君の憂き目
「君は、これに何を望んだの?」
「そいつの用途なんて、ひとつだ」
「違うなあ。僕が知りたいのは、君が、“お金”で何を求めたかだよ」
お金の向こうにある、あらゆる望み。
それは、己の欲を満たすためであったり、祈りや願いであったり、生きていく上で避けられない障害の排除であったり。千差万別だ。人の営みが続けば、その選択は無尽蔵に発生する。
「貸せ」
柄の部分を手のひらの上で転がしていたナイフが、忽然と消えた。
悪寒が駆け上がる。それは緊張の糸でもあった。ピンと張りつめたそれに吊られ、咄嗟に顔を上げる。
「これが答えだ」
男の眼球には、憎悪。そして金色に輝くナイフの先端を映す。
男の首を目掛け、串刺さんと一筋の線を引く。
咄嗟に手が伸びた。それは、人では到底埋められない一瞬。
それでも。
届かないのであれば。少しでも強く、踏み込むだけだ。
ナイフが描く軌道を数ミリでも動かせたなら上等。
安定した踏み込みはいらない。
もたれ掛かっていた壁を蹴りあげて、右腕を軸に突進を仕掛ける。
「いッ……てぇ!」
ヒュッと風を切る音を皮切りに、静寂は切り裂かれた。
男は突進の勢いになす術なく、真後ろに吹き飛んだ。
ナイフがこぼれ落ちて、再び甲高い音が響き渡る。
軌道はずれ、串刺しは免れた。男の首筋に、つ、と垂れた赤い糸に安堵の息が漏れる。
「おっ、と」
流しきれなかった衝撃。ふらついた体を壁に預けて、深呼吸をする。
早鐘を打つ心臓は、暫く速度を緩めることはないだろう。
お互い、頭を打たなかったのはツイてる、ということで。
「それで、ゴホッ……何が、答えだって?」
埃くさ。深呼吸しなきゃよかった。
男は倒れ込んだまま動かない。その瞳には、さぞや綺麗な月が映り込んでいることだろう。なんせ、今夜は満月だ。
屈んで手を差し出せば、一瞥もくれずに振り払われる。
なるほど、見とれるほど綺麗な夜空というわけ。
僕が顔を上げた瞬間、月は雲の影に隠れてしまった。
月に群雲、花に風。
それでも、月光の恩恵は受けられる。
「良い月夜だね、透明人間」
「ハ。透明人間なのに、見えんの?」
「聞こえてるさ」
息を潜めていたなら、見つけられないかもしれない。でも、声を上げて泣いていたなら辿り着くことは出来る。
「僕は、その傲慢さを愛すよ」
ようやく、目が合った。
月光差すその黒い瞳の奥には、一体何を秘めているのかな。軽蔑、安堵、疑心、困惑、恥辱、渇き、諦観。
駆け巡っているだろう感情のどれを、君は重視する?
男はのっそりと起き上がると、しばらく僕を睨め付けた。睨み付けると言っても、敵意までは感じられない。
結局、僕から興味を無くすことにしたようだ。ふい、と目を逸らしもう一度その瞳に月を映す。
「知らねーくせに」
「へえ。恨めしいかい?」
言葉の代わりに、舌打ちが返ってきた。
君のことを何も知らない僕や、君を救おうとしない浮世。その上、無力感に苛まれる自己と来た。
舌打ちのひとつもしたくなるってものだ。
それでも、月は皓々《こうこう》と僕らを照らす。
月光が賜う恩恵は平等だ。ただし、地上の僕らが築き上げた、砂上の城を除いて。
見えるものが総てという確証は存在せず、水月もまた、永遠を保証してくれない。
水面揺らす波紋は、君の憂き目を呼んだろう。
──価値がある人は、金のナイフで換金が出来る。
刷り込まれた理を信じて疑わなかった信仰者が、価値を求めて手を伸ばした先に待つ、虚ろ。
「その身に価値が宿ってると盲信し、ナイフを向けた、愚かな君」
唯一無二の価値に焦がれてすがったのに、人間としての価値は自分に亡いと──存在は既に骸であると、証明に至った。
慈悲なき神様は、なんと死体蹴りがお上手なことだろう。
男の首筋に垂れる血液を、ワイシャツの袖で拭って、口許を緩める。




