トライデント陥落
参謀本部合議室へと、一人の若い兵が転がり込んだ。
「伝令! トライデントが敵に制圧されました!」
自軍が伝令兵の悲痛な叫びに、エノシガイオス公は弾けるようにして立ち上がった。
がたりと大きな音を立て、重い椅子が倒れた。
「制圧だと! 司令官はどうした!」
憤怒で顔を赤黒くさせたエノシガイオス公は、ツバを飛ばして、まだ年若い兵に噛み付いた。
「それが」
若い兵が言い淀む。
「言え! はよう! 我が息子は! あやつはどうした!」
エノシガイオス公の求めに、兵はぐっと顔を中心に寄せた。
鼻や眉間、顎にシワが寄り、泥や血、その他得体の知れぬ汚れにまみれた顔から、ポロポロと乾いた塵埃が剥がれ落ちた。
「司令官殿は」
兵の声はしゃがれていた。
「捕虜となられました」
「なんと……!」
エノシガイオス公は、見開ききった目の片方を手で覆うと、膝から崩れ落ちた。
エノシガイオス公の後ろに控えていた従者が、慌てて倒れた椅子を立て直し、公はどっかりと尻を落ち着けた。
報告に参じた兵は膝をつき、悔しそうに肩を震わせた。
彼の属する斥候部隊。
小隊長を始めとした各小隊は、総隊長の指揮に従い、斥候の身ながら前線に参じた。
当然、他部隊長らも同様。
そしてまた、彼等の率いる部隊も。
◇
「者ども、まいれ! いざ、不浄なる畜生どもを蹴散らしてくれよう!」
指揮官の鼓舞に応えるように、あちこちから咆哮が上がった。
男達は槍に、戦鎚、剣、弓など、それぞれの得物を振り上げ、突進した。
誇り高く戦った。
そうして戦い、敗れた。
だが、司令官は違った。
司令官、トリトン公子。
エノシガイオス公の息子。
難攻不落を誇ったトライデント。その守護神と畏れられた猛将。
それが、司令官トリトン公子。
かの英雄トリトン公子は、誇り高く戦って、敵に討ち取られたのではなく。
自ら投降し、薄汚く敵の情けを乞うて、その首を差し出したのだ。
だが、司令官が降伏を宣言せねば、この若き兵は、命からがら、索敵哨戒の目を逃れ、報告に戻ることも適わなかった。
誰一人、残らなかっただろう。
あの魔女の前では。
魔女が妖しげな術であたり一帯を吹き飛ばし、大地を裂き、木々を倒して焼き払うまでは。
それまでは、確かに押され気味ではあったものの、エノシガイオス家の軍も、その旗主ら援軍も、他家の友軍も。
全軍が善戦していたと言えよう。
敵は妖しげな術を使う。
それは知っていた。
敵国には、他のどの国にも存在しない、力があった。
彼奴らはそれを魔法と呼んでいた。あるいは魔術と。
油断ならない術ではある。
だが万能ではない。
所詮は小手先の術。
仕掛けられる前に、矢で射抜き、槍で突き刺し、剣で薙ぎ払い、斧でかち割ってやればよい。
地理はエノシガイオス家を始めとした、味方に利があった。
当然だ。
エノシガイオス家が誇る鉄壁の要塞が、トライデントなのだ。
逃げ込まざるをえないほど追い詰められたと言えなくもないが、果たしてそれは、敵軍をトライデントへ誘い込むための誘導作戦だった。
勢い勇んで、まんまと攻め込んできた敵軍を前に、トライデントで待ち伏せる兵士らは、上機嫌で笑った。
「畜生にはなるほど、考える頭がないと見える」
敵国の将。
君主である国王を筆頭に、八人の大将は、いずれかの鳥獣虫をそれぞれ象徴として掲げているらしかった。
つまり畜生どもだ。
「怪しげな術を使う畜生どもは、人間にあらず」
声の大きい一人が叫んだ。
「ならば駆逐すべし」
また別の、声の大きい者が賛同した。
「下劣なる畜生どもから、この大陸を取り戻し、真の人間による、正当なる統治を!」
声の小さい者、大きい者を問わず、大勢が声を揃えた。
血濡れた槍が、戦塵を切り分ける。
槍騎兵の槍が、敵兵の喉を刺し貫いた。
槍の穂先は敵兵の、頭巾状のメイルコイフを見事突き破った。だが、折れた。
だから彼は、すぐさま剣を抜いた。
しかしそこで、彼の戦果はとだえることとなる。
彼の首は兜をつけたまま、空高く舞い上がった。
肉体をもってしては適わぬ高度まで浮かび上がった彼は、眼下に広がる戦場を、ゆったりと見下ろした。
何かに急がねばならない理由を、もはや彼は持たなかった。
圧倒的かと思われたエノシガイオス軍は、敵軍におされていた。
乱戦の最中、彼は最期に眺めた。
首から上のない騎兵。
彼だ。
すっぱりと斬られた断面から噴き出す鮮血を浴び、咆哮する女騎士。
彼を斬った敵だ。
女騎士と背中合わせの騎士が、すかさず剣を構えた。
女騎士を守るように、薙ぎ払い、突き出し、ひねり、引き抜き。
ふたたび、味方兵士の血の雨が、敵兵二人へ降り注ぐ。
首だけで空を飛ぶ彼は、薄れゆく意識の中、ああ、と音にならぬ声で嘆いた。
女騎士の、血よりも赤いくちびる。
それがにいっと吊り上がる。
――あれは、魔女だ。
彼の意識が完全についえる寸前、トライデントは魔女の手から放たれた、青白い球体、そこから生じる光、熱、稲妻に包まれた。
その先を、首だけとなった槍騎兵が知ることはない。
だが、伝令兵は見た。
トライデントが魔女の放った球電に飲み込まれ、破壊されゆく姿を。
