アングラには穴蔵
ハンバーガーショップの自動ドアが開く。吹き抜けた風は、熱と解放感を運んできた。
店内の、風船を膨らまし続けたような陰気臭さが失せ、肺は新鮮な湿気を取り込んでいく。
あれは別世界での出来事だったのだと、笑い飛ばせれば良かったのに。
じんわりと、汗が滲む。手汗で滑り落ちそうだ。体を背負い直すと、学生の口から呻き声が漏れた。
「それで」
案内人兼鞄持ちに徹していた真関さんが、立ち止まった。目の前の信号は青だ。しかも、変わったばかり。怪我人を背負っていても、渡るには十分な余裕がある。
「本当に、この子を助ける気なの?」
振り返りながら放たれたそれは、理解できない方程式を前に、手をあげる生徒のような声だった。
逆光は、顔から窺えるはずの感情を黒く塗りつぶす。
質問の意図を理解するためには時間が必要だ。
でも、答えはどの道変わらない。
「当たり前だろーが」
反射で答えても、事情を考慮した後でも。助ける以外の選択肢を採れるもんか。
「だから早く、病院に」
時間が惜しい。
真関さんを追い越して、横断歩道を渡る、直前。
「それなら尚更。病院に連れてはいけないね」
真関さんの手が俺を制した。踏切の遮断機がごとく、行く手を阻む。
「は」
救急車は急患を運ぶためにあるんだろうが。助けるんじゃないのか? それとも、命を軽視してるのか? 店内でのあいつらみたいに?
「一応、聞くが」
込み上げる苛立ちを、寸前で飲み下す。
「……その、理由は」
「もちろん、もう人じゃないからだよ」
その否定は、たぶん、日常の延長線上にある。
「ハ……」
残念ながら、耳を覆う手は塞がっている。聞き間違いだと思い込むには、真関さんの視線は真っ直ぐすぎた。
──腐ってる、何もかも。
学生を抱える手に、力を込める。
人ではない。なら、背中の学生は一体なんだって言うんだよ。
目の前の男が、人であることを否定したのは二度目だ。
……それでも。一度目、真関さんは間違いなく助けようとしていた。だから、俺は協力を選んだ。
「……そこに、“死体”専門探偵を名乗る理由がある、のか?」
俺と真関さんの間には、溝がある。俺の知らない、常識が。
「僕は一度だって、自称したことない」
拗ねた様子に、だらしなく開きそうになった口をつぐんだ。
率直に、意外だった。笑顔を張り付けて肯定するものだと、オカルト言説が続くのだと思っていた。けど、そうじゃない。
「……君はさ、何のために僕を訪ねる気だった?」
「俺は」
思い出すのは、紫色の瞳。金色のナイフが映って、一層輝きを増したあの、瞳だ。
──「ナイフだけがぼくを、人であると証明してくれる!」
単の血液を、生への希望に。金のナイフは換えて、魅せた。
単の鈍い金色の髪を差し置いて、それは何よりも代えがたいものだと、すげ替えてみせた。
人には価値がある。だから、その資財を切り捨て、お金に換える。
でも、そんなの、おかしいだろ。
奥歯を噛む。
「これから向かうのは、君の事務所だよ」
真関さんの声は弾んでいた。まるで、祭りの前夜だ。もしくは、桜の蕾を見つけたような。
そんな興奮が、うっすらと言葉に乗せられていた。
けれど、意図は掴めていない。宙に浮かんだままだ。
事務所? 何の。それに、誰のだって?
「俺の?」
「世界を暴きたいんだろ?」
「俺は、探偵じゃない。それに、暴くだけじゃダメだ。……正さないと」
「あは、間違いない」
横断歩道を渡る人々は、一瞬だけ、俺たちに奇異の視線を注ぐ。
信号は点滅を数度繰り返した後、赤に変わった。
ルールに則って、車道には車が行き交う。歩道橋があれば、信号を気にせず向こうへと渡れたのだろう。
額から汗が垂れる。煩わしい。背中に篭った熱が、焦りとを苛立ちを膨張させていく。
……落ち着け。感情を昂らせた上で、適切な判断を下す、そんな大層なことを為せる人間か? 違うだろ。
どうして真関さんを訪ねたか。どうして学生を助けたか。
いずれも、歪んでいた。その歪みである金のナイフが、当たり前の価値を引き裂いた。俺にはそう映った。
だから、金をこよなく愛せるクズに聞き出す必要があったのだ。
ズリ落ちてきた学生の体を背負い直す。
「どうすれば助かる?」
「事務所に運ぶ。ドクターの首がキリンさんになる、その前に。あと四十秒くらいだね」
「無茶言うな」
信号は変わった。向こうには渡れない。ふたたび青になるまで一分以上かかる。青信号だったとしても、横断歩道を渡って、角を曲がって、直進している間に四十秒は余裕で過ぎる。走ったとしても、とても間に合わない。
「知らないの?」
真関さんの人差し指が、真下を示す。
「木を隠すなら森の中。アングラには、穴蔵だぜ」