とんでもない客
9月上旬のとある昼過ぎ。石川香澄は、とあるカフェの店内カウンターから窓の外を見ていた。
幸い、平日の昼を過ぎた頃ということもあって客の入りも落ち着きを見せていたので、店員である香澄がボーっと窓の外を眺めていても誰かに咎められるということはなかった。
香澄の目に映っていたのは、一人の女性。金色のボブヘアーで、パステルブルーの七分丈のワンピースを着ている彼女は、誰かと電話をしているようだった。
店の窓を覗き込んだかと思えば、がっかりしたり電話の相手に怒ってみたりと忙しない彼女は、電話を終えると店内に入ってきた。
イリス、もといイリーナは乾いたのどを潤そうと近場の「オアシス」というカフェに入った。店内は昔の迎賓館を思わせるような落ち着きと気品にあふれる内装であった。なれどそれをイリーナは知らない。
神界にいるときに、『カフェとは何か?』をテーマに書かれた本を読んでいたため、知識だけは持っていた。
生まれて初めてのカフェにドキドキしながら、店内の案内に従ってカウンターへと向かう。
「いらっしゃいませ、ご注文は何になさいますか?」応対してきた女性店員の左胸には、ひらがなで「いしかわ」と書かれたバッジがつけられていた。
手早く済ませたかったイリーナは、一番安いアイスコーヒーのSサイズを注文した。
用意できるまで待つよう言われたので手ごろな席に座ろうとしたが、店員から呼び止められた。
どうやら自ら席に運ぶシステムらしい。イリーナを不安が襲い始める。それもそのはず、神界では従者に身の回りの世話を任せていた彼女は、まともにものを運んだことがない。急に自分で席まで持っていけと言われ、緊張しだした。
カウンターから頼んだアイスコーヒーの入った、使い捨てプラスチックカップが乗ったトレーが出てきた。かたわらに置いてあったガムシロップとミルクポーションをとりあえず一つずつ入れ混ぜて、トレーを持ってみる。
わずかではあるものの腕の震えは止まるところを知らず、零すまいとイリーナの視線はトレーに一点集中していた。
順調に運べているとイリーナが軽く安堵した刹那、視界の中のアイスコーヒーが揺れた。時間差で襲ってきた右下腹部の痛み。なにかに当たったようだ。
「痛っ!」イリーナの声とともに宙を舞うSサイズのアイスコーヒーのカップ。声に振り向く店内の全員の視線は、イリーナではなくカップに向けられる。
注目の的になったカップは、体操選手の回転技のごとく回りとある常連客の服の上に着地した。その中身は、かの客の真白なワイシャツを茶色に染め上げた。
「ちょっと!痛いじゃないの!この店、どうなってるのよ!?」
「どうかしているのは、あなたではないですか?」イリーナの怒号にすかさず返したのは、店員の香澄ではなくコーヒーをかけられた男性客、氷山七緒だった。