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12月。どんよりした雲が空にかかり、ビュービューとした北風が帰宅帰りの会社員たちに容赦なく吹き付ける。気温はマイナス1度。防寒着を来ていても底冷えし粉雪が舞う夕方、日も落ちあたりもすっかり薄暗い。宮沢徹はそんな中黒いコートのボタンをしっかりと止め電車を下りた。
夕方の6時。
宮沢は自分の腕時計で時間を確認し、多くの人の中を縫うように急ぎ足で駆け抜け駅の改札口を出る。
約束の時間まであと30分もあるのだがら急ぐ必要もないのだが彼のはやる気持ちがゆっくりすることを許さなかった。
久方ぶりの裏の仕事の依頼である。
宮沢は普段、派遣職員として営業の仕事をしているがどうも自分には向いているとは思っていない。毎日、電話で自社の商品の苦情や相談を受けて客には怒鳴られ、上司には対応が悪いと怒られる。
そんなんだから馴染みの情報屋から今回の仕事の依頼を聞いたとき思わず「よし。」と小さく拳を握ってしまった。
改札口を出ると古風というよりさびれた商店街にトラのマークのついた看板が見えてきた。そこでようやく宮沢は歩くスピードを落とし歴史を感じさせる居酒屋の左にある小さい路地に入った。
「相変わらず時間には早いな。」
路地にある勝手口の所で宮沢と同じように茶色のコートを着込んだ背の高い男性が小さなメモ帳に何か書き込みながら左手を挙げ合図をした。
今年50になる安田俊三は、元警察官のわりには人懐っこい笑みを浮かべている。今回の依頼主である。
「俺は人を待たせるのが仕事柄どうも苦手でね。」
宮沢は白い息を吐きながらいった。「ヤスさんも会社を勤めていたら分かると思うが遅刻はできないんだ。」
「そりゃそうだ。俺も警官だった頃はそんな感じだったなあ。」と安田は軽く相づちを打ち、そして勝手口のドアを開けた。
クリスマスが終わり、年末に近づきどの店も既にお正月の準備にかかっていた。安田が待ち合わせに指定した居酒屋も店の中は綺麗に片付けられており、調理場では30過ぎの女将さんが棚に置いてあるグラスを一つひとつ丁寧に布で拭いていた。
「何か飲むかい。外はかなり寒かっただろう。」
女将さんはニコッと愛層のいい笑みを浮かべ、お酒をピカピカになっているカウンターに出そうとする。
「いいや、今日は仕事できただけだから。すぐに用を済ませたら帰るよ。」
宮沢は慌てていった。彼はただ仕事の話を安田に聞きに来ただけだ。それに彼は酒があまり好きではなかった。店はシャッターを降ろしており、外の騒音はまったく聞こえない。ただチクチク動く時計の針の音だけが聞こえてくる。そして薄暗い蛍光灯の光線が宮沢と安田の真剣な顔を浮かび上がらせていた。安田とはもう5年の付き合いになるがヤバイ仕事の話をする時は、いつもこんな感じだ。
「さっそくだが今回の仕事、お前さんに頼もうと思う。かなり難しい依頼だが受けてもらいたい。」
安田は先ほど書き込んでいたメモ帳のあるページをビリっと破くと宮沢のほうによこす。宮沢はそれを一瞥しすぐに安田に返した。
「”辰人”の護衛ですか。」
そういった宮沢に安田は「いやあ、参いった。」と短髪で白髪交じりの髪を掻いた。
「お前さんは”巳人”。こういったボディガードの任務より暗殺のほうが得意だとはわかっいるんだけどね。ウチも仕事を選んでいる余裕がないのさあ。」
安田はようやく近くにあった椅子にどっかりと腰を降ろした。一方、宮沢は壁にもたれかかっているものの、まだ立ったままで聞いた。
「期間はどれぐらい?」
彼はイライラしたように少し不機嫌そうな声を発し、そして銀行に預けているお金を思い出した。宮沢は一応会社員ではあるが派遣だ。借金はないものの毎日の生活は決して楽ではない。
「2週間。もし相手が気に入ったらさらに延長。報酬もアップするらしい。」
「わかった。」
宮沢は二つ返事で承諾した。内容には不満があるものの断る理由もない。ボディーガードにしてはもらえるお金が高いので多少嫌な予感はするが、今は会社での仕事よりも裏の仕事のほうがやりがいを感じているし、何より派遣のヒドイ扱いを受けるのももうウンザリだ。彼は今回の紹介手数料を財布から出そうとすると安田は手を振りながら断り、「相手先から報酬は貰えるからいいよ。それより今度、一杯やろう。」
といい、相変わらずの人懐っこい表情に変わった。
