが、拘束具が邪魔で袖は通せず、羽織る形を取った。ローブはごわごわとしており、とても丈夫そうだが軽く柔らかい。男も黒いローブをスーツの上から袖を通す。毛布の代わりではない事は旧部も何となしに理解できた。ローブは首から下を隠すことが出来ている。だが、鏡もなく、ガスマスクで視界が制限されている旧部はよく見えずにどこかそわそわとしている。
「よし、じゃあ行くぞ」
男はくぐもった声で旧部の鎖を引くと、入ってきた扉とは別の扉を開けて進んで行く。有難いことにこちら側は寒くない。だがこちら側の通路は薄暗い。ガラス面の汚れと合わせて前方を歩く男の後ろ姿もハッキリと捉えられない。おかげで通路がどうなっているのかも全く分からない。が、部屋を出てすぐに頑丈そうな扉が現れた。扉にはいくもの電子的な閂が施されており、ここだけ全く別の施設の入り口の様に見える。男は扉の横にあった端末を操作すると、いくつも音を立てて閂が外されてゆく。全ての閂が外されると扉が少し動いた。男は扉に手を伸ばして開こうとするも手を止め、思い出したかのように旧部に顔を向けた。
「この先のやつらには目を合わせるなよ。まぁそのマスクじゃ見えないとは思うが、もし目があったらすぐに顔を下に向けろ。いいな」
一体何の事なのか、旧部が理解する前に扉が開かれる。開いた扉からは生暖かく、ねっとりとした空気がローブを越えて肌に伝わる。まるでまとわりつく様な、そんな嫌な感覚に全身鳥肌が立つ。開いた扉から覗く先は真っ暗で、ガスマスクと合わせて全く見えない。男は息を整えると部屋の中へ足を向けた。男に引かれて旧部も恐る恐る部屋へと入る。
扉が閉じると、部屋には暗闇がひろがっていた。足元には申し訳程度の常夜灯が道を照らしている。いや、これは常夜灯が道になっているのかもしれない。周りを見ても暗闇が広がり、何がどうなっているのかも分からない。やけに重い空気と異様な感覚に旧部は鳥肌が止まらない。常夜灯を頼りに男は進んでゆく。旧部も離れない様に後ろをついてゆこうと、一歩足を出した。しかし、不意に異常な吐き気が旧部を襲った。
「う、うぇっ……!」
旧部の肺と鼻腔には悍ましい程の激臭が入り込んだ。生ごみや腐った食べ物が放つようなニオイではない。今まで嗅いだことの無いような、とにかく濃くて、空気が粘りを帯びているようにも感じてしまう。このガスマスクは本当にその責務を果たしているのか、疑問に思う隙も無い程に旧部はえずきが止まらず、足を止めてしまった。
「口だけで呼吸しろ。この部屋はすぐ抜けられる。足を動かすんだ」
男も長居はしたくないのか、その言葉の端には苛立ちや焦りを感じる。旧部は気持ち悪さを我慢しながらなんとか男の後ろをついてゆく。えずきは止まらず、目からは涙、口からはよだれが止まらない。旧部の足取りは定まらず、何度も立ち止まりながらもなんとか扉までたどり着く。男が扉を開けると二人して急いで外へと出る。男は旧部が部屋から出たのを確認すると急いで扉を閉めた。
「ふぅ、なんとか抜けられたな」
男はガスマスクを取ると大きくため息を吐き肩から力を抜く。旧部はその場にへたり込んでしまった。男によって外されたガスマスクから現れた旧部の顔は涙とよだれでぐしゃぐしゃになっていた。ガスマスクと一緒にローブを外されるも、旧部に抵抗する余力は無かった。男は旧部から外したガスマスクと外套を近くにあった籠へ放り投げる。
「お前、檻の中は見たか?」
旧部は肩で息をしながら頭を左右に振る。
「そうか、ならいい。ほれ、これで顔ふけ」
男はタオルを旧部の頭に掛かる様に投げ渡す。タオルは真っ白でフワフワとしていた。旧部はタオルに顔をうずめて落ち着かせようとする。鼻腔の奥、肺にまでこびりついた様な感覚は中々消えず、えずきも中々落ち着かなかった。
「そろそろいいか? 行くぞ。もうすぐ着く」
男は鎖を引いて旧部をせかす。旧部はまだ落ち着かないものの何とか立ち上がる。先ほどの部屋は一体何だったのか。男は檻の中と言ったがそもそも旧部には檻すら見えていなかった。男は旧部が立ち上がると鎖を引いて歩き始めた。旧部は先ほどの部屋で精神を大きく摩耗してしまっていた。鎖を引かれる旧部に余裕はほとんど残っていなかった。何とか落ち着かせようとするも、鼻の奥にこびりついた不快感はあの臭いを想起させる。高鳴る鼓動はなかなか落ち着かなかった。
