6.それはそれで当然だと思っていたので、怒りも失望もない
「なぜ、夜に働きたいのかね」
席に着いたカヤにノーエルは開口一番そう言った。
「久しぶりだね」も「今日はわざわざご足労願って」もない。
挨拶抜きの単刀直入な物言いは、いかにもノーエルらしいとカヤは思う。
なのでカヤもそれに倣う。
「私、考えたんです。人間の心のバランスを支えるのは、自立・共感・反省以外にもあるのではないでしょうか」
「ほう、それは?」
「恐怖です」
ノーエルはそう言ったカヤの目をじっと見たあと、やがて言った。
「より正確には、畏怖だな」
「畏怖」
「超越的な存在への怖れの心。その対象は、ときに神であり、ときに大自然であり、あるいは宇宙でもある。人間を超えた大いなる存在への根源的な怖れの気持ちだ」
「はい」
「畏怖は悪への抑止力となる。だが、扱いが難しい。桜宮マドカを襲った男に起きたことからもわかるように」
その男は自分が誰なのか分からず、日がな一日、自分の足の親指を眺めているという話だった。
「人間をあのような状態にするのは、我々の本意ではない」
「私には難しいことは分かりません。でも……」
とカヤは言い淀む。
「つづけて」
「マドカのことですが、もしまた同じことが起きたら、私は同じ判断を下します」
「なるほど」
「それがルール違反であっても、間違っていることであっても、私はそうします」
「それは、君が天使の力を手にしていることを前提とした話になるのではないかな?」
「確かにそうですね」
「君に天使の力を授けるのは我々だ。ならば、我々のルールに従うべきでは?」
「そう思います。それを理解した上で、私はそのルールを破る可能性があるとお伝えしておきます」
カヤはきっぱりと言う。
「ふむ。面白い」
とノーエルは真面目な顔でうなずいた。
「それで、君が夜にアルバイトをしたいというのは、畏怖……君の言う恐怖を人間たちに与えることも必要だと考えたからかな?」
「はい」
「そうか」
「それが私の条件です」
ノーエルはテーブルの上で手を組む。
「ルールを破ると堂々と口にする者を雇うわけにはいかない」
「そうですね」
そう言われることは覚悟していた。
それはそれで当然だと思っていたので、怒りも失望もない。
お互いに条件を提示しあい、折り合うなら手を握り、折り合わないなら手を振る。
そこに感情を挟む必要はない。
そうした考えをカヤに教えたのは母親だ。
カヤは立ち上がり、軽く頭を下げる。
「では、私は帰ります。またお会いできて、うれしかったです」
条件が合わないと分かったのだから、これ以上ここにいる必要はない。
ノーエルにしても忙しいだろうし、雑談に花を咲かせる雰囲気でもなかった。
しかしノーエルは軽く首を振ってテーブルを示す。
「まだ話は終わっていない。座りたまえ」
「……はい」
「君がルールを破ることを受け入れることはできない。それは前提として認識しておいてもらいたい。だが、正直なことを言えば、我々は忙しい。君の行動を逐一観察しているゆとりがない。もし君がルールを破ったら、それは自己申告で知らせてもらいたい。君が申告をしない限り、我々は君のルール違反を知りようがない。そして我々は君がルールを破る可能性があると言ってはいるものの、そういうことはしないと信じた上で君を雇うことにしたい」
「………」
「私の言っていることが分かるだろうか」
「はい」
と苦笑を抑えながらカヤは真面目な顔で応える。
ここはそうすべきシチュエーションなのだろう。
つまり暗黙の了解。
要はノーエルは「目をつむるけど、あまり無茶はしてくれるな」と言っているのだ。
よほど人手が、いや天使が足りないらしい。
「わかりました。よろしくお願いします」
そう言って頭を下げた次の瞬間、テーブルには天使のセットがのっていた……。