18話
俺が異世界に来てから1年と2ヶ月が過ぎた。一応、働き始めて1年が経過したこともあり、最初に働いて返すと言っていた"お礼"の期間は過ぎた。もっともだからと言って屋敷を出ていけと言われた事はないし、俺も出ていくつもりはない。石鹸作りはすっかり俺の趣味になってしまった。今では給料の多くをつぎ込んでいる。まぁ、他にお金使うところがないので然して気にはしていない。カインさんにお願いしていろいろ取り寄せて貰っている。ハーブから精油を取り出せる装置も自作した。
最近、新しい仕事を任されるようになった。朝にミナお嬢様を起こす係と執務中の休憩時間にお茶を入れる係だ。前まではエレナさんがやっていたのだが、そろそろ、人に直接奉仕する仕事を学ばせたいという事で俺に任せることにしたらしい。朝起こす事も、お茶を入れる事もある程度信頼されていなければ任されないのだろうし、少しは仕事ぶりを評価してくれてると思いたい。
ミナお嬢様は年齢の割にしっかりしているように見えるが、朝はすごく弱い。ドアをノックし、声をかけた後、上半身を起こし、櫛で髪を梳かして、濡れタオルを渡すまでが、朝起こす仕事の内容だ。お茶を入れる仕事はマナーがあるが覚えてしまえばそれほど難しく無かった。ミナお嬢様は礼儀にはあまりうるさくないが、仕事である以上きちんとやる事にしている。
仕事とは別に気になっていることもある。ミナお嬢様から色々アプローチされている気がするのだ、目が合うと微笑んでくるし、ボディタッチも増えた気がするし、俺に話かける頻度も上がった気がする。元の世界ではそれなりに恋愛経験もあったし、思春期によくありがちな勘違いではないと思う。好意を持ってくれるのは純粋に嬉しい。ただ、ミナお嬢様の立場や、俺の身の上や、この世界の価値観と合わせてどう判断したらよいか分からないのだ、一言で言うなら困惑と言った感情が一番しっくりくるだろう。よく分からないので、この問題には蓋をする事にした、つまり保留だな、卑怯な気がしたが、気持ちが落ち着いて、俺なりに判断できる材料が増えれば、答えを出せるのではないかと思っている。
日々は穏やかに過ぎていく。この世界、というよりこの国にも四季があり、今は丁度秋口に入ったころだ、良い季節になったとの事で、屋敷のメンバー5人でピクニックに行こうという話になった。提案したのはエレナさんだ。目的地は森の中の少し開けた場所で屋敷からは1時間くらいかかるそうだ。昼すぎに出て軽く食事を取って暗くなる前に帰ってくる計画らしい。森の中に入るのはゴブリンの事を思い出しそうで抵抗あったが、克服するにはいい機会だと思い直し行くことにした。
エレナさんを先頭に森の中に入っていく。ミナお嬢様とエレナさんとソフィアさんは革の鎧こそ付けていないが帯剣はしている。ワンナは木刀を持っている。最近エレナさんに剣技を教えてもらっているらしい。そのせいかワンナはエレナさんの事を"シショー"と呼んでいる。丸腰なのは俺だけで、手には少しだけ荷物を持っている。なんだか情けない絵だが、これがこの世界では標準なのだ。まだ、昼すぎなのであちらこちらで樵の音がする。森の中に入る際に何か心境の変化があるかな?と思ったが特に何も感じなかった。
道中は談笑しながら目的地を目指す。ソフィアさんはエレナさんと仲が良いのかこの二人が話しているのをよく見る。ワンナは色々珍しいのかウロチョロしてはエレナさんに怒られていた。俺の方は図鑑片手に地球と似た植物がないか探していた。ミナお嬢様はそんな俺を興味深そうに見ながら時々話しかけてきた。距離感は相変わらず近い気がする。森の中は湿気も多いのか苔があちらこちらに生えていて足元がふよふよしていた。苔の絨毯ていうやつだな。