男の後ろをついてゆくと、業務用の様な、大きなエレベーターが見えた。エレベーターに乗り込むと、男は一番上の階のボタンを押した。ボタンには一番大きな数字が印字されており、向かう先は最上階である二十五階らしい。乗り込んだ際、ディスプレイには「B5」と表示されており、旧部が居たのは地下五階だったという事がわかる。扉が閉まり、鉄の箱が上昇して行く。沈黙の中、ディスプレイに表示された数字はどんどんカウントアップされてゆく。その速度は比較的速いものの、旧部には非常に遅く感じられた。
エレベーターが目的のフロアに到着し、軽い音が鳴ると扉が開いた。エレベータから降りると、まるで豪華なホテルのロビーのような場所へ出た。床は絨毯の様に柔らかく、壁はと高い天井に取り付けられた豪華な照明と、地下のあのフロアとの天と地程の差がある。呆然と立ち尽くす旧部に対し、男に鎖を引いて旧部を急かした。旧部は気まずそうに男の後ろをついゆく。
「この先に組長がいる。組長は差別をしない、誠意には誠意で返すお方だ。頼むから組長の機嫌を損ねるマネはしないでくれよ」
前を進む男の表情は背中に隠れて見ることは出来ない。だが、その言葉には組長と呼ばれる存在に対する確かな信頼を感じられた。ロビーを抜け、厳重な警備が敷かれた場所へやってきた。雅なフロアだが、黒服を着た物騒なPositive達が至る所に数人単位で控えている。この黒服たちも身なりはしっかりとしているが、腕や頭部が他の動物の物へと変異している者達がいる。傍らには大小さまざまな銃や刃物類も携えている。彼らの近くを通るたびに黒服達は旧部の方をじろじろと見てくる。中にはにやけながら見てくる者も居る。ふと、自身が下着姿であるという事を思い出した。恥辱に恥ずかしさや悔しさを感じるものの、どうする事も出来ず男の後ろを進んでゆく。
奥へ進むにつれて、通路は狭く、より豪華になってゆく。最奥に重厚感のある扉が見えてきた。男は扉の横にあるキーパッドを操作すると、見た目に似合わず扉は静かに開いた。扉の先は、まるで庭園の様だった。室内、それもかなりの高さの場所にある筈なのに、きれいな水で満たされた池が広がっている。まるで大厄災以前に取られた秘境写真の様な、美しい庭園。その上を木製の橋が架かっており、この橋が通路となっている様だ。橋の手すりは異様に低く、両手が使えない今、体勢を崩したら池に真っ逆さまだろう。橋を渡り終えると、大きな両扉がそこにはあった。その扉は質素ながらも丁寧で細やかな装飾の施されている。男は扉の前で立ち止まると、大きく深呼吸をする。そしてゆっくりと、慎重に両扉を開けた。
「失礼します。組長、例の人間をお連れいたしました」
男は部屋に入ると旧部が見える様に横に位置をずらす。
「ご苦労。下がれ」
「はっ」
部屋奥から聞こえた声に男は深く一礼し、旧部につけられていた手錠を外すと静かに部屋から出た。広々とした部屋一面に敷かれた大理石は鏡の様に反射しており、壁は漆喰の様な素材が一面に使われている。中央には来客用の長机と複数の椅子と、部屋奥には重厚な作業デスクと大きな椅子が入口に向けられている。この部屋を構成するすべてが素人目でも分かる程上質なものだ。来客用の椅子でさえも座り心地は良さそうに見える。
そして入口から真っすぐ先、部屋の奥の壁は全てガラス張りとなっている様だ。旧部のいる入り口付近からでは分かりずづらいが、ガラスで出来た壁にフレームやつなぎ目は一切なく、一枚のガラスだけで壁を作っている様だ。このガラスでできた壁には傷や汚れが一切見当たらず、弐区どころか零区までの街並みが一望できる。そんなガラス壁の前に、上物のスーツに身を包んだPositiveが佇んでいた。恐らく彼が組長と呼ばれていた男だろう。男の後ろ姿を見た旧部は、特大通りで襲われた際に出くわしたあの大柄な男性を思い出した。だが、1フレームの記憶の前後は思い出せない。頭部には二本の角のようなものが見える。後ろに組んでいる腕は異様なほどに太いが、脂肪ではなく筋肉で出来ているのは一目瞭然だ。先ほどの声からもあの時の男ではないが、大きな体格に旧部は少し委縮する。男はゆっくりと向きを変え、旧部を正面に捕らえる様に姿勢を直した。