彼は剣を振り上げ、駆け出そうとした。
「待て!」
司令官が伝令兵の胸を、強く押し戻した。
長袖のチェインメイルに金属片を鱗上に並べて縫い付けた、伝令兵のスケイルメイルと、司令官のプレートメイルとが重なり、鈍い金属音がした。
司令官は伝令兵を眼光鋭く睨みつけた。
「おまえにはまだ、為さねばならぬ使命が残っておる」
それは敵と戦うことではないのか。
一人でも多く、敵兵の生命を。戦力を削ぐことではないのか。
たとえこの生命尽きようとも。
「司令官殿! 敵を討つよう命じてください! 我が生命を賭け、使命を全ういたします!」
伝令兵は言いつのった。
「ならぬ」
だが司令官は首を振った。
そして投降した。
残る兵士ら全て、捕虜となった。
伝令兵を残して。
「おまえは逃げろ。逃げ帰り、知らせよ」
彼は司令官によって、一人逃された。
敵国からの愉悦に満ちた勝利宣言が寄越される前に。
エノシガイオス軍の伝令兵として、我軍の死戦を伝えるべく。
司令官の判断は、間違っていない。
間違ってはいないが、おめおめ生き残り、生き恥をさらすくらいならば。
若き伝令兵は、戦場で散る名誉をその名に刻みたかった。
「そうか……。よく戻った」
エノシガイオス公は震える声で、兵を労った。
「よく、知らせてくれた」
若き伝令兵は顔を上げられなかった。
エノシガイオス公は立ち上がった。うつむいてくちびるを噛みしめる兵を見下ろした。
細く頼りない肩が、屈辱に震えていた。
エノシガイオス公は若き兵の肩に、己の分厚い手を置いた。
「そなたが戻ったことは、喜ばしい」
「しかし……!」
伝令兵はエノシガイオス公を見上げた。
「信じろ。そなたの父を」
エノシガイオス公は血の気の失せた真っ青な顔に、壮絶な笑みを浮かべていた。
若き伝令兵の喉が、ひゅっと鳴った。
「司令官殿は、その、しかし、」
「そなたがたとえ私生児であろうと、そなたに我がエノシガイオス家の血脈が流れることを、誰が否定できよう」
エノシガイオス公は伝令兵の肩を強く掴んだ。
伝令兵は思わず、痛みに呻き声を漏らした。
「我がエノシガイオス家は不滅だ。トリトンはトライデントそのもの。あやつが生きておれば、いくらでも再建できる」
エノシガイオス公は伝令兵の両肩を掴み上げ、奮い立たせた。
「そなたも、我がエノシガイオス家の血を継ぐ者ならば、いつまでもメソメソするな。哀れに泣いてみせたとて、慰めの乳をくれる母親は、ここにはおらぬぞ」
「泣いてなど、おりません!」
伝令兵はかっとなって言い返した。
返り血や脂に肉片、煤や泥であったり、洗い落とされずにたまった垢など。様々な汚れが伝令兵の顔を覆っていたため、顔色はわからなかった。
だが彼の口調から予想すれば、おそらく赤く染め上げていたのだろう。
戦に出る以前には、なよなよと青白かった肌を。
「威勢がいいな。それでいい」
エノシガイオス公はにやりと不敵に笑った。
「それでこそ、エノシガイオス家の男」
海の覇者、エノシガイオス公。
彼はひとまずの撤退を命じた。
水夫達が忙しなく、渡り板を行き交いしていた。
次々に荷が積まれていく中、船首にも旗が掲げられた。
エノシガイオス家の旗印。
旗は濃紺色。
描かれる紋章は、交叉する金色の三叉槍。その上に浮かぶ、銀色の月。
若き伝令兵は、決して忘れない。
戦場で掲げた旗。
その紋章は、赤い血で塗り潰された。
代わりに、戦場に浮かび上がったのが、敵味方で交叉する、血と脂に塗れた槍。
それから、血煙の空に浮かぶ、真昼の月。
恥辱にまみれたエノシガイオス家の旗印。
それが今、船首でなびいている。
本来ならば、敵将の首を高く掲げ、エノシガイオス公は歓喜と誉れを称えられ、凱旋するはずだった。
しかし、船に乗り込むエノシガイオス公の背中は、萎れてなどいなかった。
若き伝令兵の記憶にある通り、威風堂々と大きく。
彼の前に聳え立ち、甲板から水平線を眺めている。
空には分厚い灰色の雲が覆っていた。
揺れる水面は、船からこぼれ落ちるオイルランプのかすかな光を拾って、ちらりと時折きらめく。
空と海はどちらも重苦しい鉛色で、境目は曖昧だ。
「必ずや、あの魔女を討ち取ってくれる」
若き伝令兵は拳を握り、決意した。
彼の身体を巡る、エノシガイオス家の血が、雪辱を果たさんと沸き立っていた。
エノシガイオス家の覇する海を前に。
エノシガイオス家の紺色の旗が、その紋章をくっきりと浮かび上がらせていた。
この旗を、血で塗り潰されたまま、終わるわけにはいかない。
此度の戦では、塗り潰された紋章。
交叉する金色の三叉槍。その上に浮かぶ、銀色の月。
雲間に隠された、銀色の月よ。
エノシガイオスの金色の槍で、鬱陶しい雲を薙ぎ払い、切り裂き。
おまえをふたたび、輝かせてやる。
トライデントの美しき、濃紺の空に。
俺が、この手で。
ご覧くださり、ありがとうございました。
今作は連載作「魔女の恋 〜150年前に引き裂かれた恋人達〜(https://ncode.syosetu.com/n1523gz/)」の閑話を独立した短編として抜き出し、掲載しております。