月下美人
月下美人。英名で、夜の女王。
花言葉は「艶やかな美人」「はかない美」「強い意志」
一目見たとき、その花の名が浮かんだ。
長く伸びた絹のような黒髪。きつく、しかし上品に香る煙。目眩を覚える程整った顔立ち。冷たく陰りのある瞳。
同時に連想されたのは彼岸花。
艶やかな唇を彩る鮮烈な紅がそうさせたのか、はたまた、彼女から漂う冥土の空気がそうさせたのか。私には分からなかった。
彼女と私は相反する場所にいる。
少なくとも仲間と、手を取り合える場所にはいなかった。
情け容赦なく人々を苦しめそれを快楽とする彼女と、人々を護り崇められそれを成し遂げていく自分とは、天と地ほども距離があった。
だがどうしてだろう。
私は彼女を、悪と呼ぶことは出来ずにいた。
…こういった事を言葉にするのは甚だ気恥しいのだが勘違いを与えたくはないので弁明させてもらおう。
勿論、乱した着物の裾から覗く白い肌は抗いようのない魅力を持っていたし、仕草と一つ一つはどれも艶っぽくはあった。
だがそれが理由ではない事だけここに誓いたい。
彼女の瞳には、危うげな幼さが見えていた。
罪のない人間を易々と撃ち殺してしまい、その身を誰とも知らぬ男に委ねざるを得なかった彼女が持つべきではないであろう、酷く純粋で無垢な幼さ。
背筋がぞっとした。
どんな凶悪な行いより、それは恐ろしい事に思えた。
加えて、それを美しいと思う自分にも、酷くぞっとしたのを覚えている。
今思えば不思議な話でもない。
私は言わば普通の人間でーたまたま英雄等と呼ばれてはいるがー人に対する善し悪しを感じるのは当然のこと。
それは誰に咎められる事も無いただの自然の摂理、それをただ好いと貫けるかどうかは別として。
あの時の自分には、分からなかったのだが。
様々な話を聞いた。
彼女がされた仕打ち、これまでの生き様、今の彼女を作りあげているもの。
どれも己が身を引き裂かれそうな程痛ましく切なかった。
何よりそんな少女が、今こうして憎まれ殺意の対象とされている事が絶えられそうにもなかった。
彼女を良しとしたいのではない。
ただ彼女が背負わざるを得なくなった罪の重みとその理不尽さにいたたまれなくなった。
彼女はその内に私の仲間を撃ち抜き、賭けに1人負けすまいと足掻いた。
次に目にした時には彼女は何処にもいなかった。ツユという新たな名を受けた、幼い少女があるばかりだった。
愛いい少女だった。
よく食べ、よく笑い、よく話す。表情はころころと変わり見ていて飽きなかった。
あぁ、この子だったのか。時間が経つにつれ私は納得した。
彼女の瞳の奥に眠っていたのはこの少女だった。一片の曇りもない少女、これが彼女の本質なのだろうか?
私は初めてこの地の人間をほんの少しだけ憎んだかもしれない。
かもしれない、というのは、自分でも自分の心が分からないのだ。
長く英雄という偶像をこなしたせいだろうか、自分の気持ちが他人のもののように思える節があった。これはもう、どうしようもない事だ。
もしあの時の感情がこの地の人間に対する憎しみだったとしたら、私はま自分を愛する事が出来るだろうと思う。
ツユはゴウセツによく懐いていた。
まさに家族とでも言うべきか、その親密さが見て伺えた。
私は様々な問題に東奔西走してる間、ずっと同じ事を考えるようになった。
彼女にとって、どんな結末が幸せなのだろうか。
いつしか英雄としてではなく、1人の人間としての考えが強くなっていた。
だが現実はそうもいかない。
私はその事を1番よく知っていた。
だから彼女が美しき蛮神に変貌したその時、あまり悲しみも驚きもなかったのだ。
ただこれが定められた運命だと、半ば機械のように杖を取るだけだった。
何の為でもない。
ただ自分の悲願と、いつぞや愛した人の為、戦う1人の少女がいた。
私はその想いに答えるだけで精一杯だった。
足元に横たわる彼女はやはり美しく。
最期まで復讐に身を投じ切った健気さが愛おしく。
喜んだらどうだい、なんて憎まれ口も抱きしめてしまいたくなるような響きがあった。
多くは語っていないから、どうして私がここまで慈しむのか誰にも理解は出来ないだろう。現に私自身、全てを理解はしていない。
だが理由なんて必要だろうか。
彼女が汚れきってしまったことも。
身内を己が手で殺めて行くことも。
こうして散っていくことにだって。
全てに理由など用意はできない。
宿屋の窓際、1人空を見上げている。
満月が煌々と私を照らす。
彼女は幸せになるには罪を犯しすぎた。
不幸になるには悲劇に襲われすぎた。
あの結末は、彼女にとっての幸せだったろうか。
少なくとも私にとってはそうでないにしろ。
甘い香りがする。
月下美人は咲く時に強い香りを漂わせるそうだ。
彼女の煙の記憶と重なる。
罪とはいずこにあるのだろう。
彼女を大罪人とするのであれば、私は極悪人とでも言うべきか。
大罪人を演じ切った彼女に少しばかりの拍手を送りたいと思ってしまった私は。
1枚、花弁が落ちた。
儚いものだ、一夜の命とは。
ーもし誰かがあの冷たい手を取れていたら。ゴウセツともっと早くに出会えていたら。彼女はツユのような少女になれただろうか?幸せで純粋にいきれたのだろうか。…だがそうはならなかった。だからこの話はここで終いだ。それ以上もそれ以下もないんだ。
答えの出ぬ問を繰り返すのはやめだ。
この気持ちがなんであったか考えるのも、ここまでだ。
月に雲がかかる。影が私を飲み込む。
ふと、月下美人の花言葉を一つ、思い出した。
今更、くだらないな。
乾いた花弁を、私は食んだ。