臆病
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──鐘の音だ。
それが奏でる真意を問わずには居られなかった、幼少期。何度振り返れば俺は報われた気になれるんだろう。
瞼から漏れた光に眼球が刺激される。もう少し、留まりたい。鐘の音を思い出したい。
「……にいさん」
そうだ、ただ、逃れたかった。
「混乱するのも、無理ないね。君は目覚めて二日だろ?」
瞬きを数回繰り返して、明度を調整する。
ええと、ここは、どこだ?
確か、学生の治療をしてもらうために、事務所に運ぶ必要があって、それで。疲れてソファに、眠ってしまっていたんだろう。かけられた膝掛けを落とさないよう、掴みながら起き上がる。
「……、アングラなんていうから」
結局のところ、エウヘメタルの地下に広がる通路を通った。慣れた道だ。地上と同様に、商店街もあるし、飯時には人がごった返している。ただ、地上ほど立ち入られることはない。それを利用すれば、先生の目を盗んで遊び回ることも容易かった。結局のところ、目立たなければいい。
地上に戻ることなく、事務所の扉を潜った。木製の古びた引き戸は鈍い音をたてて俺らを出迎える。
中は骨董屋と言われたら素直に納得するほど、アンティークが並んでいた。統一感のない品々は、売り物ではないらしい。あくまでも、事務所にいる人間の趣味だと。ジャンルのばらつきが激しかった。
「どちらにしても。開かないんだ」
「何が?」
「一階の玄関」
「はぁ? 困るだろ」
「まさか。愉快な同居人だぜ。僕は毎朝、玄関まで出向くんだ。挨拶代わりに、ドアノブを捻る。押しても引いても、ビクともしない。その一連の動作に、生きた心地すら感じ始めたところだよ」
変な人だ。玄関は、正統な入口。開かなければ訪問者が困る。
「俺に、直せるかな。立て付けが悪いだけかもしれないし」
「え……っ? 路上生活はごめんだよ」
「失礼な。これでも工業科出身だ」
「……、なるほど。そりゃあいいね」
信じてないな? 半笑いがそれを物語っている。興味が薄れたのか、顎を擦る。
「間明くんは、どんな状況でも夢を見れるタイプ?」
「なんだよ。夢じゃねーぞ」
「さっき、『義兄さん』って呟いていたから」
「な」
聞こえてたのか。こっぱずかしい。
「……古い記憶が、蘇っただけだ」
にたにたと笑みを浮かべる真関さんの意識を本題に戻すために咳払いをする。
「あいつは?」
「経過は順調。ドクター曰く。『持病のおかげで軽傷』だそうだよ」
「持病?」
「話をしたらわかるさ」
「話、ね……」
「気が進まない?」
「そんなわけあるか」
ただ、ドクターに苦手意識を持っている。そんなちっぽけな理由だ。
首を長くして待っていると言ってもまさか──まさか、キリンのマスクをした白衣の人間が待ち伏せていると、誰が思う?
慣れた様子の真関さんを見る限り、日常的にマスクをしているのだろう。
『キリンさんになる』、というのであれば、マスクを使い分けているのかもしれない。
「ならば行こう。君の知らない世界ってやつを見に、さ」
■■■
ドアノブを捻る前に深呼吸をした。脳裏を過ったのは、青い顔をして震える学生と、赤い染み。
扉を押すことに、一瞬躊躇した。
「……ハ」
全く、呆れる。
笑いが漏れたついでに、扉を強く押し出した。
薄暗い廊下に、電気の光が煌々と射し込む。
室内には、簡素なシングルベッドと本棚が備え付けられていた。
ベッドから体を起こしていた学生と目を合わせた瞬間、ドクターの言った病名が思い当たった。
臆病。
それは、誰だって心のなかで飼っているであろう獣の総称でもあった。
逸らされる目、俯く顔、硬直した体。学生は息を潜めて、こちらを窺っている。
患者服に血が付着していないことに、一先ず、安堵の息が漏れた。
「こんにちは。今、話いいかな?」
入口に佇んだままで真関さんは学生に声をかけた。その声には、物心がつかない、小さな弟にでも話しかけるような優しさがあった。
学生は顔を上げない。それでも、静かに頷いたのを確認して、真関さんは柔らかく笑った。
「……僕は、真関塁」
学生が、勢いよく顔を上げる。
真関さんは有名人なのか? 学生は、驚きからか、口の開閉を繰り返す。真関さんは学生の言葉を待つ。柔らかい笑みを湛えたまま。
「真関って、死体専門の」
「俗称はね! でも、それには誤りがあるんだ。僕は」
「……はは」
学生から漏れたのは、乾いた笑いだった。すべてに、諦めがついた。そんなため息を吐いて、吐いて、吐いて。胸を、服の上から強く掴んだ。
「それなら、俺を」
ハッ、と荒く息を吐く。
「俺を……、殺してください」