「君には手荒な真似をしたことを、まずは謝罪させてもらいたい」
男は真っすぐに旧部を見つめる。その瞳は酷く冷たい印象を旧部に植え付けた。男は後ろ姿から想像した通り、スーツで隠す事の出来ない程の肩幅と胸筋を持っていた。そしてその頭部は牛の様な印象を受ける。だが頭部に生えている角の形状から察するに、水牛に近いようだ。男は傍の机に折りたたまれていた何枚かの布を手に持った。
「まずはこれを来たまえ。その姿では落ち着かないだろう」
男は来客用の机まで歩くと、手に持っていた布を机の上に置いた。その所作はゆっくりながらも丁寧だった。男は旧部に体を向けたまま数歩下がる。
「私は外でも眺めていよう。終わったら、何らかの合図をしてくれれば構わない」
男は旧部に背を向けると、ゆっくりとガラス壁に向かった。ガラス壁傍で足を止めると、旧部が入室したときと同様に腕を後ろで組んだ。
旧部は机の上の服と後ろを向ける男を目だけを動かして交互に見る。旧部の警戒心はこれでもかと高められていた。この部屋には二人だけ。距離もある。拘束は外され、入口はすぐそこ。逃げ出すにはまたとないチャンスだろう。しかし、この部屋の外には黒服を来た沢山のPositive達がいる。通路も狭く、横道も見当たらなかった。どうするのが最適解なのか、旧部は考えた。その胸中には恐怖を始めとした様々な感情によって生じた生存本能。だが、自身の置かれている状況に対する困惑。そして下着姿という羞恥心と惨めさ。旧部の脳は上手く処理が出来ず、考えようにも焦りも交じり上手く考えることが出来ない。
「時は金なり。という言葉は君も知っているだろう。君がその姿でも良いというのであれば、早速話に移りたいのだが」
男は顔を少し後ろに向けている。旧部に対しての牽制でもあるのだろう。今の旧部に選択肢はない。逃げられないのであれば、大人しく従うほかない。旧部は机に置かれた衣服へ再び目線を向けると、ゆっくりと足を動かして服に近づく。男はガラス壁を向いたまま動く気配はない。しかし、やはりというべきか、机の上に置かれた衣服は折りたたまれており、近づいただけではどのような服なのかが分からない。だが、この服がどんな物でも今の下着姿よりはましだろう。旧部そう考え、衣服に手を伸ばした。
衣服はTシャツと短パンの2つで、どちらもデザインが見当たらず、真っ白だった。変な物でない事が分かり安堵したものの、明らかに旧部が着るには大きすぎる。手に取った際、肌触りが異様ごわごわしており、とても頑丈そうに感じた。この衣服はPositive様に作られたのかもしれない。男をちらりと見てみるも、微動だにせずガラス壁から景色を見ている。声を出そうにも気力がわかない。旧部は大人しくTシャツと短パンを着た。分かってはいたものの、Tシャツはどうしても片方の肩が露出してしまう。何なら首回りだけで両肩が通り抜けそうにもなる。短パンは膝まで隠れる程長く、ウエストもブカブカだった。紐が無ければ両手がふさがれていた事だろう。着終えると机を数回軽くたたく。男は気付いたのかこちらに体を向けた。
「やはり大きすぎたか。だがこれで話が出来るな。遠慮はいらん。さぁ、掛けたまえ」
男はデスク前の大きな椅子に座ると、旧部に手で合図を送る。旧部は大人しく従い、来客用の椅子に座る。相変わらず男の冷ややかな目線は痛い。だが、先ほどからの所作といい、言葉遣いといい、この男は無頼漢ではない様だ。とはいえ、全く信頼は出来ない。
「君の事は事前に調べさせてもらった、旧部朱璃君。私は吾島という。この籐獅組を仕切っているものだ」
男は吾島と名乗り、非常に淡々と話を進めていった。自己紹介としていくつか話をしていたが、籐獅組は弐区で一番大きな非財団協力団体として財団とは違う形でPositive達を雇用し、生活を守っているのだという。今旧部のいるこの場所は、その本部らしい。そして、吾島は旧部を拉致した経緯を話し始めた。
