軋轢
「伏せろ!」
叫びながら、音の正体について考える。一体、何が起こった?
前触れなんてなにひとつない、一瞬の出来事。
学生も俺も、咄嗟に頭を押さえて姿勢を低くした。
火薬の臭いが、鼻につく。脳が独りでに描いていく、最悪の状況。
「……全く、“相応しい”とはよく言ってくれたもんさ。こんな不健全な世界で、限度なき無責任を教えてくれてありがとう! あは、我が世の春って、もしかして今の僕のことを指してる?」
でも、広がっていていたのは地獄絵図ではなかった。
顔を上げて、真関さんの様子を窺う。
その手には、クラッカーが握られていた。
「……うん、その通りに違いない!」
「いやなんでクラッカー」
舞い落ちる紙吹雪。学生の頭には、カラフルな紙テープが絡みついている。
俺も、きっと学生も。状況を飲み込めていない。
「おめでたいときにはクラッカーを鳴らす。常識だよ。あ、もしかして、……知らなかった?」
「なんで申し訳なさそうにする?」
「祝われたことがないのかと憐れんで」
「正直者!」
「僕はいつだって正直者だよ!」
これほどまでに、正直という言葉を胡散臭く感じさせる人も、なかなかいないんじゃないだろうか。
自分で突っ込んでおきながら、正直者ってなんだ? 真関さんから最も遠い言葉じゃないか?
「一緒に祝う?」
俺と学生にひとつずつ、クラッカーを差し出した。というより、押し付けてきたが正解だ。手に収まったクラッカーを鳴らす気は起きない。
「なにひとつ、祝う要素がないだろ」
「おめでたいさ。なんせ、待ちに待った神様のご降臨! 盛大に祝福してもらわなきゃ、堕落も辞さない」
「堕落したら、どうなるんですか」
「そりゃあさ、……どうにもならないよね」
「なんです、それ……」
「君の人生と一緒」
真関さんは、学生の頭に絡まった赤いテープを摘まんで、笑った。
「それなら、……どうして助けたんですか?」
学生がまとったのは、ゆらゆらとした、陽炎のような苛立ちだった。極めて冷静を装いながらも、声色に乗った憤りは隠しきれていない。
ナイフを突きつけるかのような鋭さで、真関さんを睨む。
「そりゃあ、捨てる神様が居れば拾う世間知らずが居るってだけだよ。ねぇ? 間明くん」
「……今更何も言わねぇよ」
神様は知らねぇ。でも、自分が世間知らずだということは、目覚めてから痛感している。
小指の感覚を確かめる。まだ、切り落とすわけにはいかない。
「俺は、貴方の身勝手の生贄ってことですか」
そうだ、と口にする前に、真関さんが怪しげに笑った。
「いいね、張り合いのある傲慢さだ! だからこそ、君は人質に相応しい」
真関さんは、赤いテープを学生の首に引っ掻けると、引き上げるように持ち、その身を自らの元に寄せた。
「な……」
視界に捉えた瞬間には、既に学生の首には金のナイフが突きつけられていた。
唾を飲み込む動作すら、許されないほどの至近距離。刃の角度を変えただけでも、喉を切りかねない。
「っにしてんだよ……!」
反射的に、パイプ椅子を掴む。
……真横に投げ飛ばして、気を反らす? それとも真関さんに直接当てるか?
いや、どちらも最善とはいえないだろう。
「わかるね?」
ナイフを避けようとすれば、真関さんとの距離は縮まり、──真関さんの拘束から抜け出そうとすれば、ナイフはその刀身で赤を刻み込む。
対象は恐怖に侵攻されているし、突く隙は密着することで塞がれていた。
絶対的支配。人質。
真関さんは、交渉に出る気だ。でも、いったい、なんのために?
「……お前のこと、一度だってわかったことねぇよ」
「あは。いいね、理解に近づいてる」
ずっとコレだ。いつまでも突拍子がねぇ。近づいてる? バカ言うな。どう見たって遠退いてるだろ。しかも、亀裂付きで。
……考えろ。俺の持つカードはなんだ? 望まれた組は一体?
「取引をしよう。銀行屋」
「……え?」
俺以上に、動揺を示したのは学生だった。銀行員は、広く認知されている職業だ。その業種は、今さら目を見開くほどのものではないだろう。
……いや、たぶん。
ないはずだった、が正しいのか。




