白亜の下
実感が全身を駆け巡り、否定が現実味を帯びていく。嫌だ、認めたくない。済は俺を忘れていないし、済だって存在している。
真関さんと、俺は、違う。
「ハ、」
漏れたのは自嘲の笑みだ。
……否定したとして、その感情の行き先はどこだよ。
溶けた氷を飲み干して、グラスを空にする。自分の記憶だけを追い求めていた昨日すら、ずいぶん遠い過去のようだ。
「…………、俺と真関さんは、どこで会った?」
「言っただろ? ″昨日″ぶりってさ」
今日会ったにも関わらず、昨日ぶりだと真関さんは言う。真関さんが口にする昨日は、″今日の前の日″を意味していない。
「……だから、答えになってねえんだって」
知りたいのは、俺の中になくて真関さんにはある、俺たちの共通項だ。
「端から用意されてないからね」
「してないんじゃなくて?」
真関さんは「僕、そこまで意地が悪そうに見える?」と首を傾げた。今までの翻弄っぷりは、素らしい。
……絶対嘘だろ。
「誰も約束を守らなくてもよくなったんだよ」
「どういうことだ?」
言ってる意味がわからない。約束も、守らなくてよくなった意味も、誰のことを指しているのかも。
「端的に言うと、世界の連続性が機能を失ったのさ」
「嘘だろ」
「嘘じゃないよう」
即刻否定が堪えたのか、珍しく弱々しげに首を振った真関さんに、違う、と俺も首を振る。
「どこが端的なんだよ」
「あ、そっち?」
わかりやすさは重要だろ。
「今日は、確かに″今日″だけれど、昨日と繋がっているわけじゃない。わかるだろう? 君の昨日と、済くんが過ごす今日には亀裂がある」
言いながら、真関さんはマスターに視線を送って、片手を挙げた。席までやってきたマスターに、指を二本立てる。
「プリンタルトふたつ! あと、アイスカフェオレ!」
「かしこまりました。ただいまお持ちいたします」
会釈をして離れていくマスターを見送りながら、済……じゃなかった、────の様子を窺う。荷物をまとめて退店するところだ。思わず立ち上がった。
「なあ」
────がドアに手をかけたところを呼び止める。
「もう一度、名前を聞いてもいいか?」
振り向きざま、────の眉間に皺が寄ったのが見えた。でも一瞬だった。
「……私の名前は行代 青葉です。今度こそ覚えていてもらえると嬉しいですね。それでは」
完璧な笑顔を浮かべながら、一息で言い切る。復唱もお礼を言う間もなく、行代さんは喫茶店から立ち去った。
……相当嫌われてるな。
まあ、心象が最悪なまま、覆していないんだから当たり前か。俺からすれば、覆すも何も前提からして全く違うんだけど。
席に戻ってくると、早いことにプリンタルトが運ばれてきていた。真関さんはアイスカフェオレのグラスを傾けている。飲みっぷりがいい。そりゃあ、今日も暑いんだ。喉は乾く。
「どうして声をかけたの? 未練?」
「済 かける」の一言が聞けたら、どれだけホッとしただろう。
「ちげえよ。ちゃんと、確認しておきたかっただけだ」
向こうは俺のことを知っているのに、俺は知らない。フェアにしておきたかった。せめて、教えてもらった名前くらいは。
行代青葉。名字も、名前も重なるものは記憶になかった。
孤独感に苛まれる結果だ。
「律儀だね。君とはもう、一生会わないかもしれないのに」
同期だっていうなら、会社に行けば会えるだろ。どうやって働いていたか、今の俺にはわかんねえけど。
「……これも、忘れるからか?」
真関さんが知る俺、単が語る俺、俺が覚えている済、行代さんから見る俺。すべてに、少しずつズレが生じていた。
果たして噛み合うのか疑わしい。
「忘れないこともあるよ。例えばプリンタルトの味とか」
「食べようよ」と、タルトのプレートをひとつ、俺の方にスライドさせた。
「これぞ正しく、生きてるって実感する味だ」
しっとりとしたタルトをフォークで突き刺して口に運べば、甘さの中に混じるカラメルの苦味が広がっていく。豊かな味わいに思わず頬も緩む。
記憶に刻まれた味。
「……真関さんはどうして、俺に声をかけたんだ?」
開口一番「昨日ぶり」と笑っていた。
初対面だと言い張る俺に、動揺もしなかった。俺が真関さんのことを忘れていると、わかっていたはずだ。