今から三週間ほど前、この組織にとっての今後を分ける大きな取引が行われようとしていた。だが、取引当日。ACD財団によって取引相手も纏めて捕縛されるという出来事があったそうだ。三週間前と言えばまだ研修施設で過ごしていたはずだ。しかしいくら記憶を探るも、そんな事件を見聞きした記憶はない。
「それはそうだろう。何せ、奴らにとっても都合は悪いだろうからな」
吾島は含みのある言い方をするも、それ以上話すつもりは無い様だ。
「それと……どういう関係が?」
旧部は臆しながらも、吾島に顔を向けて直球で聞く。吾島は少し間を置くと口を開いた。
「今朝のニュース。報道では財団関係者としか言っていないが、我々はFPである事、そしてどの様な最後を迎えたのかを知っている」
吾島の答えに、旧部は納得した。納得してしまった。今朝のニュースでは確かにACD財団の関係者としか言っていなかった。犯行当時の手口などは話していたものの、確証の無い情報だけが報道されていた。しかし、ニュースでは犯人と思われる者は捕らえたと言っていた。だが、明らかに今、その当事者が目の前にいる。何かの手違い、何かの勘違い。旧部はそう願っていたが、自身の置かれている状況を嫌と言うほど理解してしまった。
「君はいわば、客人の様なものだ。身の安全は保障しよう」
吾島はデスクから葉巻を取り出すと、火をつけて口へと運んだ。旧部は右手で左上腕を握る。信用できるわけがない。平気で人を殺すのだ。それも、猟奇的に。それに、身の安全と言ってもあくまでも命は取らないという事だろう。でなければあんな地下に放り込まれるわけがない。恐らく、根本的に考え方や基準が違うのだろう。Positiveだからではなく、吾島の纏めるこの籐獅組という組織独自の社会性によるものなのだろう。
「さて。君の立場についても知ってもらう為にも本題に入りたいのだが……二度手間だな」
吾島は葉巻を灰皿に置くと、懐から端末を取り出した。吾島は端末を操作するとどこかへ電話をかけ始めた。
「あぁ、私だ……そうだ、連れてこい」
吾島は端末をしまうと「少し待て」といった。葉巻手に取り、消えた火を再度つけると口へ運んだ。吾島の吹かした煙が旧部の場所まで届いてくる。気まずい沈黙は、部屋の扉が開くまで続いた。旧部は開いた扉に目を向ける。扉には、旧部をここへ連れてきた男とは違う別の男が現れた。この男も黒いスーツを着用しているが、下半身が異様に太く見える。男は車椅子を押しており、その車椅子には旧部も見知った少女が乗っていた。
「うそ……」
旧部は思わず口に手を当てて絶句した。頭は垂れており顔はよく見えないが、特徴的なその白く長い髪と、同じく白色の毛量の多い長い耳。旧部もよく知るPositiveの少女。子月だった。
彼女を見た瞬間、旧部は意識を失う前の記憶を思い出した。爆発した直後に現れた三人の者達。旧部を運ぼうとした彼女が足を撃たれ、大柄な男に足を潰された事。苦悶の表情を浮かべ、今にも意識が飛びそうだった彼女の顔。そして、細身の男が懐から取り出した、謎の球体から出た煙によって意識を失った事。全て鮮明に思い出した。
今の子月は最後の記憶よりも更に無残な状態をしていた。手首、腕、二の腕、肩。腰、腹、胸。足首、脛、膝、太腿。ありとあらゆる場所に分厚いゴムベルトと金属の錠で二重に固定されており、拘束というにはあまりにも過剰な状態だった。何重にも施された拘束の隙間から見える素肌は、どこを見ても様々な傷によって出来た血と青あざで塗れている。特に左足は真っ青に染まっていた。痛々しい等という言葉では足りない程だった。恐らく、今の彼女は何も衣服をまとっていないのだろう。一体、彼女は連れ攫われてからどんな仕打ちを受けたのか。それにどれだけの時間が経過していたのか。想像する事自体不可能なのではないかと思える程の姿だった。男は旧部の近くにまで車椅子を押すとその場で車輪を固定した。鉄のニオイが旧部の鼻にも届く。車椅子を押してきた男は何も言わずに部屋から出ていった。
「ね、ねぇ……生きてるの……?」
