Re:act
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喫茶店の場所は、覚えていた。
歩道橋を渡って靴屋を右折、数メートル歩いた先のティーカップの看板が目印。
来た道を振り返っても、記憶は飛ぶことなく鮮明に思い出せた。
歩道橋の階段を上ると、小さな影が視界に入る。思わず駆け寄って声をかけた。
「単!」
歩道橋の欄干によじ登って下を覗いていたのは、見覚えのある金髪の子供。
「やあ、こんにちは。間明のお兄さん!」
「落ちるぞ」
風が吹いてバランスを崩せば、道路に真っ逆さまだ。
「もう。挨拶はビジネスの基本だよ?」
口を尖らせながら、欄干から飛び降りる。良かった。
「こんにちは、単」
「はい、こんにちは!」
単は嬉しそうにパタパタと右手を振る。ほぼ反射的に、目が小指を追った。
「……その、指」
凝視する俺に、単は一瞬首を傾げる。すぐに思い至ったようで、自分の右手の指を「いち、に、さん、よん……」と一本ずつ数え始めた。
「ご。……うん、生えてるねえ」
「は?」
生えたって、小指が? すんなり肯定されて、混乱する。
「だって一昨日……やっぱり、あれはマジックショー」
だったのか、と腹立たしさよりも安堵が上回る、寸前。
「あ、でも。ほら!」
無邪気な笑顔と突き出された左手に遮られた。
「お兄さんと指切りした左の小指は、変わらず、あのときのままだよ!」
切り落とした小指。巻かれている包帯で、断面こそ見えない。
それでも、一昨日の光景は目に焼き付いている。止まらない血も、単の表情も、金属が落ちた甲高い音も。
一瞬、吐き気が込み上げる。飲み込まされた常識は、未だに根付かない。
……ああ、そうだ。まだ根付かずに、在る。
「……覚えてる?」
単は、恐る恐る俺の小指を握った。
しゃがんで、単の目を見る。不安に揺れる紫色の瞳。
控えめに握られた手を、握り返す。
「全部、こびりついてるよ」
忘れられるわけがない。あんな衝撃。二度とごめんだ。
「ほんと~? 嬉しいな」
くすぐったそうに、繋いだ手を揺らす。浮かべた笑顔は年相応に見えた。
「間明のお兄さんとお話をするの、今日は二回目だね」
今日は、二回目? 変な言い回しだ。
「……今日で、だろ?」
言い間違いを正したつもりだった。けれど、単は首を振る。
「朝、真関のお兄さんを追いかけてたでしょ?」
ああ、また。俺が知らない、俺の影がいっそう濃くなる。ドッペルゲンガーを追っているようにすら思えてきた。目眩がして、眉間を押さえる。
「邪魔したの、やっぱり怒ってる? だからごまかすの?」
俺を巣食っている空洞の輪郭は、今だ不明瞭。
手にした瞬間から手放す始末。
「だって、全部、覚えてるんだもんね……?」
識らない。わからない。
その感覚には、もはや慣れが来ていた。驚くだけ今更。腐れ縁が顔を見せた感覚すら抱き始めた。
「なあ、俺、指の話も……朝してた?」
まさか、しないわけがない。聞きながら、答えは分かっていた。
単の反応が物語っている。不思議そうな顔も、不安に揺れる瞳も。同じ話を繰り返す知り合いと遭遇すれば、誰だって戸惑うし心配する。
繋がっていた手が、そっと離れていく。
「待っ……」
なくした感覚に思わず顔をあげた。
包帯が巻かれた左手が視界に入る。
約束を破りたくない、守りたい。嘘じゃない。
それでも、俺は……いつまで誠実で居られる? いつか、約束すら忘れるんじゃないか?
「もー、仕方ないお兄さんだなあ」
カーテンを突き抜ける光のような、明るい声だった。
真関さんと重なる。安心していいよ、と笑うあの姿が。