1月1日。朝9時過ぎに大阪府豊中市内を出た黒光りする旧型のクラウンのタクシーは、渋滞に巻き込まれることもなく今、大阪市内に通じる御堂筋を走行していた。ベットタウンによくある大きなマンション群を通り抜けると向こうには巨大なビル街が見えてくる。西暦2070年。後部座席の窓から見える景色は50年前とほとんど変わっていない。
「お客さんも大変だね。新年初日から仕事なんて。」
運転しながらタクシードライバーは呑気な口調で軽口をいった。宮沢は「それはお互い様でしょう。」と少し苦笑いしながら雪雲が少し残っている青い空を窓から眺めた。12月末日、安田の仕事の依頼を受けた後、さっそくボディーガードする人物を調べ上げていた。
近藤京子、28歳独身。財閥、近藤グループの長女であり人類史研究の研究者でもある。1月末日にIT企業の社長、楽浪大地と結婚する予定。結婚が決まった去年の11月頃から何者からか頻繁に結婚を取りやめるように脅迫のメールや手紙が贈られるようになってきたという。独自で捜査しているものの今のところ成果はないと聞く。
京子は学生時代、モデルの仕事もしていたというからよくあるストーカーの被害の可能性もありか。
宮沢は少し濃紺に色褪せしている背広の皺を直しながら腕に付けいている電波時計を見る。9時20分だ。
「そろそろ着きますよ。お客さん。」
タクシードライバーはハンドルを握りながら車のスピードを落とす。前方には一際背の高いビルが見えてきた。ビルの看板には近藤ビルと大きく書かれている。朝日がビルの窓にあたり光り輝き、まぶしい。大阪市の中心街から少し離れた場所で周りには公園の樹木や街路樹の緑がちらほら現れている。
ビルの正面玄関、入口に車をつけてもらいタクシー代を払った後、宮沢は後部座席からゆっくりと下りた。今日は正月だから、建物からは人の気配はほとんどしない。入口のドアも固く閉ざされている。集合時間は9時30分だからもうそろそろか・・・。宮沢は少し不安を感じながらもう一度、腕時計を見た。
近藤グループといえば日本の金融業界では知らぬもののない名家の財閥だ。古くは江戸時代から始まり、今では金融関係だけでなく自動車、鉄鋼、保険など様々な分野に子会社を持つ。そんなグループだが裏の世界では”辰人”であり、武器の密輸、新兵器の開発を手掛けている死の商人である。とりわけ京子の祖父、近藤伊三郎は”竜王”と呼ばれており、この業界では知らぬ者はいない。今なおグループの会長でもある。
孫娘のボディーガードか。
単なる変質者によるストーカー行為であればいいのだが。
宮沢はそんなことを思いながら右手で背広の上から胸を押さえ、鉄の塊に触れる。嫌がらせと違い、裏の世界の人間が関与する案件になると赤い血と銃声が飛び交ってしまうこともある。報酬が高いので承諾はしたものの、安田から聞いた時からこの依頼がずっーと嫌な感じがしているのだ。とはいえ、約束の時間に近藤が現れないことには話にならないので落ち着かないまま待っていると5分ほどして新型のレクサスが入ってくるのが見えた。
「いやあ、早いですね。待たせて申し訳ない。」
後部座席から育ちの良さそうな40代前後の男性が下りてくる。近藤グループの社長、近藤勇雄である。
「いいえ、先ほど着いたばかりです。わざわざ社長自ら申し訳ありません。」
宮沢はすぐに深く一礼しておじきをすると、
「こちらこそ今回、エライ仕事を引き受けてくれてホッとしてます。私の娘がようやく嫁に行くというのにこんなことになってしまって・・・。あっ、どうぞ中へ。」
すぐに近藤は彼の秘書であるのか、隣にいる付き添いの黒いスーツを着た女性に非常用のドアを開けさせる。
静かで真っ暗な1Fのロビー内は人の気配が全くしない。
「私の部屋は6Fです。今回の顔合わせ、娘も同席させたかったんですが・・・。どうもこういったデリケートな話は・・・。」と近藤は浮かない顔をしながらエレベーターのスイッチを押した。
宮沢は近藤とは初対面だが、長年、裏の世界で人を観察しているので彼の顔を見れば心の中はすぐにわかる。そしてその表情を横目で見ながら彼の秘書をジロリと見た。
何だ。
この女性は。
メガネを掛け、黒い髪をショートカットにし、何とも言えない香水の匂いがする。
宮沢はこの秘書に出会ったときから違和感を感じていた。それは彼の勝負の勘が働いたのかもしれない。そしてそのことは近藤があまりにも性根が真っ直ぐ過ぎたから気づいた。