そんな感じで普通に歩けば1時間程度の距離を倍以上の時間をかけて目的地についた、時間にすれば今は3時頃だろう。遅れたことについては誰も気にしていない。元々あってないような計画なのだ、エレナさんが食事とお茶の準備をし、それを俺が手伝う。食事が終わると各々(おのおの)好きなように過ごす、エレナさんとワンナは何故か剣の修行を始めた。ソフィアさんはそれを見ている。俺の方は図鑑片手に相変わらず探索している。ミナお嬢様も一緒だ。暫くして疲れたのか、ミナお嬢様が倒れた枯れ木に腰をかける。俺も探索を中断し、その横に腰をかけた。疲れていたんだろう、二言三言、ミナお嬢様と話した後に睡魔が訪れそのまま眠ってしまった。
目が覚めると隣にミナお嬢様がいた。肩に寄り掛かる様に寝てしまってたようだ、俺が"すいません"と謝ると、ミナお嬢様は"気にするな"と短く言って微笑んだ。時間はそろそろ星が出始めて、夜の風が吹き始める心地よい頃合いだった。結構、長い間寝てしまったようだ。キョロキョロと周りを見渡すと、エレナさん達は見当たらない。その事をミナお嬢様に聞くとゴブリンが出たそうで、退治しているそうだ。俺が大丈夫なのか聞くと、"大丈夫、ここら辺にゴブリンはいない"とクスリと笑って言った。それで何となく分かってしまった。多分、あの3人はミナお嬢様と俺を二人きりにしたかったのだろう。
宵口の森は、虫の音が響き何とも良い雰囲気を出していた。暫くして、ミナお嬢様が話し出した。
「ユータは自分の国に帰りたいとは思わないのか?」
「分かりません。」
短く答えた。俺は異世界からの転移者だ、この世界には俺の故郷はない。だけど、元居た日本に帰りたいかと言われると、帰りたいという気持は少なからずある。
「そうか、記憶がないのだったな。」
ミナお嬢様は、俺の答えを記憶がないせいだと思ったらしい。代わりに別の質問を投げかけて来た。
「ゼウル村は好きか?」
「好きです。」
色々ひどい目にはあった場所だが、村人は優しいし、静かな所だ、嫌いになる要因はほぼない。
「では、私達の事は好きか?」
難しい質問が来た。この好きはどういう意味なのだろう。好きか嫌いかで言うと間違いなく好きだろう。ミナお嬢様とは話していて楽しいし、エレナさんは尊敬している、ソフィアさんにも悪い感情は持っていない、ワンナは俺の事を慕ってくれている。
「好きです。」
とりあえず、そう答えた。
「では、ゼウル村以外の別の場所に行ってみたいとは思わないか?トピカ領だけでも結構な村や町があるが?」
なるほど、ミナお嬢様は俺がどこかに行かないか不安だったわけだ。確かに"お礼"の期間は過ぎた。縛るものは無いとも言える。俺は正直な気持ちを言う事にした。
「どこか別の場所に行こうにも当てがありません。それに…」
「それに?」
ミナお嬢様が相槌を打つ。
「僕は今のところミナお嬢様達の傍を離れたいとは思っていません。」
これは掛け値なしの自分の本当の気持だ、色々整理は出来てはいない部分はある。でもミナお嬢様達の傍に居たいという気持ちに偽りはない。
「そうか」
ミナお嬢様は何かを確認するように呟いた。
「ユータ目を閉じろ。」
「えっ?」
俺が戸惑っていると、さらなる追撃がくる。
「代官命令だ。」
「ずるいですよ。」
と言いながら俺はゆっくりと目を閉じた。
暫くして、石鹸に洗われた髪の匂いがフワリとしたと思ったら、唇に柔らかいものが触れた。
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
蛇足だが、俺たちの様子はバッチリと他の屋敷のメンバーに目撃されていて、帰り道に気まずかったのは言うまでもなかった。