旧部が震えた声を上げる。旧部の声に反応する様に子月の耳が小さく動いた。子月は半開きとなった目で首を少し上げる。そして小さく首を動かして周囲を見渡した。
「ぁ……ぶじ、だったんだ……よかった」
子月は旧部を見つけると弱々しい声をあげながら笑みを浮かべた。しかし、それはとてもではないが、笑顔とは言えなかった。頬は赤くはれ、鼻と口端からは血がにじんでおり、額、こめかみと至る箇所が傷だらけだった。
「ふむ。まだ余裕があるようだな」
吾島は感心する様に子月を見る。旧部は理解が出来なかった。今の彼女の何処に余裕が見られるというのだろうか。子月は吾島の声を聴き、ゆっくりと顔を吾島に向ける。子月の横顔も酷い顔だった。だが、その大きな瞳は確かに吾島を真っすぐに睨みつけていた。
「なるほど。あれだけの事をされてもなお折れないか。素晴らしい胆力だ」
吾島は再度感心したように声を上げた。子月の全身は少しの振動、そよ風ですら酷く神経を刺激される状態だろうだろう。吾島の言う『あれだけの事』とは何なのかは分からないが、子月の今の状態は並みの者ならば既に心は折れ、精神に著しい障害を残すはずだ。それなのにその瞳は歪みなく、淀みなく吾島を真っすぐに射る。自然と始まった吾島と子月のにらみ合いは、互いに一歩も譲らずに続く。旧部は異様な空気に体がこわばってしまった。暫くして、「フッ」と吾島が鼻で笑い顔を背ける。
「名前は確か、子月護留と言ったか。君には聞きたいことがあるのだよ」
子月は微動だにせず、真っすぐに吾島を睨め続ける。吾島は葉巻の灰を落とす。
「お前は財団の犬、FP共が着用を義務付けられている上着を着ていた。そうだな?」
吾島はデスクの上に広げられていた紙束を手に取ると、顔横に掲げる。
「これは財団の管理するFP共のリストだ。このリストには財団の関係にする企業や組織に所属するものも書かれている」
吾島は紙束を幾つか捲る様に眺める。
「だが、この中に子月護留という名前は無かった。何度も確認したが、やはり見つけられなかった」
旧部は、吾島の突然の問答に理解が追い付かなかった。子月に顔を向けて見るも、子月は変わらず吾島を真っすぐににらみつけている。もし、吾島の持っている情報が正しいとすれば、子月はFPではないという事だ。だが、あの時黒瓦谷も居た。そうなると黒瓦谷も財団員ではなかったことになる。しかし、そうであれば何故旧部を迎えに来ることが出来たのか。研修施設はもちろん、零区自体にも入る為には財団に保管された生態認証を始めとした様々な手続きが必要になるのだ。吾島は紙束をデスクに置くと、子月に顔を向ける。
「子月護留。君は一体何者なのかな? 是非とも、教えてもらいたいのだがねぇ」
吾島は睨み続けるばかりで微動だにしない子月へ鋭い目つきで返す。子月は変わらず、微動だにせず吾島を睨むだけだった。
「……まぁいい。ただの蛮勇ではその態度はとれんだろう。旧部朱璃。君の立場を教える為にも、少し話をしよう」
吾島は葉巻を灰皿に捨て置くと、手をデスクの上で組み話を始めた。取引失敗後、吾島は組織を上げて出来る限り失敗の原因を探ったそうだ。しかし、何も手掛かりは得られず、どうして財団に取引現場を押さえられたのか分からずじまいで時間だけが過ぎてしまったそうだ。だが三週間前の取引失敗より一週間後、突如外部の者達が接触してきたのだという。その者達は名乗りこそしなかったが、先の取引失敗に関する情報をもたらしたのだという。
「奴らはその情報の提供を条件に、協力を持ち掛けてきた。こちらにも利のある協力をな」
吾島はデスクの下に置かれていたアタッシュケースを持ち上げると、デスクの上に置く。吾島はそのままアタッシュケースを開けると、中から小さな小瓶を1つ取り出した。中には赤色に見える不透明の液体が入っている様だ。
「聞けば、情報を抜いたのは財団に関わる組織らしい。奴らもその組織は危険視しているらしく、我々にその全容を暴いてほしいと」
吾島は小瓶をデスクの上にそっと置いた。続けてアタッシュケースからまた小瓶を1つ取り出した。この小瓶にも液体が入っているが、緑色に見える。
