歪みの谷
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「人がお金に換わった、って言ったら、信じられるか?」
メモを取っていた手が止まった。済の顔が、ゆっくりとあげられていく。かち合った目線に冷や汗が流れた。
済は眉根をぐっと寄せて、怪訝そうな顔をしている。
「どこで頭を打ってきた? キャバクラ?」
好感触とはいえない反応に、胸を撫で下ろす。いや、これは『ホッとした』とか、静かな動きでは収まらない。安堵感が沸き上がっていく。歓喜といっても過言ではない感情が胸を占めていく。それほどまでに待ち望んだ正答が与えられた。
昨晩の出来事を思い出し、堪らず小指を見つめる。
紙幣の感触。単の体温。コンクリートに滴り落ちた血液から響いた、金属音。
俺が見たのは異常だった。
「何を聞き出す気でいる? オマエの方が詳しいだろ。銀行員なんだし」
俺は銀行員だったのか、と反射的に出かかった言葉を飲み込む。
済の手帳の余白が、点で埋められていく。ペンで手帳をリズミカルに叩くのは、思考に耽るときの癖だ。顔が伏せられ、表情は読み取れない。
数秒の間の後、済はため息をついた。
「人が金に換わる? 当然だろ」
「人が、金に換わる、当然……?」
「珍しく連絡があったかと思えば……。それとも、知ってて言ってるのか? ハ、ひでぇ趣味してんな。いや、職業病か?」
ビリ、と頭が痛む。
「……ちょっと、待って、もらっても、いいか」
視界から得られる情報全てを、黒で覆い隠す。クーラーに冷やされた腕がひんやりとしている。少しだけ、頭痛が和らいだ気がした。
出来ることなら、耳も塞ぎたい。でも、これが現実であるならば、目を背けるだけでは何も得られない。
わかる。理解はある。だから、この現状が、苦しい。
ならば、──息を吸え。深く、深く、……もっと深く。
冷房の効いた空気が肺を満たす。
そして、吐け。余計なしがらみもこの際、吐き出してしまえばいい。
想像をしよう。血液は体を巡り、冷たい酸素を脳みそまで行き届かせる。腕を下げた先には、一段とクリアになった視界。
明確に想像が出来た。
それでも、心臓は暴れまわっている。俺はいつまでも俺のままだと、憎く証明していた。
……仕方ねぇなあ。
落ち着かせるために、もう一度息を吸ってから、腕を下げる。
済の瞳は、俺の知り得ない憎悪を宿していた。
ああ、わっかんねぇ。
「もういいか?」
「……続けてほしい」
「あ、そ。望むなら、答えてやるよ」
手にしていたペンを放り投げて、済はソファーに沈み込んだ。
「価値あるものが金に換わる。だから『人間』は、金に為る。別に、不思議でもなんでもねぇ」
常識が、そっけない言い草から浮かび上がる。
「話って、そんだけ?」
靄は晴れた。視界も良好だ。
ただ、目の前に広がっていたのは埋まらない溝だった。想像していたより、ずっと深い。
崖だ。それは、途方に暮れそうなほどに。
「……概ねは」
味の薄くなったアイスコーヒーを喉に流し込む。
苦い。間違いなく、『昨日』まで飲み親しんでいた味だ。記憶に相違ない。
隔たりが少し埋められたように感じて、安堵の息が漏れた。
「フーン……。なら、オレの番」
済が居住いを正す。ピリッとした空気が流れ、思わず息を飲んだ。瞳に宿っていた憎悪は姿を消している。
「ビジネスをしよう」
済の一言は先程とは違う意味で、頭痛を誘発させた。
金髪の子供の影が色を濃くしていく。
「ここの住人は何にでも取引を持ちかけてくるな……」
「極めて自然な流れだろ?」
「どうだか」
二言目に取引を持ちかけてこようものなら、『極めて自然な流れ』はそう遠くないうちに俺のトラウマになるだろう。
「これは、今のオマエにとっても有益な取引になる」
「わかった、全部飲むよ」
二つ返事で承諾すると、済は形容しがたい笑みを浮かべた。悦、呆れ、驚愕、落胆が交じった、あべこべな表情だ。
たぶん、想像通りに事が運んだことを受け入れられなかったのだろう。
「……、いいのか?」
「今更だろ」
済がどんな人間かは、熟知している。
情報に目がない収集バカで、推察能力はずば抜けて高い。
そして、なにより、取捨選択を得意としている。
疑う余地もない。
「ご、……五年も経てば人は変わるんだぞ」
「変わらねーよ」
「事情があって騙している可能性……、考えないのか?」
「なら、事情ひっくるめて、済と解決策を考えるさ」
済は深いため息を漏らした。呆れることにしたらしい。
「相変わらずだな」
「よく言うよ」
再会の場所に、この喫茶店を指定してきた時から予感はあった。
相変わらずなのは、済の方だ。
俺が危ない橋を渡ろうとしていると、いつも、肩を掴んで止めてくれる。
リスクを説明しても尚、俺が折れない場合には命綱を渡す。
それが俺の親友兼幼馴染、済 かけるだ。
「オレがオマエに与えるのは、今、この瞬間の、『間明 晴間である』保証」
この瞬間の、俺である、保証?
「お前は知ってんだろ?」
「何を?」
「歪みを」
──「ナイフだけがぼくを、人間であると証明してくれる!」
「……ああ」
思い浮かんだのは、ナイフに心酔する、単の姿。紫色の瞳の輝きが頭から離れない。
「……そして、どうやら記憶喪失らしい、と」
「ああ」
さすが済。隠し事は出来ない。
けれど、本人の予想していた反応と違っていたらしい。浮かべていた『してやったり』、という顔は一瞬で崩れた。
ダン、と済の拳がテーブルを叩く。そのあと、あーとか、うーとか、形容しがたい声を出して、長く息を吐いた。
鋭い視線が、俺を突き刺す。
「オマ、エ。……自分の口から話せよ」
「それどころじゃなかったんだって」
「それでも、だ」
記憶喪失も十分、夢であって欲しかった。それ以上に、昨晩の出来事全てを否定したかった。
夢だと思いたいものほど、笑えるくらい全部つながっていく。
「済は、俺に、何があったんだと思う?」
「あー……、そうだな」
済は眉根を寄せながら手帳を開いたかと思うと、何かを書き写していく。
「どんな模範回答を期待しているかはわからねぇ。でも、それに応えそうなヤツなら心当たりがある」
差し出されたのは、名刺だ。表には、済の名前と所属する会社が印刷されている。
そして、裏にはたった今、書き写された住所。
「死体、専門、探偵事務所、真関、塁……?」
死体専門という字面から香る、物騒の二文字。
「貨幣を愛する変態だ」
加えて、変態ときた。それも、お金を愛するタイプの。
「亡者ってやつ?」
「ハッ。亡者なんてカワイイもんだ。アイツはまさしく、この世で生きるに相応しいクズだよ」
済は今日、一番のニヒルな笑みを浮かべた。
「そいつが、俺の先生って訳か」
『感覚も重要な情報』と豪語する収集バカは、敢えて何も知らせないことが多い。
そんな済に、クズと言わしめる相手。それほどまでに、インパクトの強い相手なんだろう。
「面白いネタ、待ってるぜ」
「高くついたな」
「ハ。そりゃあ、オマエの働き次第だろ」