記憶の再分配
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挑んだのは、無謀な賭けのはずだった。
「立て付け、……悪くねーな」
……なんで?
あまりにもあっさりとした感覚に、思わず手を離す。
バタン、と目の前のドアは音を立てる。
建物を間違えた可能性は、表札を確かめることで消えていた。
思い出すのは、真関さんの言葉。
──「どちらにしても。開かないんだ」「一階の玄関」
財布も端末も忘れたと気づいたとき、あんなにも血の気が引いたっていうのに。
「なんで、嘘なんか」
ただの意地悪で言った、とか。……あり得る。けど、わざわざ一階を塞ぐ意味は?
ため息を漏らしながら、ドアノブに手をかけた。
相変わらず理解が追いつかない。
でも、扉が壊れていなくて良かった。
直すより注意する方が遥かに簡単だ。
「真関さんなら、早々に出たが?」
「は、……痛!?」
人の姿に驚いてドアに頭ぶつける。衝撃の強さに、うずくまった。
「大丈夫か?」
心配そうな声が上から降り注ぐ。顔を上げると、ドクターの姿があった。
「すいません……」
謝りながらも、マスクを凝視してしまう。
昨日はキリン、今日は鶏のマスク。……朝だから?
素顔はわからないまま。仕草はたおやかだけど、口調は堅苦しい。表情がわからないのは、やっぱり不安に感じる。
「その……行き方、忘れて……」
口にしながら、今でも信じられない。だって俺は、道を覚えるのは得意なはずだった。
訪れたのが数年前だったなら、記憶が朧気で辿り着けないかもしれない。でも、真関さんに連れられて来たのは、昨日。
エウヘメタルは生まれ育った街だ。目印も通りも把握している。
なにより、失った″後″の真新しい記憶、なのに。
来た道を戻ろうと振り返ったとき、なにも思い浮かばなかった。
「でも、助かりました。悪くなかったんですね、立て付け」
「……ああ」
いつから立て付けが悪かったんだろう。
事務所というよりは、倉庫の一部分に足を踏み入れたような玄関スペース。
玄関として機能していない、誰かを迎え入れる空間とは言えないくらいの乱雑さ。立て付けを理由に、掃除をサボっていたんじゃないかとすら思える。
続く廊下も、事務所と同じような統一性のない小物が並んでいた。本は本棚に並べられているかと思えば、はみ出て積まれているものもある。
「あれ、これ」
本棚の上の写真立てに、目を奪われた。
瞬間、強烈な違和感を抱く。
エプロンをつけた真関さんと、俺と済の姿。
おそらく、調理実習。記憶にある家庭科室と全く同じ。
だけど、俺の記憶では真関さんは──。
「……ああ、垣内のクラスメイトだったんですね」
写真の中で笑顔を浮かべる、真関さんと垣内と、ハンバーガーショップに居た二人。
クラスメイトだったのなら、真関さんが垣内のことを知っていても不思議じゃない。
「……君は」
凛とした声が響く。思考が止まり、反射的に顔を上げる。
「五秒前に考えていたことを思い出せるか?」
馬鹿げたことを聞かれた。でも、あまりに大真面目なトーンだから、一瞬怯む。
「……そりゃあ道には迷いましたけど。そのくらいなら」
五秒前は、写真の違和感を探っていた。
「真関さん、ちゃんと馴染めてそうで良かったです」
真関さんの言動は、現実から浮いているように感じた。わざとはぐらかして振り回しているんじゃないかと、疑ってもいたけど、笑顔を浮かべる姿は幼い。友達に恵まれているみたいで、良かった。
もう一度写真をみる。
そこには、雲ひとつない青空が広がっていた。
「問おう。真関さんは、どこに?」
「え……」