「取引失敗の真実がどうであれ、顧客たちは私たちの重大なミスと見ている。これは由々しき事態なのだよ」
吾島は緑色の液体の入った小瓶をデスクの上にそっと置くと、アタッシュケースをしまう。デスクの上には赤色と緑色の液体の入った2つの小瓶が並んでいる。
「顧客たちの信頼を取り戻し、彼らとのコネクションも作れる。正に一石二鳥というものだな」
吾島は小瓶を1つずつ手に取ると、ふたを開けてグラスに注いでゆく。赤色と緑色の液体は混ざると何故か水色へと変化した。そこへ水を注いで希釈すると、3回に分けてゆっくりと飲み下してゆく。
「失礼。持病があってね」
吾島はグラスを置くと「ふぅ」と息を吐いた。旧部は大人しく聞いてきたが、全くつながらなかった。話すといったのに重要な点には一切触れない。その協力が何故FPの惨殺に繋がったのか。何故、旧部と子月はこの様な状況になっているのか。旧部には全く心当たりはない。吾島の意図が全く読めない。
「それが、どうして私たちに関係するの……?!」
旧部は、吾島に今の気持ちをぶつける様に疑問を投げかける。吾島は少し考える素振りをすると「あぁ」と一人納得したように声をあげた。
「そういえば、財団の慣習によって君はまだ知らなかったのか。それは済まない」
吾島はまたデスクから葉巻を取り出すと、火をつけて口にくわえる。
「確かに、今ままでは関係はなかった。だが、今は違うのだよ。旧部朱璃」
吾島は葉巻を口にくわえたまま立ち上がると、壁面に取り付けられていたクローゼットを開ける。
「君も耳にはしたことがあるだろう。朱服と呼ばれる存在について」
吾島はクローゼットに手を伸ばし、一着の服を手に取った。その服はジャケットの様だが、その色はとても赤い。朱服、確かに旧部も耳にはしたことがあった。しかし、耳にしたことはあってもそれ以上は何も知らなかった。
「我々にもパイプはあった。だが、入手できたのは僅かな情報のみだ」
吾島はジャケットを持ったまま旧部に近づき、目の前の机に見える様に広げた。旧部はジャケットのデザインに見覚えがあった。街中を巡回するFP達と、子月が着ていた白いジャケット。それにデザインが非常に似ている。
「先のFPはこのジャケットを着るはずだったのだよ」
旧部は一瞬。何を言っているのか理解できなかった。『はずだった』という事はまだ着ていない。それはつまり、犠牲になったFPはまだこのジャケットを持っていなかった。言い換えれば、ジャケットを着るはずだった。ニュースで言われていた被害者の特徴は、新しく財団に迎えられる者。
「理解してもらえたようで、何よりだ」
吾島の発した言葉の意図に気づき、旧部の思考は止まった。同じなのだ。惨殺されたFPも、旧部自身も。思えば、三十人近くの同期の中で旧部だけが取り残されていた事にも説明がつく。旧部の胸中には、僅かに残されていた不確定ゆえの淡い希望が確かにあった。しかし、確定した現実によってそれは完全に打ち砕かれてしまった。
「さて。私が何を言いたいのか。これで分かってもらえたかな? 子月護留」
吾島は子月へ顔を向ける。子月も顔をあげ、吾島を睨む。
「……確信でも、あるの?」
子月は今まで閉ざしていた口を開き、弱々しく、かすれる声で吾島へ問いかける。
「この一連の騒動が、すべて我々の描いたものだ。下ごしらえも完璧なのだよ」
吾島は子月から目を離すことなく、一歩ずつ、彼女を追いつめる様に足を前に出してゆく。
「腹の探り合いはこれで十分だろう。雄弁は銀だという事をお前は自ら私に教えてくれたわけだ」
吾島は子月の近くまで来ると足を止める。手は後ろで組んだまま、背筋を伸ばし、目線だけを子月に落とす。大柄な身体と合わせて威圧感が凄まじい。子月も顔はあまり動かさず、目線だけを吾島に向けている。
「お前は我々の張った蜘蛛の糸に掛かったという訳だ。足掻けば足搔くほど、自ら首を絞めることになる」
子月は微動だにせず吾島を睨み続ける。
「そろそろ聞かせてもらえるかな? 朱服について」
吾島は低い声で子月を威圧する。その迫力は旧部からすれば震えが止まらないものだったが、子月は表情を変えることなく、吾島ににらみを利かせ続けている。十数秒の間であったが、子月は沈黙を貫き通した。しびれを切らした吾島はため息を吐くと姿勢を正した。
「沈黙か。残念だが、この場合は金ではなく肯定だ」
吾島は後ろで組んでいた腕を楽にする。
「その虚勢はいつまで続くのかな」
そして、子月の目の前に立つと、足を少し開き、その太い腕を軽く引いた。
「実に見ものだよ」
吾島は引いた腕で勢いよく子月の横頬を殴った。鈍い音、判別の効かない声、金属が激しくぶつかる音。様々な音が瞬時に響き、勢いのままに車椅子が真横に倒れる。
「ぉがぁ……!」
子月は横転した車椅子に固定されたまま、まるで声とは思えない、喉を鳴らすような音を出していた。あの時、特大通りで襲われた時と同じ様な。いや、それ以上に酷い状態で歯を食い縛っている。
旧部は目の前で起きたあまりな光景に気が動転してしまい、声を出す事が出来なかった。それでも淡い正義感だけで急いで旧部は子月の傍へ駆け寄る。焦点の定まらない瞳で荒い呼吸を繰り返す子月は、口端から泡を吹き始めている。幸い横を向いているので窒息はしないだろうが、旧部の混乱は増してゆく。急いで横転した車椅子を立たせようとするも、ある意味見た目通りの重量をした車椅子は微動だにしない。吾島は二人の様子を意に介すことなく、懐から再度端末を取り出すとまたどこかへ連絡を入れる。
「……?」
しかし、吾島のかけた電話は一向に繋がる様子が無い。一度切り、再度連絡を取ろうと繋がるのを待つも、時間だけが過ぎてゆく。
「故障か?」
吾島は疑問を抱いたが、深く考えることなく端末を懐にしまう。デスクへゆっくりと歩いてゆくと引き出しの中に設置されていたボタンを押す。
「やれやれ、こういったものの不調は相変わらず分からんな」
吾島はぼやきながらもゆっくりと足を動かして旧部と子月の傍へと近づく。
「さて、子月。君にはまたあの部屋に戻ってもらう。君の心が壊れない事を祈っているよ」
吾島は姿勢を変えず、目だけを子月に対して向けている。
「グフッ……!ぅぉ……!」
子月は口端から赤い泡を零しながら焦点の定まらない目を浮かべている。今の彼女は意識を留めるだけで精一杯だというのが誰から見ても分かる。
「……聞こえてはおらんか」
吾島は吐き捨てる様に子月に背を向けて再びガラス壁に向かう。そして軽く足を開き、後ろで手を組む。吾島はこちらの様子には興味が無いかの如く、外の景色を眺めている。旧部は一連の光景に困惑し、恐怖し、頭の中が真っ白になっていた。子月を助けようにも助けるすべはなし。自身もこうならないといった保証もない。旧部の脳は凄まじい勢いで最悪を想定して行く。今取るべき行動、取るべきでない行動。取るべき適切な行動、最適な行動。その全てが恐怖と混乱によって脳が不可能だと判断して行く。旧部の四肢は力を入れようにも入れられない。ただどうすることも無く、苦しみ、見悶える子月を眺める事しかできない。旧部の目には自然と涙が零れ始め、頬を使ってゆく。その表情に悲しみは無い。あるのは諦観という無気力感だった。突然部屋の扉が開いた。扉からはまた新たなPositiveが現れた。
「来たか。その財団の犬をまたあの部屋にぶち込め。時間を掛けて、そいつの口を割らせろ」
吾島は顔を動かさず、外の景色を眺めている。新たに現れたPositiveは何も言わず、部屋を眺めた後、ゆっくりと子月の車いすに近づいてゆく。旧部は咄嗟にPositiveの前に出ようとするも、上手く足を動かせずに倒れ込んでしまった。Positiveは旧部を見ると、向きを変えてゆっくりと旧部へと近づいてゆく。何故こんな無謀な行動に出たのか、次は自身があのような仕打ちを受けるのではないか。旧部の脳内はパニックに陥り、身体は震え、目からは涙が零れる続ける。Positiveは旧部のすぐそばまで来た。手を伸ばしてくる。手は間違いなく旧部に向かっている。旧部は咄嗟に顔をそらし、目を閉じた。髪を掴まれるのか。それとも殴られるのか。涙を流しながらぐちゃぐちゃになった胸中のまま衝撃に備えるが、旧部を襲ったのは酷く優しい衝撃だった。
Positiveは旧部の頭部をなでていた。目を見開いて驚き、固まった旧部をPositiveはそっと支えて上半身を起こす。旧部を起き上がらせる際、小さく「大丈夫だ」とPositiveは旧部に声をかけた。その声はとてもやさしく旧部には聞こえた。全くの想定外な出来事に、旧部は完全に固まる。Positiveはそのまま、子月のそばに向かうと、相当な重さがある筈の車椅子を子月ごと軽々と起き上がらせた。そして、Positiveは子月の隣に立つと、背を向く吾島を睨むように静止し、驚くような発言をした。
「マモル。地下、地上を含め、この部屋以外は全て制圧を完了した」
旧部はこのPositiveが何を言っているのか全く理解できなかった。制圧? この場所を? あまりの展開に旧部の頭は以前真っ白に染まっていた。ただ、確かに子月の隣に立つPositiveが発したはずなのだが、その口元は動いてはいなかった。それにPositiveの声と共に小さく唸り声のようなものも聞こえた気がした。
「ん? 一体何のはなし――」
吾島は振り向き、言葉を詰まらせた。車いすの隣に立つPositiveは吾島の様に大柄な体を持ち、腕はもちろん、上半身が鍛え抜かれている事がよく分かる。だがその露出部位は一様に黒い毛で覆われており、頭部も含め、全身の骨格は正に二足歩行をする大きな黒い狼といった風だった。このPositiveは顔面を覆い隠す様な犬の頭骨を模した仮面を被っており、目元は見えない。そしてこのPositiveはFPが着る専用の意匠に似たジャケットを羽織っていた。だが、そのジャケットの色は白ではなく、真紅にも近い朱色。朱服だ。
「その、上着は……!」
吾島は驚きのあまり、目を見開き後ずさりする。
「貴様、何処から入ってきた。この部屋に入る為には、有事に備えた何人もが待機していたはずだぞ!」
吾島は歯をむき出しにして怒鳴る様に声を上げる。
「言ったはずだ。この部屋以外は全て制圧を完了した」
Positiveは再度、口を閉ざしたまま声を出す。後ろにある、開かれたままになった扉には黒いスーツを着た男が数人倒れているのが見える。吾島は目と口を大きく開き、後ろへ数歩足を引きずる様に下がる。ガラス壁に吾島の背中が当たる。
次の瞬間、突如外から新たに二人のPositiveが現れ、同時にガラスを蹴り破り部屋へと進入する。同時に吾島は片方のPositiveによって瞬時に取り押さえられ、もう片方のPositiveが懐から取り出した何かを吾島に投げつける。投げつけられた何かは吾島に触れた瞬間、膨大な糸が吾島の腕と胴体を拘束した。糸は床に接着するかのように吾島を拘束する。
「ターゲット拘束完了。残るはコイツの身柄引き渡しと……」
「攫われた二人の奪還。ね」
新たに現れた二人のPositiveは男性と女性で、二人とも朱色のジャケットを羽織っている。男性のPositiveはトカゲの頭骨の様な仮面を。女性のPositiveは猫の頭骨の様な仮面をつけている。
「何だこれは……! 何なのだ、お前たちは……!」
その場に倒れた吾島は力一杯暴れるも、糸による拘束はほどける気配がない。周りにいたPositive達は吾島の様子を歯牙にもかけていない様に子月へ顔を向けている。
「マモル。これにて制圧は終了だ」
子月の隣にいたPositiveが子月に報告する様に声をかける。前方に頭を垂れていた子月は、そのまま大きく肩を動かして息を吸い、「あ”~」と大きく唸りながら首を動かした。そして、大きくため息をつくと、正面に顔を向けた。
「おつかれ。皆」
車椅子には、変わらず厳重過ぎる拘束を施されている子月がいる。彼女の拘束の隙間から見える痛々しい素肌に代わりは無い。青あざと血の滲んだ顔も。だが、確かに彼女にあった筈の顔の傷や青あざは少なく、薄くなっており先ほどまでの痛々しい顔ではない。そして先ほどまで浮かべていた苦悶の表情は見る影もない。
大きな瞳は真っすぐに、小さな唇は半月を描く。屈託のないその表情には一切の歪みは無かった。
もっていきたい流れに強引に持って行ってしまった感はあります。
ここまでで導入第一話の半分です。